脱げよ!



「フハハハハハハ。よく来たな勇者よ」


目の前に立つ黒づくめの鎧に身を包んだ人物が、低く、くぐもった声で高らかに告げた。


「は?」


ボタンを外しファスナーを下げ今まさにズボンをひき下ろそうとしていた私は、その間抜けな格好のまま固まってしまう。
3枚1000円のショーツが開かれたズボンの間から顔を覗かせていた。

いや、だって仕方ないでしょ。
トイレに入って用をたそうとしたら、急に周囲が真っ白になって、唖然としている間に、目に入る光景が見慣れた花柄の壁紙から、黒光する全身トゲトゲの鎧に身を包んだ身の丈2メートルはあろうかという大男に変わっているんだから。
誰だって放心するに決まっている。


「どうした?勇者よ。われに臆して声も出ぬか」


2本の馬鹿でかい角を生やした兜の、格子状になった口元から野太い声が降ってきた。

体がでかけりゃ声もでかい。
10メートル先にいる相手と会話をするような大声を至近距離から発され、私は反射的に両手で耳をふさぐ。

支える手を失ったズボンが、パサリと乾いた音を立てて落ちた。

しばし、沈黙が場を支配した。


「なっ、なっ、なっ、なっ、なっ!?何をやっておるのだ!われを色香で惑わせる策か!」


盛大にどもった黒鎧の男は、鎧から突き出た無数のトゲが私に刺さらぬようにとしてか垂直に腰を落とすと、指先が細長く歪に尖った毒々しいデザインの鎧に覆われた手で、私の足元にもたついているズボンの両端を器用に掴み一気に引き上げた。


「うおっ」


あまりに勢いよくあげられたせいで、容赦なくズボンの股が股間に食い込んだ。

(痛いわバカヤロー!)

私は股間を手で押さえ涙目で兜に開いたふたつの穴をにらみ付けた。


「すっ、すまん。わざとではないのだ。………おなごでも痛むのだな。大丈夫か?」


鎧男が動揺して体を揺するたびに、全身からガシャンガシャンと重たそうな音が鳴る。
禍々しい姿に似合わず律儀なタイプのようだ。


「もう、いいです。それより、こういう疲れそうな夢は見るだけで疲れるので嫌なんですよ。あーあ、ひっさびさにゲームで夜更かししたら、寝落ちしちゃうなんて、年には勝てないわ」


凝り固まった肩を、首を回してほぐしながら、私はため息をついた。

溜まった本を売りに訪れた中古屋で、大昔にはまったRPGのソフトを見つけたのは先週の日曜日のことだ。

水曜日に押入れの奥で眠っていたハードを取り出し、木曜日にテレビに接続し終え、金曜日はパラパラと説明書を流し読み。
そして待ちに待った土曜日の今日、チューハイ片手にテレビの前に陣取った。

数年ぶりにやったRPGは、昔ほど面白く感じなかった。
だけど粗雑なグラフィックも、軽い電子音で奏でられる音楽も、何もかもが懐かしくて思わず没頭してしまった。

日付が変わる頃に小腹をすかして、サバ缶をつまみつつ2本目をあけ、朝刊を配るバイクの音に我に返った。

うっすらと明るくなった窓の外の景色に驚き、風呂に入ろうと重い腰をあげて、そうだ、その前にトイレに行っておこう、とトイレのドアを潜り電気をつけて、ファスナーに手をかけた……はずだった。

どうやら、途中からは夢だったらしい。
きっと今頃空き缶の横でだらしなく寝こけているのだろう。
私は目の前に立ちふさがる黒い物体から、視線をはずし、あたりを見渡した。

四方を灰色の壁が囲む、だだっ広いだけの殺風景な部屋だった。
ざらりとした触感を思わせる壁はむき出しのコンクリートに似ている。
まるで建築途中のビルの中にいるようだ。

