その状況を脳が理解した瞬間、視界はじわじわと滲み、うつむいた瞬間こぼれた涙は頬を伝う前に床に落ちた。ずっと握りしめた指先が手のひらに食い込んでいるのに痛みを感じない。自分の気持ちがいっぱいいっぱいであることを知った。この場から離れなければと空間に背を向ける。こんな状況でも脳の一部は冷静に働き、足取りは人通りの少ない通路を選ぶ。すれ違う足音は徐々に減っていき、自分ひとりの足音になったときやっと足を止めた。

人気のない廊下で20分ほど立ち止まっていただろうか。まだ何も終わっていない。後処理も引き継ぎも、何も終わっていない。戻らなければ。頭では理解しているのに、瞳から溢れる感情が付いてこない。手の甲でまぶたを押さえつける。止まれと念じながら本当に戻らなければと元来た道に振り返る。
「うおっ…春?」
振り向いたそこに居たのは廊下ではなく人物だった。頭上より名前を呼んだ声の主が私を転ばせないよう背中に手を回す。見た目よりしっかりした胸板に顔を埋める形になり大変居心地が悪い。
「た、太刀川さん?」
A級のナンバーワンアタッカーに、いちオペレーターが図らずしも抱きしめられる状況にあたふたとした気持ちを抱えながらも声色を取り繕い胸板を押し返すが、手はほどかれない。
「なんか、泣いてる?」
うつむいたままのわたしに無遠慮で図星な言葉が降りかかる。
「泣いてない」
背中から離れた手はいともたやすくわたしの顎を掴んで強制的に顔を上げさせられ、あっけらかんとした口調が即座に否定を覆した。
「泣いてじゃん」
「…」
「ああ、仲良かったっけ」
他愛ない話でもするような、軽い口調だった。吐き出された言葉が私の心に細かい傷をつける。

数時間前、近界からの攻撃があった。本部も大きな被害を受けた。現れた近界民はイレギュラーにも黒トリガーを何本も持っていた、らしい。

私は今日は非番の日で、大学の空きコマを利用して図書館で溜まったレポートを片付けていた。
戦闘が始まってしまうと、トリオン体を持っていないオペレーターは警戒区域に入れない。警戒区域に行けないということは、ボーダー隊員でありながら何も出来ないと言うことだ。
戦闘の最中何も出来ない焦りを抱えながらも、戦闘員の無事を願い、警戒区域の立ち入り規制が解除されたら早くみんなの仕事が円滑に進むようにといつもの職場に行くつもりだった。
数時間後に立ち入り規制は解除され、一目散にオペ室へ向かったが、ドアが近づくにつれ、纏う空気は重くなり、足早だった速度がゆっくりと落ちて行く。それでも立ち止まることは出来なかった。すれ違う担架に救命措置を施す人は居ない。誰かが誰かに向かって「行かない方がいい」と言った。その相手は私だったのかもしれない。
見慣れたはずの職場の入り口で足を止める。消えていない鉄のにおいが鼻先をかすめる。デスクやイスは無残にも破壊され、無数の血痕が散らばっていた。状況を理解し、私は踵を返しその場から逃げ出した。

「あの日の気持ちは嫌ってほど覚えてるのに」
「…」
「これから大事な人を失うたび、こんな気持ちにならなきゃいけないんですね」
結局近くにあったベンチに言われるがまま座らされ、差し出されたコーヒーを握りしめる。殉職したのは中央オペレーターの同僚で、大学の同級生だった。レポートを一緒にやったり、休みの日は一緒に出かけることもよくあった。仲の良い友人だった。
先ほどの無遠慮な発言などなかったかのように何も言わない太刀川さんが隣で天井を見ている。
「太刀川さん、私、本当は今日か仕事だったんです。でも…明日彼氏とデートになったから変わってほしいって言われて」
あの嬉しそうな表情を思い出す。付き合って半年だった。今度は続くといいねと、前の彼氏は半年で別れたからねと小突きながら。いつ合わせてくれるの?と笑い合いながら。
コーヒーを握りしめる拳に力がこもる。
「あの子は、本当なら明日彼氏と…家族にも…本当なら、私が死ねば」
「それ今、春の隣にいる俺に言うんだ?」
ずっと黙って天井を見上げていた彼が口を開いた。
だって、と口から溢れる。オペ室の様子を見た時。殉職したのが友人だとわかった時。あの日みたいに再び心の中が空っぽになった気がした。家も家族も友人も失ったあの日みたいに。底の見えない黒い穴の中に突き落とされたような気持ち。
積み上げてきた大切なものが、全部無くなってしまったあの日。
太刀川さんがそれでも、と言葉を紡ぐ。
「俺はお前が生きててよかったと思うよ」
「…」
「俺と付き合えばいいのに」
瞳を持ち上げると、視線がかちあう。様々な感情を遮るように、太刀川さんの指が私の頬を撫でた。

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