か
  ら
  ん


 あの場に行ったのは、十を数える年の時の、一度切りだった。
 其処は、夜だと云うのに暗闇に負けんとばかりの祭り林のような提灯の明かりがあちこちに散らばっており、昼間と何一つ変わらない賑わいがあった。只その賑わいを作り出していたのは、聞き慣れない訛りで饒舌に話す女達と、男。
 生温い風に混ざり鼻を掠めた何かの香りに顔をしかめる。ふらりと眩んだ視界をなんとか気力で持ちこたえ、鼻をつまみ、大勢の人混みの中をずいずいと進んでゆく親方様達から離れまいと必死で後を追った。

「あんた、男じゃない」
 突然捕まれた着物の裾につんのめり、転びそうになった。不意に背後を取られるなど。親方様に知れたら叱られてしまうかもしれぬとばつの悪い気分になりながら振り返ったそこに居た声の主は、自分より一寸ほど大きい女子だった。
「男なのに売られてきたの」
 何故か声を潜めてそう言った女子は、自分の顔を覗き込んだ。必要以上に顔を近づけるのがここのお決まりなのか、この女子も同じように近づけてくるものだから、少し後ろに下がってしまった。
「…某は売られてなどおらぬ」
「ならなんでここにいんのよ?」
「親方様のお供で着いて来ただけだ」
「ふうん、元々住まってた子なの。じゃあ飽きられたんだ」
「何を申すか、飽きられてなどおらぬ!」
 思わず荒げてしまった声に、女子が少しだけ驚いたような表情を浮かべた。ざわり。波打つ人の波が自分達の方を見ていることに気づく、と同時に、女子が自分を呼び止めたときと同じように着物の裾を掴み歩き出した。
 入り組んだ建物と建物の間では女の喘ぎ声が聞こえた。それが何かを考える間もなく、慣れたように音を潜ませ早足で進む女子は、確かに身長は自分より幾分か大きいようだが、よく見れば腕も足首も遥かに細く、一度剣の稽古をしようものなら簡単に折れてしまいそうだ。
「何に逃げるのだ?」
「こんな所で子どもが目だったらまずいでしょ」
「某は子どもなどではない!半月前に十を超えたばかりだ」
「あたしと同い年?」
 そう言って突然立ち止まり振り返った女子の鼻に自分の額をぶつけてしまった。
「いった!」
「す、すまぬ。すぐ親方様を呼んでくる故…」
 鼻を押さえつけうずくまる女子がうなった。自分の頭は評判な石頭だったのでこんなに細い女子に頭突きなど、鼻の骨が折れてしまってもおかしくないのではないか。とにかく親方様を呼ぼうと立ち上がる、が、しかし、こんな場所に親方様の姿などあるはずがなく、途端に先ほど言われた不吉な言葉が頭を過ぎる。売られるだと?そのようなことがあるはずがない。親方様が、某を売ることなど、まさか。まさか。
「何泣きそうになってるの」
「…なってなどおらぬ」
 うずくまっていたはずの女子がいつの間にか起き上がり、先ほどと同じように自分の顔をのぞき込んでいた。実に拍子抜けであるが、今はそれどころではなかった。じわりじわりと嫌な汗が額に浮かんでいく。
「あんた、本当に同い年?」
「某は…嘘などつかぬ」
 女子の前で泣くなど武士にしてあるまじきことであるが、そうも、言って居られなくなってきた、かもしれない。
「…あんた」
「幸村ァ!何処だ幸村返事をするのだァアアア!武田信玄は此処であるぞ幸村ァアアアア!」
 女子が何かを言いかけた途端に、聞き慣れた叫び声が響き渡る。
「何?」
「おっ」
「お?」
「親方様さばあああ」
 声のほうへ勢いよく駆け出した途中で、女子が小さく「ゆきむら」と云った気がしたが、振り向くことはしなかった。

 あれから、俺があの場へ行くことはなかった。だからあの女子がどうなったのかを知る術はなかったし、そもそも名前も棲んでいるところも知らなかった。何よりもう声も顔も思い出せない。それなのに、今になってもふと思い出すのは、同い年だと云うのに大人びた表情や落ち着きに、心を惹かれ憧れていたかも知れないと、しんと静まる月明かりを眺めながら思った。



こ  
ろ  
ん 

 あの子の顔を見たのは、私が十のときの、あの日一度切りだった。
 ことん。姐さんが鉢の中に煙管の灰を落とす。ふわりと空気に溶けた煙を静かに眺める。
「あんたはまだここでよかったじゃないか」
姐さん達が笑う。
 桂屋の主が遊郭に新しい遊郭を作ろうとしている、という噂を姐さん達が話しているのを聞いて、背筋に悪寒が走った。今まで遊郭とは女の園であり、裏方への男の立ち入りは、去勢された者と主以外は許されて居なかった。いや、男の玉が切られようが腐り落ちようがかまうことはないのだ。その桂屋の主が新しく立てようとしていることというのが、何でも、男女を問わぬ十五ほどまでの子どもを集め奉仕させるもの、らしい。
「あそこの旦那のところで働いてるガキはかわいそうねぇ」
「でも元からそういう人だったんでしょう?」
「子どもに奉仕させるなんて何考えてんのかね」
 今ここで自分がやる奉仕と言えば、茶を組み、布団を敷き、客の遣いをする程度である。その店では、どのような奉仕が成されるのか。悪寒。
 そう遠くない場所で、女の喘ぎ声が聞こえた。

 その子は、あまりにもこの場所で浮いていた。自分の身長より小指一本ほど小さいその子は、見るからにこの場の空気に戸惑い、匂いに酔い、何かからはぐれまいと、必死になって前に進んでいた。だから、いつかの自分の姿を見ているようで耐えられず着物の端を掴んだのだ。