ため息がもれた。
ベッドやソファーといった気の利いたものはおろか、絨毯のひとつも敷かれていない。

しばし悩んだ後、手近な壁のそばまで歩み寄ると、壁に持たれて座り目を閉じた。
お尻が冷たい。


「おい」


ぎぎいと鎧がこすれる音がした。


「おい、勇者よ」


ガッシャンゴス、ガッシャンゴス。

鎧男の足音だろうか。
床が削れそうな騒々しい音に目をあけると、黒いすねあてが視界を埋める。


「ちょっと。トゲがささるじゃないですか、向こうにいっててくださいよ」


膝の部分に前方に突き出る形でついた棘が、鼻先すれすれに迫っている。
私は顔をしかめて抗議の声をあげた。


「勇者よ。何をしておるのだ」

「はいはい。勇者ね。どうせなら魔法使いがよかったのに。前衛より後方支援のがいいわ」

「おい、さっきから何をぶつぶつと言っておる。勇者よ、気でも違ったか?」


鎧男は動きづらそうなトゲトゲ鎧に包まれた腕を器用に組み、重たそうな兜を傾ける。


「あー、すみません。勇者、勇者。OK、私は勇者。で、貴方は?さしずめ魔王ってとこですか?」

「ふっ、よくぞ訊いた。われこそはこの魔の大陸を支配する魔王ぞ!」


投げやりな私の台詞に、魔王は満足げに頷くと、組んだ腕はそのままに足を広げて高らかに言い放った。
そして続く高笑い。

フハハハハハと清々しいほどに悪役らしい太い笑い声が、兜から絶え間なく流れ出た。


「ここは魔の大陸で、あなたは魔王であると」

「そのとおりだ」


私の確認に間髪いれずかえす鎧男。
私は魔王と名乗る鎧男から視線をはずしてフッと鼻で笑う。


「で、私の役目は貴方を倒すこと?」

「くくくくくっ、果たしておぬしに我が倒せるかな?」


なんて独創性のない夢だ。
自分の想像力のなさに軽く失望を覚えた。


「別に倒す気ないですから。それより毛布か何かありませんか?」


不敵に笑う魔王の声がぴたりと止む。


「倒す気がないだと?おぬしそれでも勇者か!」


軽く顎を上げて一喝する魔王。
耳に指で栓をしておいてよかった。


「ほっときゃ、そのうち寿命で死ぬでしょ。つかね、勇者だから魔王を倒すんじゃないでしょ。魔王を倒した者が勇者と呼ばれるべきじゃないんですか?」

「ぬう。正論だな」

「そんなことより、ほら、毛布ないんですか?」

「毛布などどうする気だ。はっ!読めたぞ。目くらましに使う気だな!?姑息な真似を!恥を知らぬのか!」


指でふさいでもなお、ばかでかい魔王の声は隙間から入り込み脳を揺らす。


「寒いから包まるんですよ。それと声でかすぎです。十分に聞こえてますから、もう少し音量を絞ってください」

「むっ、それはすまぬ。で、包まってどうするのだ?さては!暗器でも仕込むつもりか!?どこまでも卑劣な。見損なったぞ勇者!」


魔王の思考は偏りすぎていた。


「どうもこうもしませんよ!目が覚めるまでやり過ごすだけです。貴方を倒す気も、世界を救う気も、姫と結婚する気もありませんから」

「おぬし、おなごであろう?姫と結婚ははなから無理ではないのか?」


つっこむところはそこなのか。
私は毛布を諦め、目を閉じた。

ギギイ、ズリズリ。
ギシギシ、ガコンッ。

魔王が動くたびに鎧の音が重く響く。
うるさくて眠れやしないが無視した。


