01.

3年間同じクラスの御幸くんに他校生の彼女がいると言う噂を聞いたときは、嘘だ、と思った。
だって彼は野球の事しか頭にない。2年生のとき友達が御幸くんに修学旅行のしおりを渡そうとしたけれど少し捲ってみた程度でいらないと突き返されていた。教室でつるむのも倉持とばかりだし、昼食は野球部員と一緒で、授業が終われば速攻で部活。野球さえできれば誰にどう思われようと構わない。それが3年の間に培われた彼のイメージ。だから私には彼が誰かひとりの女の子を大切にするところなんてまるで想像できなかった。


放課後の視聴覚室、扉を開いたときすでに席に着いていた男子のつむじを見た瞬間私はついてないことは続くというのは本当だったのかと深々と思った。
風邪で休んだ日に運悪く映像を使った授業があった。それに限って感想文を書き次の授業で発表しなければならず、放課後にわざわざ視聴覚室に呼び出された次第である。

「じゃ、ふたりとも寝るなよ」

教科担任の先生はそう言うと早々に視聴覚室を出て行った。え、出てっちゃうんだ。これから30分も御幸くんとふたりきりでで居なきゃならないなんて、ついてない。

「つまんねーな」

10分も過ぎていない頃に御幸くんのつむじがぽつりとそうこぼした。

「…つまんないならサボって部活行けば」
「監督に根回しが行ってるんだよ」
「…」
「何でクジ引いてるときに…」

そう言ったつむじは振り向かないままもう1度つまんねーなとこぼす。つまんない。つまんないならいなくなればいいのにと黒い感情が舌の上までこみ上げる。

「御幸くんて、野球以外で楽しいことあるの?」
「ん?」
「友達もいないし、朝も放課後も休みも野球ばっかで彼女に愛想尽かされたりしないの?」

ついに言ってしまった、そう思ったと同時に言ってやったという小さな優越感が現れた。どう帰ってくるだろうとつむじを見つめる。

「あーお前、本気でなんかした事なさそうだもんな。」

御幸くんのつむじが動いた。

「じゃあきくけど、お前さ、今人生で本気で楽しんでるって言えるものある?」

そう言った御幸くんはこちらをしっかりと見ていた。
図星だろ?メガネ越しの瞳がそう語りかけてくる。私の喉元から言葉は出てこない。何も言い返せずいると、御幸くんはつむじをこちらに向けて向き直りスクリーンを見上げていた。


「感想文は来週の授業までにってことでいいのかな」

丁度映像が終わりかけの頃に戻ってきた担任が前の席の御幸くんに原稿用紙をまとめて渡す。何もなかった装いの御幸くんが振り向いて私に原稿用紙をまわし、それを無言で受け取る。
そしてすでに鞄を背負って部活に行く準備万端といった様子の御幸くんの様子から察したのか、先生も「じゃ補習終わりで」とエンドロールは切り上げてくれることにしたらしい。

「ありがとうございました」

早い口調でそう言ってドアに早足で駆けて行った御幸くんの視界にもう1度私が映ることは無く、視聴覚室に残された私のお腹の中に残ったのは嫌悪より後悔よりただひたすら自分を惨めに思う気持ちだけだった。
全て図星だ。本気で何かをしようとしたことも楽しんだこともない。そんなもの出会ったことも探したこともない。御幸くんの言う通りだった。それから卒業まで彼とまともな会話したことは一度もなかった。



02.

赤提灯の灯る居酒屋で嫌いなはずの騒がしさを嫌だと感じないのは懐かしい顔ぶれが揃っているからだろう。高校を卒業して久々の同級会は生ビールジョッキ片手に思い出話や近況の話が尽きない。みんな楽しそうだ。

すっかり誰がやるかなど忘れていた幹事から高校を卒業して3年以上ぶりに同級会をするという知らせが来たのが4ヶ月前で、最初は行く気がなかったのだけれど仲のよかった友達が出席するというので自分も付いてきた。なので誰が来るのかは殆ど知らなかった。まさか御幸くんも来るとは思わなかったのでその姿を見つけた時は内心驚いていた。
確かに部活を引退してからやっとクラスに打ち解けはじめた様子はあったけれど、あの視聴覚室から会話らしい会話などしたことがなかった私にとって彼が同級会に現れたのは大げさに言って青天の霹靂。そしてあの時のことを謝るなら今日しかないと思い勇気を出して話を切り出した後の御幸くんの返事はひどくあっけらかんとした返事で。

「あったな、覚えてるわ。カチンと来てたわけではねーんだけど…」
「どっからどう見ても来てんだろ!」
「はっはっはっ」

みんなと同じようにジョッキ片手に変わらない笑い声を上げる御幸くんに向かって倉持が変わらない鋭いツッコミを入れる。

「いや私が悪かったし…何も言い返せなかったもん、恥ずかしいよ。バカすぎて」
「いや俺も図星だったから」
「え?」
「まあまあ今はプロ入り決まった野球選手と大学病院就職決まった栄養士でどっちも安泰、喧嘩両成敗」
「俺のどこが安泰なんだよ」
「おい御幸のことカチンとさせんなよ〜」