「あんた、男じゃない」
 振り返ったその子は、少し驚いたように目を見開き自分を見上げた。
「男なのに売られてきたの」
 桂屋の話は本当だったのか。こんな子が。一応声を潜めて聞いたわたしの問いにムッとして答えるその顔には、拭えない裕福さが漂っている。
「…某は売られてなどおらぬ」
 こんな場所に訳もなく裕福な家の子どもが来るはず無い。売られてきた以外に何があるというのか。自分の立場が分かっていないのだろうか。おめでたい子どもである。
「飽きられてなどおらぬ!」
 声を上げ、自分の顔を見据えたその男の子に迷いは無かった。可哀想な世間知らずなのかということにして、ぽつぽつと視線が集まってきていることに気づく。呼び止めたときと同じように男の子の着物の裾を掴み、急いで裏路地に駆け込み前に進む。
 質問も何もかも、幼さが見え隠れした。
「あたしと同い年?」
 思いもよらぬ返答に、もう一度顔を見ようと立ち止まり振り向く。
 ごつん。鈍い音とビリビリという衝撃が鼻から頭蓋骨に響く。思わず鼻を押さえつけ地面にうずくまった。
「いった!」
「す、すまぬ…すぐ親方様を呼んでくる故…」
 そう言った男の子が急に黙りこくる。先ほどから随分と親方様を慕っていたようだが、やっとここに来て見捨てられたということを自覚したか。痛みをこらえ顔を上げれば、案の定今にも泣き出しそうな男の子は、やはり同い年というには物足りなかった。
「あんた、本当に同い年?」
「某は…嘘などつかぬ」
 しょぼくれたその顔には一番はじめの覇気など微塵も感じられない。
「…あんた」
 あんた、一緒に来ない?
 そう言おうと思った。そう言いかけた途中で、とんでもないおじさんの叫び声が遊郭中に響き渡った。
「何?」
「おっ」
「お?」
「親方様さばあああ」
ふるふると体を振るわせたその男の子は、途端に顔を光り輝かせ覇気を取り戻し、声が聞こえた方へとかけていった。

「ゆきむら」
 人混みに紛れる前に見えた背中に向かって小さな声で親方様が呼んだその男の子の名前を呼ぶ。わたしの声に、男の子が振り返ることは無かった。

 後に、その男の子は武田将軍家の家臣の息子だと言う話を聞いた。本当に、ただ単に大人に付き合わされて来ていただけだったらしい。
 そのことを耳にした瞬間、体が熱くなった。あの子に少しでも同情していた自分が恥ずかしかったし、何よりも嫉妬心があった。遊郭の汚い空気で育った子どもが、綺麗で清く健全な子どもに憧れないわけがない。
 そしてきっと、今頃、健全に成長したあの子は、剣を取り、戦に勤しみ、こんな場とは正反対の清潔感溢れる屋敷で親方様とやらと杯でも交わしているのだろう。
 ぼんやりとしか思い出せなくなっていたその顔を思い出し、煙を吐きながらゆきむら、と呟いた。

 か
  ら
  ん
こ  
ろ  
ん 

「某はこのようなところ、来たくなかった」
 まるで子どものように口を尖らしそう言った旦那は、付いてからもずっと下を向いて拳を握りしめたままだった。十七とはいえ戦に出れば負け知らずの真田の総大将ともあろうお方が、女を前にすればこんなウブな青年とは、思わず苦笑いが零れる。この青年の初陣の祝いに来たと云うのに、脂汗を浮かべて顔を真っ青にしているその姿は、まるで拷問部屋に連れて行かれた浪人のようだ。否、実際この青年にとってはこちらも拷問部屋に等しいのだろう。
「女に酒ついで貰って飲んでいればいいんだよ」
「酒など自分でつげる」
「そういやぁ、昔迷子になったことがあったんだっけ」
「その様な事を掘り起こさずとも…しかし此処の空気は苦手でござる…」
 小さい子どもがこんな場所で一人きりにされたときの恐怖など計り知れないものだったろう。何より、今までこの青年が吸ってきた空気はこんな香や酒臭さ漂う場所で無く汗臭さと古びた鉄の香りがする場所であったし、育ってきた場所だって人工的な提灯の明かりなどでは無く青い空に浮かぶ太陽の光だった。根本的に、この青年は正反対の場所で生まれ育ってきたのだ。農民が武家に放り込まれ慣れろと言われ直ぐに慣れられる筈がない。
「真田様のお部屋は、此方でよろしいでありんすか」
 開いた襖のそこに居たのはすでに深く頭を下げていた遊女だった。声からして十七、八だろうか。丁度旦那と同い年ならば、もしかしたら話のネタが一つ出来るかも知れない。
「まあまあ、顔を上げて気楽にいこうよ」
 その言葉に顔を上げた遊女は、紅や白粉を塗っているとはいえやはり拭えない幼さが残っていた。予想通り、旦那と同い年くらいだろう。小さく笑う姿は貼り付けであっても絵になった。これと言った注文はしていなかったが、武田の名は使わなかったが、どうやら店側も承知しているらしく上層の遊女をよこしたらしい。
 きっと赤面しているであろう我が主の顔を伺うと、予想と反し何故か驚いた表情をしてその遊女を見ていた。そして何故か、その遊女も先ほどの笑顔など忘れたかのように呆気にとられた顔をして青年の顔を見つめ返している。

「ゆきむら」
 ぽつりと、遊女がかすれた小ささな声で言った。
 この張り詰めた空気は、一体何だと云うのだろうか。



からんころん 100201

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