「おい」


無視無視。


「勇者よ」


断固無視だ。


「ゆーうーしゃーよっ」

「気持ちの悪い呼び方をするな!」


兜越しのくぐもった野太い声で、長音符を多用して呼びかけられるとイラッとする。


「ようやく返事をしおったと思えばこの我に向かって気持ち悪いとは……ようゆうたな」


兜の奥の瞳が不遜な光を宿した気がした。


「それ相応の覚悟があってのことであろうな?」


兜の向こうで唇が吊り上げられる……気がした。


「我に対する無礼、その命で贖ってもらおうぞ」


兜の反対側にある目が細められた……気がした。


「ああああああああ、まどろっこしい!」

「なっ、なんだ!?いきなり。気でも違ったか?」

「うるさいっ!人に卑怯だとかなんだとか言っておいて自分はどうなんですか!そんな固そうな鎧を着込んで!おかげで全部推測になっちゃうじゃないですか。せめて兜を取って顔ぐらい見せたらどうなんです!」

「むう。耳が痛いな。よかろう、おぬしの言に従ってやろうではないか」


一気にまくしたてぜいぜいと肩で息をする私に気おされたのか、魔王はあっさりと承諾した。

ど派手盛りつけ爪ギャルも真っ青な尖った指が兜にかけられる。
兜の下からあらわれた魔王の素顔に私は息を呑んだ。

無骨で不気味な兜の下から零れ出るのは金に輝く髪。
深く澄んだ瞳は青く、すっと通った鼻筋に引き締まった薄い唇。

超がつく二枚目の王子様然とした容姿……ではなかったから。


「ちっ。悪の親玉といえば美形の若い兄ちゃんと相場がきまってるしょうが。なんだってこんなところだけオリジナリティがきいてるのさ!」


髪は確かに金髪だった。
しかし兜の中で蒸されたせいか太くごわついた髪が乱れてべったりとひたいにはりついており、見るからに不潔で見苦しい。

深く青い瞳は、それだけを見れば、まあ美しい色合いをしていると言えなくもないが、その目は、切れ長で涼しい目元を通り過ぎまくっていた。

鋭く吊り上がったまなじり。
小さな瞳は白目に覆われたいわぬる三白眼で、ヤーさんも避けて通りそうな凶悪さを醸し出している。

加えて極太の眉。
好意的に見れば強い意志を感じさせる眉だといえない事もないが、私にはげじげじにしか見えなかった。

しかし一番の問題はその年齢だろう。
目じりと口周りに出来た皺はいいとこ40代。
下手をすると50の大台に足がかかっているかもしれない。

夢は願望をあらわすというのは本当なのだろうか?
自分にオヤジ趣味があるとは思いもよらなかった。


「……人に好かれるツラとは思っておらぬが、いくらなんでもひどくないか、おぬしの態度は」


ため息をついて顔をそらし、けっと悪態をつく私に、凶悪な顔を寂しげに歪め魔王は力なくつぶやいた。


「だいたいな、お綺麗な顔の若輩者が長で、皆がついて来るか?われでさえ若すぎるとケチをつけるものがいたのだぞ。魔族の世界は実力主義だが、何事においても経験が肝要だ」

「ファンタジックな夢なのに妙に現実的ね。歳をとるって切ないわー」

「さっきから、夢、夢と。おぬしはこれが本気で夢だと思っておるのか」

「夢じゃなかったらなんだっていうんです。じゃ、おやすみなさい」


呆けた顔で私を見る魔王。
どこか寂しげなその顔を瞼を閉じて視界から追い出した。

(やばい)

