春はあけぼの

 春は、あけぼの。
 やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる。

 夜間帯の勤務中に襲って来た眠気を覚ます為に作業を止め、席を立った。気分転換に外の空気を吸おうと長時間閉じこもっていた執務室の戸を開いた。少し冷たい風に頬を撫でられ、顔を上げる。そこには、夜の闇を忘れさせる程に清々しく美しい空が広がっていた。言葉ではとても形容出来ない景色に、平安時代中期に清少納言が執筆した『枕草子』の冒頭が頭に思い浮かんだ。季節や自然の移ろい、人々の想い等を書き記した随筆である。
「――春はあけぼの」
 春は夜明けがとても趣がある、その文章を季節と時間帯のみで表現し、多くの読者に強い印象を与えている。私もその中の一人だ。清少納言も同じような美しい夜明けの空を見て、筆を取ったのだろうか。
 物語は、文章は、文字は、書いた人の気持ちを伝えてくれる。数百年、数千年経っても変わるものは無いのだと教えてくれる。この春の夜明けを見て、美しいと思う事で私は今、千年も前と繋がった。
 まだ多くの人々が眠りについている時間帯。まるで私の為だけにあるものだと錯覚してしまう。
 この春で護廷十三隊に配属されて三年の月日が経った。一年目は仕事を覚えるのに手一杯で空を見上げる余裕は無かった。二年目もただ仕事をこなすだけではなく、視野を広く持ち色々な事に気を配りながら行動する必要があった。一年目以上に慌ただしく日々が過ぎ去り、四季を感じる余裕も無く時が過ぎた。三年目になり、教育を任されるようになった。目苦しい日々ではあるが少しずつ心に余裕が出てきた。こんなに綺麗な空を眺めて、夜勤も悪くないと感慨深く感じる程。
 深く息を吐き、ゆっくりと吸う。澄み切った空気が肺に満ちていく感覚が心地良い。自然と口角が上がる。
「さて、後もう少し頑張りましょうか」
 自分を励まし、執務室に戻った。

