百代の過客

春眠



 夜来風雨声。

 声出さずにそう思って、天井を見上げた。暗い中、横で寝ている気配があり、頭を動かさず目だけでそちらを見れば、穏やかな顔で村上が寝ていた。

 夜半、雨と風の音で起きた。窓を揺らす、吹き付ける風の音は重く、その音を聞きながら暗闇の中で天井を眺めた。
 その音に紛れて、人が寝ている呼吸の音を聞いていなければ、世界に自分一人だと錯覚しそうなほどに、世界は暗色に満ちていて、そして温かった。

 隣にある体温の確かさに、ようやく現実へと引き戻される。耳を澄ませば、規則正しく繰り返される寝息が、嵐に削られかけた感覚を縫い留めるようにそこにあった。
 指先をわずかに動かせば触れられる距離にいる。起こすつもりはないのに、声をかけてしまえば何かが変わってしまいそうで、ただじっと息を潜める。雨音が強くなるたび、胸の奥がわずかにざわつくのは、暗闇のせいか、それとも、この静けさが壊れることへの予感のせいか。そんなことを考えながら、まばたきひとつ分の時間だけ目を閉じ、すぐにまた開いた。
 が、そうこうしているうちに彼は起きてしまったらしい。ぼんやりと彼が目を開いた。

 寝ぼけ眼を見つめていると、こちらへ視線を向けた彼が緩やかに瞬きをする。状況を把握した彼は、その後、柔らかく微笑んだ。無防備な笑顔だった。

「寝れないのか」

 寝起き特有の穏やかな声で、彼は枕元の明かりをつける。手乗りサイズのベッドサイドランプの柔らかな光が自分たちを照らし出す。
 彼はゆっくりと起き上がって、うつ伏せへと移行した。ぼんやりとした瞳が明かりを見つめていたが、それがこちらに動いてくる。
 自分も仰向けの状態から首を倒してその様子を見ていて、村上はこちらと目が合うとうっすらと微笑を浮かべた。

「夜来、風雨の声だなって」

 そう言えば、村上は一度穏やかに瞬きした。声無く、彼が微笑みを深くする。

「春眠暁を覚えず」

 簡単に答えに辿り着いた男は、朗々たる様で暗唱し始める。

「処処啼鳥を聞く。夜来風雨の声、花落つること知る多少」

 それに小さく横を向いたまま頷く。彼は多分、その先も覚えているのだろう。

「今起きたら、夜に雨と風の音がしたから」
「そうか。確かに」

 唱えるのを途中でやめた村上が、微笑を浮かべる。未だに時折強い突風が吹きつけて、窓を叩いた。その音にしばし耳を傾けた村上は、姿勢を戻す。寝る姿勢になった彼に、すり寄った。

「気づかなかった?」
「あまりね」
「珍しい。何でも気づくし、なんでも覚えてるのに」

 それに村上が一度、驚いたように瞬きをした。
 静かな瞬きであったが、穏やかに開かれていた瞳がほんの少しだけ広がったのだ。
 その瞳孔の縮小、その中に散らばるベッドサイドランプの温かな光の破片が移ろう様を眺めていると、彼はふんわりと笑った。

「さすがに寝てる間のことは覚えてないよ」
「そっか」

 納得をして軽く頷けば、自分の耳の下で髪がシーツと擦れる音を聞いた。
 その音に気を取られた間に、肩まで布団をかけ直されて、自分の背中に彼の腕が回る。剥き出しの背中に、かさついた男性の掌が触れた。意図しない接触に、ほんの少しだけ困ったような顔をしたこちらに、村上が顔を覗き込んでくる。

「でも、寝る前のことは覚えてる」

 黙り込んでしまったこちらに、下着だけをつけた背中を彼は軽く叩いた。
 寝よう、という合図のようにも見えた。

「真っ赤だ」
「だまって」

 照れ隠しで、握り拳をべち、と二の腕にぶつけると、昨夜人の体を散々弄んでくれた青年が、さっぱりとした笑顔で小さく喉を鳴らして笑った。