目を閉じてどれほどの時が過ぎただろうか。まだ然程たっていないような気がするが、非常にまずい。
額にじわりと汗が浮く。

なんなのこれ。早く覚めてよ。

硬く目をつむり、夢から覚めるそのときを待ったが、一向に眠りが終わりを告げる気配はなかった。

まずい、まずいわ。
そうだ、こういう時は別のことを考えるんだ。

えーと、宝箱は全部とったんだっけ。
確かあのダンジョンは取り逃がすと二度ととりにいけなかったはず。
ひとつたりとも残すわけには……。


「やっぱりだめ!もう無理!」


私は目を見開いた。
目の前には目を閉じる前とかわらぬ、魔王のむさ苦しく恐ろしい顔がある。
目を開けた私をみて満面の笑みを浮かべた。
怖いわ、その笑顔。

魔王の襟首をつかんで、といきたいところだが、生憎魔王のとげとげしい鎧には掴めるところがなかった。


「トイレ!どこなの!?」

「は?」

「トイレよ。トイレ!この夢を見る前はトイレにいく夢を見てたのよ!トイレ、わかる?便所。化粧室。ご不浄!」

「なんだ、おぬし。用便を我慢しておったのか?」


呆れたように呟く魔王の、人外らしくややとがった耳に手を伸ばすと、思いっきり引っ張った。


「うっさい!はやくー!もう無理。漏れる!」

「ま、まて!早まるなよ。しばし耐えろ!」


言うが早いか魔王は私を抱き上げる。


「ぎゃー。痛い。ちょっと、棘が刺さってる!足、太もものとこ!」

「おうっ、すまぬ!」


私は飛び跳ねるようにして魔王のとげとげ魔の手から飛び降りた。

なんて物騒な鎧だ。
文句のひとつも言ってやりたいところだが、今はそれどころではない。


「歩けるよ!早く案内してー!」

「わ、わかった!」


悲痛な私の叫びに、魔王は部屋の片隅へと足早に誘導する。
しかし、たどり着いたその先は灰色の壁があるだけだった。


「ちょっとなにこれ。まさかここで※用をたせってんじゃないよね?」

「まあ、待て」


待てないっての。
脂汗をにじませつつ、不恰好な内股で魔王の後をついてきた私は、どこをどついてやろうかと硬い鎧に覆われた魔王の体を検分する。
が、全身カチカチのトゲトゲで隙がない。
殴ったらこちらの拳がダメージを負いそうだ。

狙いどころは兜を脱いだ頭部ぐらいだが、ばかでかい魔王の頭には手が届きそうにない。
なにより汗に塗れた髪に触りたくなかった。

恨めしげに黒光りする鎧をにらみ付ける私の前で、魔王が腕を伸ばして壁に手をかざした。
ズズッ、と何かが擦れるような音がしたかと思うと、次に重く硬質なものが落ちる低く派手な音が室内に鳴り響いた。

(嘘でしょ……)

私はしばしの間、尿意も忘れて見入っていた。
ついさっきまで灰色の壁だったはずの場所に、ぽっかりと大きな穴が開いていた。

継ぎ目も見当たらなかったのに、どういう原理なんだ。


「何を呆けておるのだ。急ぐのであろう?」


内腿を締め付けながら呆然と穴を凝視していた私に、魔王が怪訝そうに声をかけた。


「う、うん」


そうだ。
これは夢なんだから、なんでもありに決まっている。
深く考えるだけばからしいというものだ。

私は思考を放棄し、ガシャガシャとうるさい音を立てて歩く魔王の後ろについて、穴をくぐった。

穴の先には、今までいた部屋の中となんら代わり映えのしない灰色の空間が広がっていた。
違いとえば形状くらいだろうか。
廊下というには幅が広すぎる気がするが、恐らく廊下だろう。

先が見えない程に長細いその空間を、魔王は進む。
私は注意深く両側の壁を眺めながら魔王の後を追いかけた。

ほんの1、2分のあと、魔王はやはり継ぎ目も何もない壁の前で立ち止まった。
先ほどと同じように腕を伸ばせば、ガコンッという小気味よい音とともに穴が出現する。


「ついたぞ」


魔王はそういうと私に道を譲る。
恐る恐る穴の向こうを除き見て、ほっと安堵の息をはいた。

見知った和式の便所とよく似た構造の便器がそこにあった。
部屋がやたら広いのは落ち着かないが、贅沢は言ってられない。


「失礼します」


何故か改まった声がでた。
広いトイレへと足を踏み入れると、瞬時に背後の穴が埋まる。

私はズボンのファスナーを下ろしながら便器へと走った。
便器まで走るほどの距離がある部屋の必要性に疑問を抱きながら。


「はあ、すっきり」


無事用をすませて、愕然とする。


「どうやってここから出りゃいいの……」


トイレで遭難するなんて経験をしたのは世界中で私ぐらいなんじゃないだろうか。

穴があったと思しき壁をガンガンと叩くが反応はなく、私は壁という壁を小突いてまわっていた。
一箇所だけ音が違ったりする映画やドラマのワンシーンを思い出しての行為なのだが、ぐるりと360度叩いて回ってもまったく成果は得られなかった。