クラスのみんなが御幸くんをイジっている。あの頃だったら想像できない。まるで御幸くんがクラスの一員みたいだねと友だちが笑うと「一員だろ」と返されていた。


一次会はあっという間に終えて自然に二次会への移動が始まっていた。参加組のほうが多かったが私と御幸くんは帰宅組だったので駅まで並んで歩きながら他愛ない会話をした。御幸くんがプロ入りするからといって媚を売るクラスメイトなど居なかった。これが同窓会だったら違う展開になっていたかもしれないが、媚を売ったところで意味はないという彼の性格は男子も女子もみんなが熟知していた。

「あ、私の電車すぐ来そう」
「あのさ、あん時俺、野球するために他を犠牲にしてる自覚はあったし、そうするべきだと思ってたんだけど…」
「御幸くん?」
「言われて、考えれた…あ、そっちの電車来たぜ」
「つ、次のでも」
「いやいい、乗れよ。また次会うのは来年の同級会だな」
「…うん、またね」

乗り込んだ電車のドアが閉まる前に御幸くんの乗る電車も入ってきて、忙しく別れた後に言いかけた言葉の続きを考えたが分からなかった。


03.

あれから1年後、新しい幹事から同窓会の誘いが来て2週間ほど経った日だったと思う。ちょうどお昼休憩のときに病院の食堂で読むのが日課になっていたスポーツ新聞を手に取った。普段どおり流し見しながら目に入ったのは小さな記事だった。

『御幸選手 結婚』
『〜で活躍中の注目新星捕手 御幸一也選手(24)=青道高校出=が先月に結婚したことを明らかにした。お相手は中学時代から交際をスタートさせ10年の純愛を貫いた一般人のAさん。御幸選手は「これまでたくさん支えてもらった。これからはふたりで支え合っていきたい」と語った。結婚式は身内や近しい友人のみで行われる予定だという。』

3度読み返したが文章は一語一句変わらなかった。ハッとして食事も半ばに立ち上がりロッカールームに向かい、入れっぱなしだったカバンからスマホを取り出す。案の定、クラスのグループラインにはすでに御幸くんに向けられたお祝いの言葉がいくつか並んでいた。しかもまさかの本人からの返信がついている。「ありがとう。」とシンプルな返事ではあったが、真実だと知らしめるには十分だった。



「じゃあきくけど、お前さ、今人生で本気で楽しんでるって言えるものある?」

あの日の言葉を今も覚えている。今分かった。あの日の言葉は、私に向けられたものじゃなかった。
同級会の帰りに御幸くんは言った。

「あん時俺、野球するために他を犠牲にしてる自覚はあったし、そうするべきだと思ってたけど…」と。
やっと今わかった。視聴覚室での彼のあの問いかけは、彼女を犠牲にして色んなものを犠牲にして自分に言い聞かせていた言葉だった。
最優先していることを自分は楽しんでいる。楽しんでいなきゃいけない。支えてもらってる彼女のために。きっと辛い時も苦しい時もそれが足枷になったこともあったのかもしれない。自分は野球を楽しんでいる。あの時の御幸くんの表情が初めて浮かんだ。記憶の中の彼は私より何倍も苦しそうな表情だった。

あの時彼の目に映っていたのは、私じゃなくて私の瞳に映る自分の顔だったのだろう。

お腹の底に溜まった惨めさが蘇る。いや、蘇ったわけじゃない。それはずっと私のお腹の底にこびりついていた。視聴覚室で話す前から、同窓会のときも、今も。だってずっと私にとって彼は"御幸くん"でも、御幸くんにとっての私は"お前"だったから。
私は3年間御幸くんと同じクラスだっただけ。名前を呼ばれたことがないなんて最初から気づいていた。
自分が御幸くんの特別になれないなんて初めから知ってたから。それでも。



「じゃあきくけど、お前さ、今人生で本気で楽しんでるって言えるものある?」


御幸くんの声が私に問いかける。
楽しいことより、苦しいことのほうが多かった。だからずっと認められなかった。普段学校ではつまらなそうなのに、倉持や他の部位と野球の話を始めると水を得た魚のように生き生きしだすところ。逃げられないようにしおりも突き返して自分を追い詰めるところ。全部私が持っていないものを持ってた。だから憧れた。

3年間同じクラスの御幸くんに他校生の彼女がいると言う噂を聞いたときは、嘘だ、と思った。だって御幸くんが誰かひとりの女の子を大切にするところなんてまるで想像できなかった。自分が御幸くんに大切にされているところなんて微塵も想像できなかった。
それでも。
溢れた涙が小さな嗚咽を漏らす。この惨めさも今やっと芽生えた感情も全部この嗚咽と一緒に吐き出してしまえたら楽だった。

160823

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