偶然隣室で仮眠を取っていた菊地原の耳に届いた声を聞いて彼が最初に思ったのは「まじで?」だった。
風間さんと春さんが付き合っていることは何となく察していたが、2人がボーダー内でそういう雰囲気を出すことはほぼ無いため直接話題に触れたことはなかった。
この「ほぼ」というのも春さんを前にした風間さんの声色が幾分か柔らかくなるという他人どころか本人達も気付いていないのではと思うような些細な変化だったので、それ以外で2人の関係の片鱗に触れるのは初めてだった。
(いや片鱗どころじゃないけど)
隣室から聞こえる雑音は明らかに行為中のものだ。そういう映像を見た事はある。街中や住宅地を歩いて居るときに行為中の声を聞くこともある。しかし知り合いが隣室で行為に及んでいる場面にかち合った事などない。
(…春さんて、こんな声出るんだ)
普段より声を抑えている様子の壁越しに聞こえるくぐもった喘ぎ声はあまりにも甘ったるく生々しかった。いつもの姿からは想像もしないような表情をしているのだろうまで考えて、自分は何を想像しているんだと我に返る。

菊地原が春を最初に認識したとき恐らく2人はもう付き合っていた。正直「何でこの女なんだろう」と思った。ブスではない。が、化粧っ気もなければグラマラスな見た目でもない。愛想はあるが、研究に入り浸ると風間さんの連絡にも1週間返事をしないこともザラらしい。食事を忘れるたび風間さんや諏訪さんに食堂に引っ張られて行くのも見たことがある。もっといい人は居るだろう。風間さんは何でこの女を選んだんだろうと思った。

その認識がひっくり返ったのは知り合ってから半年ほどたった頃だった。ある日、本部で春さんが菊地原に気づくや否や血相を変えて寄って来た事があった。その日菊地原は本部に忘れ物をしてどうしても取りに来なければならず、普段ならば絶対乗らない満員電車で本部に来た。昔から人混みの雑音は嫌いで、満員電車に関しては地獄の方がマシだと思える程の拷問だった。そんな満員電車に乗る事自体数年ぶりだったが、大きくなったし多少免疫も付いて居るはずと思ったが人間はそう簡単に苦手を克服できるものではなかったようだ。
「ねえ大丈夫?顔色悪い」
春さんに会う前に何人の知り合いとも会っても投げかけられなかった言葉をかけられたときの感情は純粋な驚きだったが、途端その感情を噛みしめる前に菊地原は春に向かって嘔吐していた。

「そっか、満員電車で酔っちゃったんだね」
見上げている天井は風間隊室の天井だ。たまたま通りかかった風間さんが横になるだけなら医務室に行くより近いからと連れて行ってくれた。
「あの、すみません、服…」
「え?全然いいよ。さっきトイレで洗ってきたし。後は帰って洗濯すれば」
エンジニア室に置きっぱなしになっているというスウェットに着替えを済ませた春さんはケロっとした顔で言ってのけるが、自分だったら他人の吐瀉物がかかった服なんてその場で捨てると思う。
そんな服、捨ててください。新しいのでもなんでも弁償しますから。ねえ、春さん、どうしてぼくが顔色が悪いって分かったんですか。今日だって春さん意外、誰も気づかなかったのに。春さん、
「春。あとは俺が見るから戻れ。仕事が残っているだろう」
「そう?じゃあお大事に」
「ありがとうございました…」
隊室から出て行く春さんを情けない体勢で見送る。問いかけは喉から出ないまま消えた。

(なんでよりによって隣の部屋にいるんだよ)
元々菊地原はカプセルホテルのような仮眠室が好きではなかった。なんでみんな不必要な雑音に苛まれる空間で寝られるのか不思議だった。サイドエフェクトがないからというのはわかっているけれど。だから個室の仮眠室ができると聞いた時はわりと喜んでいたのに、なんでこんな場面に遭遇する羽目になっているのだろう。
風間さんは結構強引だとか、してるときの春さんは風間さんのこと名前で呼ぶとか、知らないほうが良いことを一晩の間に100個くらい知ってしまった。おかげで静かになった後も一睡もできず、早めに隊室に着いてあくびをかみ殺しながら紅茶を淹れていたとき風間さんが現れた。
「…おはようございます」
「おはよう」
「風間さんも紅茶飲みますか?」
「ああ」
風間さんは昨日春さんとセックスしていたなんて分からない普段通りの無表情で、今までもきっとこんなふうにセックスしていたんだろうなと思った。
春さんはまだ寝ているのだろう。あの仮眠室で。風間さんも寝ている春さんを起こさないようにそっと、ゆっくり起きてきたのだろう。ぼくたちや諏訪さんたちにも見せない表情を彼女に投げかけながら。人の気も何も知らないで。
「菊地原」
「はい?」
ふいに名前を呼ばれて顔をあげる。
「顔色が悪いぞ。寝不足か?」
「え…」
視線がかちあう。何気ない日常会話のはずなのに、まるで、昨日の行為に聞き耳を立てていた自分のことを知っているかのようなそんな視線だった。まさか、全部。
ツンと張り詰めた空気がこちらを見ている。
「昨日、少し寝れなくて」
「そうか」
ぼろぼろの嘘でしらばっくれる。誰のせいだと思いながらそれを本人に言うことはできない。
風間さんは全部気づいている。気づいているうえで仕組んでいたんだ。自分が彼女に好意になりきならい感情を抱えていたことも。
「…春さんは元気ですか」
「昨日会った時は元気だったな」
お互いに白々しいと思っていたに違いないが、核心に触れることはできなかった。
だって自分だって知っていた。2人がどれくらい好き合っているかくらい。風間さんのあの声色を聞けば他人が入る隙なんてないことは分かる。だからこそこの感情を名前のあるものに昇格しないように努めていたのに、彼女を利用して彼女を好きになるなと牽制する風間さんはあまりにも残酷だった。

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