「なんて夢だ」


壁についた拳を強く握り締めると、くるりと回転して壁に背を預ける。

いつ、覚めるの。
この夢を見始めてから随分とたっているはずだ。

夢の記憶なんてものは目覚めと同時に遠退いて、曖昧で、不確かで、不条理で。
けれど、今までみた夢は薄い短編集に収められた、ほんの数ページで終わってしまう話のように短かったはずだ。
こんなに長く続く夢は見たことがない。

背中を壁につけたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。
ざらりとした壁に髪を数本とられる。

引っかかった髪から頭皮へと伝わるその感触が妙にリアルで、座り込んだ床の冷たさに、今更ながらぞっとして強く強く体をかき抱く。


「夢、なんだよね……?」


こぼれた声に答えるものはいなかった。

臓腑をせり上げる焦燥感と恐怖から身を守るように、ふるふると顔を振る。


「っせーいっ!」


振られた視界に入り込んだ、強面親父の顔に裏拳を叩きこんだ。


「うぶっ」


痛そうなクリーンヒットの音と共に野太い間抜けな声があがる。


「おぬし、いきなり何をするのだ!」

「何をするのだ!じゃないっつの!あんたこそ何やってんのさ。魔王様が覗きなんてやってんじゃないよ」

「ご、誤解だ!我は決して覗きなど………」

「だまらんかいっ!」


魔王は壁にあいた穴から顔だけを出していたのだ。

それもさっきのような大きな扉大の穴ではない。
魔王の顔サイズの小さな穴なのだ。
しかも、穴を開けるときにした音もしなかった。

これを覗きと言わずしてなんとする。


「あーあ、いやだわー魔王様が覗きですって……」

「違う!違うというておろうが!」

「ちっさいわー」

「いや、これにはわけが」

「魔王様が変態の痴漢なんて、がっくりだわー」

「ちがう!ちがうのだ!おぬしの帰りが余りにおそいのでな。なかで何かあったのかと心配になったのだ。しかし婦女のおる厠に扉を開けるわけにもいかんのでな。それでちと小さき穴をあけてだな」

「覗いたんですね」

「………そう………なるな。その、………すまぬ」」


おろおろを目を泳がせる凶悪面の魔王様。
間違ってもかわいいなどと思うような面構えではないのに、その光景は妙に母性本能をくすぐるものだった。


「まあ、いいわ。半分八つ当たりだし」

「おい」

「さっさと穴をでっかくしてください。ほら、早く」


我は魔王なのだぞ、とか、畏怖をもってだな、とか、我にも威厳というものが……などと意味のないことをぐちぐちと口にしながら、魔王は顔を出していた穴に鎧をまとった指をかけ、引き裂くように押し広げた。

なんて力技な開け方だ。
歪な形にあいた穴状の扉をぬけて、ようやくトイレからの脱出に成功した。


「あーあ、危うく夢のなかで落ち込むところだったじゃん」

「おぬしも強情よの。まだ夢だと言い張るのか」


もと来た道を戻り、おそらく元の部屋へと逆戻りした私に魔王はあきれたような視線をむける。


「夢などではないぞ。おぬしは我が異界より呼び出したのだ。そろそろ認めてはどうだ?うすうすは気付いておるのだろう?」

「うっさいな。気付いてないったら、気付いてないから。私はなにも気付いてない!だいたいね、なんだって魔王が………百歩譲って勇者である私を呼び出したりするわけ。魔王様にとっちゃ天敵なんじゃないの?」

