イレギュラー



この世に生まれ落ち、自我を持ち始めたその時点で既に違和感があった。
言葉がわからないのだ。
同族であるはずの彼らはそれぞれ鳴き声をあげ、何かを話し、コミュニケーションをとっていたというのに自分にはそれが理解できなかった。
しかし不思議なことに自分のなかには習ってもいない言葉が最初から存在していた。
それを共有する相手がいないだけで。

次第に彼らは自分から離れていった。
ある日突然置いていかれ、残ったのは自分だけだった。
同族と比べると小柄な、しかし野良犬よりかは大きい中途半端な自分。
唯一の自慢は全身を覆うまっくろな毛並みくらいだ。
これは昔、兄弟たちがこぞって枕にしたがった。
背中や首に頭をこすりつけては気持ちよさそうにしていたので、毛並みだけは気に入られていたのだと思う。

そんな昔を思いだすと寂しくなる。
言葉がわからなくても、たとえ置いていかれても、彼らが自分の家族であることに変わりはないのだから。


「げんきにしてるかなあ」


川辺で水面を眺めながらポツリと言葉を落とす。
同族の誰にも通じなかった言葉。


「しゃべった……?」


はっとした。
耳に入ってきたその音は自分が発したものではない。
しかしはっきりと聞こえた。
そして理解できた。

急いで振り返った先にいたのは初めて目にするものだった。
足が4本あるのに、不思議なことに2本だけを地につけて立っている。
てっぺんに生えている毛は金色で、光にあたってキラキラと輝いていた。
印象的なのは目の色だった。
森の色に水の色が混ざっていて綺麗だった。
しかし鋭い牙もなければ爪もない。
頭があって目があって口があるのはわかる。

(鼻がちっちゃいな……ふむ、肉食動物にしては弱そうだ)

もしかしたら草ばかり食べる獣の仲間かもしれない。
どちらにしろ自分よりも弱そうだと目星つけると、多少の余裕がでてきた。


「おまえ、だれ?」


近づくことはなく、その場から話しかけてみた。


「きみ本当にひとの言葉がわかるの?」


やはり言葉が通じるらしい。
が、こちらの質問に答えないそいつにむっとした。
じりっと土を爪で踏む。


「さきに訊いてるの、こっち」

「……驚いたな。ひとの言葉がわかる犬がいるなんて」

「犬じゃない。俺は犬よりつよいんだぞ」


グルル、と喉を鳴らしてみるとそいつはきょとんとしたあとに笑いだした。


「ごめんね、家で飼ってた犬に似てたものだから」

「だから犬じゃない!」


犬と間違われ単純に腹がたった。
犬に負けたことなんかないのに。
ちょっと一回負けそうになったことはあるけど、それでも一応勝ったのだ。
だから犬より強い獣なんだと知らしめたくて地を蹴りそいつとの距離を一気に縮めた。

ちょっと頭でもかじってやろう。
そうしたら怯えてぴいぴい泣くだろう。
ざまあみるがいい。


「はいはい、落ち着いて」

「んっ!?」


がくん、と急に体が下に落ちた。
そして地面に吸い寄せられるかのような感覚のあと、なぜか伏せの体勢をとっていた。

いや、とらされたのだ。
目の前のそいつに。


「なっ、なにした、おまえ!」

「んー。血の気の多いわんちゃんに大人しくしてもらおうと思ってね」

「わんちゃんってなんだ?」

「犬のことだよ」

「俺は犬じゃない!」

「あ、こら暴れないでよ。あんまり無駄に魔力は使いたくないんだけど、あれかな、野生社会で上下関係はっきりさせるならマウンティングとるべきかな?いや、服従のポーズ?」


なにやらそいつはぶつぶつと呟いている。
痺れを切らして再度襲いかかろうと前足に力をこめたが動けなかった。
なんらかの力が働いているようだ。
やつは"まりょく"とか言っていた。

(まりょくってなんだ?)


「よし、服従のポーズで」


くるっとそいつが指先をまわすと視界までもがぐるりとまわった。
仰向けになっていたのだった。
言っておくが自分の意思で動いたわけじゃない、やつの仕業だ。


「おまえ!さっきから何をする!もとに戻せ!この!」

「そのままの体勢で、"わん"」

「おまえ、聞いて……っ、わんっ!」

「うんうん、いい子だね。次は伏せして、"わん"」

「ぐ……っ、わ、わん……っ」

「よしよし、いい子いい子」


なんてやつだ。
しゃがんだそいつはにこにこと笑いながら頭を撫でてきた。
頭を撫でられるなど屈辱の極みである。
グルルと威嚇するが、あまり意味がなかった。
威嚇したところで体が動かず攻撃できないからだ。


「これ、なんだ、なんとかしろっ」

「大人しくしてるって約束できるなら」

「で、できる」

「噛まない?」

「かまない」


本当なら頭にかじりついてやりたいところだがそこはグッと我慢した。
そうでなければいつまで経ってもきっとこの体勢をとり続けることになる。


「よし、じゃあ解いてあげるね」


ふっと体が軽くなった。
足に力をいれると簡単に立ちあがることができる。
ほっとしたがまだ油断はできない。
顔をあげ、やつを睨みつつじりじりと慎重にあとずさった。


「おまえ、なんなんだ。おまえみたいなやつ初めてみた」

「それは僕のセリフなんだけどなぁ。しゃべる動物なんて聞いたことがないし。まあとりあえず名乗っとこうかな。僕の名前はキズキ、人間だよ」

「キズキ?ニンゲン?ニンゲンってなんだ。あとおまえなんで変なのを体につけてる」

「人間ってのは僕みたいな姿形をした生き物のことだよ。きみたちと違って全身には毛が生えてないだろ?だからこういう布で作った服を着て生活してる。あ、訊き忘れたけどきみの名前は?」


"なまえ"、自分のこと。
どれだけ記憶を探っても名前を呼ばれた思い出などなかった。
家族間の呼び名はあったかもしれないが、自分にはそれが理解できなかったから。
知らないのであれば存在しないのと同じだ。


「どうしたの?」

「なまえ、ないから、わからない」

「そうなの?それは不便だな」

「ふべん?」

「僕が呼びたいときに呼べないからね」

「なんでおまえが俺を呼ぶんだ?」

「きみを僕の使い魔にするから」


そう言ったニンゲンはすっと目を細めて笑った。
なぜだかさむけがした。