「だからだ」


魔王の声が低くなり凄みをおびる。
すうと眇められた目が私を捉えた。


「おぬしが我にとって最大の敵となりうる存在だから呼び出した」


冷たく光る瞳に絡めとられて体が強張る。
私は知らず知らずに後ずさっていた。


「わかんないな。呼び出す必要なんてないでしょ?」

「魔族の支配するこの大陸の西側に、海を隔てて人の住む土地がある」


ぎぎい、と音をたてて魔王が壁の一辺を指し示した。
部屋の中でさっぱり方向の感覚がないが恐らくあちらが西なのだろう。


「数年前からきゃつらがこの大陸の近海をうろつくようになってな。我ら魔族からすれば小賢しい蝿の如き存在であったが、目ざわりには違いない。何隻か船を沈めてやったら、しばらくはおとなしくしておったが………。ふん、やつらめ。我を倒さんと策を練っておったらしい。人間如きが思い上がりおって」


ぎしっきいい。

怒りに燃える魔王が禍々しい鎧に包まれた両手の間接をゆっくりとまげるその音に、背筋がぞわりと粟立つ。
黒板につめを立ててひっかいた時の音を思い出した。


「人間どもは異界から勇者を召喚しようとしおったのだ。それがおぬしだ」


(へい?)

魔王の言葉に私は眉を寄せて首をひねる。


「はい。質問!」

「なんだ?」

「勇者を、つまり私を呼び出そうとしていたのは魔王に敵対する人間なんですよね?」

「そうだ」

「それがなんだって、魔王本人が呼び出してるの?」

「ふん、知れたことよ。勇者とやらの力の程を我が直に確かめてやろうと思うてな。もし、我に対抗できるほどの力をもった者であれば、みすみす人間どもの手に落としてやるわけにもいかぬしな」


くっくっくっと唇の端をつりあげて、私を見据える魔王。

なんてことだ。
くそしょぼい装備と雀の涙の支度金を握らされ、城をたたき出されて、一度目のエンカウントで魔王に遭遇してしまったようなものではないか。

魔王のくせに。ファンタジーなくせに。
合理的な考えをしやがって。


「見たところ、たいした魔力も持たぬようだが……そろそろ秘めたる力を見せてみよ」


お遊びはおしまいだ!とお約束の台詞をはいて魔王は肩からさがるマントをバサリとはらう。

宙を舞う漆黒のマントが、ひとのき私の視界を覆った。
ただでさえでかい魔王がさらに大きく見える……だけで、なんの意味があっての行動かわからない。
埃がたつだろうが。


「ないよ」

「どうした。かかってこぬ……ん?ない?」

「そうだよ。ないよ。力なんてなーんにもない。人違いだよ。だから早く返して」

「返す、とは?」

「元の場所にに決まってるでしょ」

「おぬし、我を倒す気はないのか?魔王だぞ?人間共の敵だぞ?」

「知らないよ、そんなこと。ほら早く。こっちも暇じゃないんだから」


マントをはためかせたその姿勢のままに、仁王立ちで呆けたように目を瞬かせていた魔王は、詰め寄る私からそっと視線をはずす。

なんなの、その顔は。
嫌な予感がするわ。


「か、え、し、て」

「……あー、そのことだがな」


魔王はとがった指さきで器用に頬をかいた。


「まさか、呼び出しといて返せないとかいうんじゃないよね」

「あー、うん……おぬしは理解が早いのう……」

「早いのう、じゃないっつの!呼び出したんなら返せるでしょ!あ?それともなに?まさか本当に返せないの!?」


こくこくと頷く魔王の姿にこめかみが引きつる。


「ふざけんな!戻せないなら呼び出すなこのエロ魔王がっ!あんた、何がしたいのさ、トイレを覗いただけじゃん!冗談じゃないわ。明後日から仕事だってのに。無断欠勤なんてしたら即クビだわ。再就職先が見つからなかったらどうしてくれんの!ああ、もうくそっ!みなさーん。魔族のみなさーん。魔王様は覗き魔ですよー。変態ですよー。こんなの魔王に据えといていいんですかー?」

「ま、まて!」


怒りのままにまくし立てる私の口を、魔王の冷たい鎧に覆われた掌がふさいだ。


「お、おぬしを呼び出したこの術はな、人間どものものなのだ。使い魔に探らせて盗ませた術を使用しただけゆえ、我にはおぬしを戻す術はわからぬが、人間の術者ならあるいは……」


棘が刺さらぬように口を塞ぐ魔王の腕を押し戻す。


「魔王様が盗み?つくづくちっさいなー。仮にも魔王なら人間の使う術ぐらい把握してくださいよ」

「我らは魔族は強大な魔力をもつゆえ、脆弱な力しか持たぬ人間どものように術の開発に勤しんだりはせぬのだ」

「つまり、技は人間のほうが上なんですね?」

「ち、力は我らが圧倒的に強いぞ!」


フッと鼻で笑いつつ蔑みのこもった口調で問えば、魔王が慌てて弁解する。


「はいはい。じゃあ人の術者を捕まえてきてなんとかしてくださいよ」

「おぬし、簡単に言うの。異界より人を一人召喚させる術を編めるものなど、ひと握りしかおらぬわ。力ある術者は稀有な存在ゆえ、人間どもの国によって堅く守られているであろうな。攻め入らねば捕らえられまい」

「よーし!じゃあ攻めましょ!」


鳩が豆鉄砲を食ったような顔ってこういう顔をいうのかな。


「協力する。自分達が召喚しようとした勇者が魔王と一緒に攻めてきたら、すぐに白旗をあげると思わない?」

「………おぬしそれでも人の子か?」

「なんだってよその世界から勇者をひっぱってくるなんて他力本願、迷惑千万な連中を助けなきゃいけないの。こんな夢か現かもわかんないような世界の明日より私の明日よ!なに?なんか文句ある?」


力こぶしをつくって高らかに宣言すると、呆然と私を眺める魔王を睨みつけた。


「いや………ない」


魔王はぽつりと呟いた。
その顔に疲れをにじませて。


***


「ちょっと魔王様」


この世界にやってきた日から2ヶ月の時が過ぎようとしていた。

私が呼ばれた灰色の壁に囲まれた殺風景な部屋は、今や白い壁紙が張られ、質の良いソファやテーブル、ベッドが配置されたそれなりに居心地のよい居室へと変貌をとげていた。


「どうした?」


ソファに座り、目の前のテーブルに盛られた果物篭から、葡萄のような果実を摘んではせっせと口に運んでいた魔王は、手をとめて私をみた。


「いつになったら人間の国に攻めこむんですか?」

「今は夏だ」


魔王は手にしていた果実を口に放り込んだ。


「夏……ですか。ずっと室内にいるのでわかりませんでした。で、それが何か?」

「我の姿を見てわからぬか?」


新しい果実に伸ばした手をくるりと反転させて、魔王は自分を示す。


「この鎧はすこぶる暑いのだ。よって夏は進撃せぬ」


胸をはって断言する魔王。怒りで目眩がした。


「そんなあほな理由で2ヵ月も……」

「なに!?おぬし、ひとごとだと思うて。鎧の中は半端ではなく暑いのだぞ!」


ゲジゲジ眉毛を寄せて言い切った魔王の横っ面に、私の拳がめりこんだ。


「脱げよ!」


***


「それになぁ……人の国を滅ぼして術者を捕まえたらおぬしは帰ってしまうのだろう?それはつまらん」


魔王の呟きは聞こえなかったふりをした。

人外のオヤジとよろしくする趣味はない。
それより、魔王が部屋を訪れる度にソファが穴だらけになるから、座らないでほしいわ。

ああ、手首がいたい。