 *

 夜勤が明けるまで後数十分。自分の後続の人へ申し送りを行い、物品倉庫で後片付けと在庫確認を行う。すると、部屋の外から複数人の話し声が聞こえて来た。はっきりと話の内容は聞こえないが、何処かへ行く、行かないと話しているようだった。暫くそのまま盗み聞きのような形になったまま、自分は作業を続けた。数分経ち自分の仕事は終わったが、それでも話の決着はつかない。物品倉庫を後にして、声が聞こえる方へと歩く。廊下で男女四人が集まって話をしているのが見えた。
「どうかされましたか?」
 声を掛けると四人共私の方へと顔を向けた。
「春宮先輩!」
「何かありましたか?」
「………」
 四人は顔を見合わせて、一人がばつの悪そうな顔しながら口を開いた。
 話の内容はこうだ。十一番隊から更木隊長が戦闘任務で負傷してしまった。見るからに治療が必要な怪我だが、更木隊長は四番隊へ行く事を拒否している。その為、十一番隊に治療しに来て欲しい。
「更木隊長、僕ら四番隊の事嫌ってますし」
「頼りの卯ノ花隊長は今日お休みで、虎徹副隊長も別の負傷者の治療にあたってて手を離せそうに無くて……」
「ちょうど夜勤と日勤が交代する時間でみんな手が離せなくて」
「治療拒否があるなら行ったとしても厄介な事に巻き込まれそうな事が目に見えてて、どうしようかと……」
 四番隊では更木隊長の評判はとても悪い。負傷して四番隊に運ばれて来ても、意識が戻ると治療拒否で大暴れ。垂れ流しの霊圧で気分を害する隊士と入院患者でてんやわんや。元々戦闘に秀でている十一番隊隊士を治療に秀でている四番隊隊士はお互いをよく思っていない為、そこを纏める更木隊長の印象もさらに悪くなってしまっている。更木隊長の治療で十一番隊隊士なら呼び出される事は初めてではない。その度、こうして行きたくないと雰囲気を出しながら複数人が話し合っているのを聞くのも初めてではない。
「私が行きますよ」
「え!?」
 私の言葉に四人共素っ頓狂な声を上げた。
「でも春宮先輩、夜勤だったんですよね?」
「はい」
「もうそろそろ夜勤は明ける時間ですよ?」
 先輩である私に押し付けるような形になってしまって遠慮をしているのか、四人は顔を合わせて相談をしているようだった。私はそんな四人に微笑み掛けた。
「だからこそ私が行きますよ。皆さん、これから朝の巡回や申し送りの時間でしょうし、私に任せて準備に取り掛かって下さい」
「でも……」
「ほらほら。早くしないとお仕事に遅れてしまいますよ。後から咎め立てるつもりもありませんから私にお仕事を譲って下さい」
 まだ気が引ける様子の四人にそう声を掛けるともう一度四人は顔を見合わせて、遠慮がちに口を開いた。
「じゃあ……お言葉に甘えても良いですか……?」
「ええ。お任せ下さい」
 四人は何度も頭を下げながら、『ありがとうございます』とお礼を言い、その場を立ち去った。その背を暫く見守り、私も彼らに背を向けて再び物品倉庫へと向かった。
 まだ私は更木隊長の治療に当たったことが無い。言葉は悪いが、だから興味があった。噂では彼の為人をよく耳にするが、実際はどう言う人なのだろうかと。実は入隊初日に顔を合わせた事はある。卯ノ花隊長と立ち話をしている時に更木隊長が現れたのだが、そこに現れた目的は勿論卯ノ花隊長で私なんか認識の外だった。別れる間際に目が合い、驚いて戸惑う私の代わりに卯ノ花隊長が私の紹介をして軽く会釈しただけ。言葉は交わさなかった。それきり更木隊長とは接点を持たなかった。気が付くと胸が弾んでいた。父と母から『物怖じせず好奇心が旺盛だ』とよく言われる事を思い出して笑みが溢れた。私のこういうところをそう言っているのだろう。
「えっと……」
 先程の四人の話では更木隊長の怪我の具合は分からなかった。治療拒否をしている、という事は意識がある。意識があるという事は、命に関わるような怪我では無い――そこまで思考したが、通常の人ならば意識を失っていそうな重傷を負っても更木隊長は平然としていた、とも噂を聞いた事がある。全く怪我の具合が予想が出来ない。軽症から重傷まで対応が出来るように物品を棚から集める。重傷であれば私一人では対応が仕切れないだろうから、一先ず応急処置が出来るような物を棚から選ぶ。腕に抱えた物品を倉庫にある予備の救護鞄に詰めていく。
「よい、しょっと……」
 必要そうな物を詰め終わった救護鞄を閉じて、背負う。色々な事を想定して荷物を詰めた為、救護鞄はすっかり重くなってしまった。荷物の重さから肩紐が食い込む。肩紐に指を通し、前に軽く引っ張り余裕を持たせる。
「よし!」
 気合を入れて、十一番隊へと向かうべく私は物品倉庫を後にした。
 日勤帯の方に挨拶と報告をする。そこでもまた別の人に面倒事を押し付けたみたいでごめんなさいと頭を下げられた。気にしないで欲しいと微笑んで、四番隊を出た。
 歩を進めながら視線を落とすと地面には風に吹かれて散ってしまった桜の花弁達。それが絨毯のように辺りに広がっている。なるべく踏んでしまわないように桜色ではなく、茶色の部分を歩く。歩幅が広くなったり、狭くなったり、右へ行ったり、左へ行ったり、千鳥歩きのようになってしまう。一人で噴き出して笑った後に、まだ仕事の最中だったとハッとする。誰にも見られて居なかっただろうかと思い、辺りを見渡す。日勤帯が始まったばかりなのもあり、周りには誰一人居なかった。ホッと胸を撫で下ろし、再び歩を進める。改めて桜の絨毯を眺めた。それがまるで十一番隊への道を示しているかのように見えた。

 *

 十一番隊隊舎が見えてくると門前に人が立っているのが見えた。近付くに連れ、その人影がはっきりと見てくる。陽の当たり加減で紫色に見える髪の毛は顎のラインで切り揃えられ、右目と右眉には鳥の羽のような美しい装飾品が二本ずつ。首元は橙色の防寒具のようなもので隠されている。右腕にも同じく橙色の腕貫を装着して、肌を隠している。その人物と会話をした事は無いが、特徴的な見た目からしっかり名前と顔は一致する。
「綾瀬川五席、おはようございます」
 腕を組んで門に軽く寄り掛かり、何処か一点を見つめている。名前を呼んで声を掛けると目だけがこちらに向けられた。
「もしかして君が四番隊の子?」
「はい」
 返事をすると綾瀬川五席は姿勢を正して、身体をこちらに向けた。
「待ってたよ。隊長の所まで案内するから着いて来て」
「よろしくお願いします」
 頭を下げ、上げるともう既に綾瀬川五席は歩き出していた。小走りでその背中を追った。
 門に足を踏み入れ、十一番隊隊舎内を歩く。綾瀬川五席に先導され、暫く歩いていると周りからの視線を感じて辺りを見渡した。きっと私が四番隊の隊花が入った救護鞄を背負っているからだろう。それで私の身元がばれたのか、あまり良くない言葉も聞こえて来る。本当に十一番隊と四番隊の関係は良くはないのだと改めて肌で感じた。来ない方が良かった、とは思わないがやはり少し居心地が悪い。思想的には正反対。全てを受け入れろとは言えないが、少しは寛容に享受すべきでは無いだろうか。そう思っていると綾瀬川五席が立ち止まった。ぶつかりそうになり、慌てて足を止める。どうかしたのだろうか、とその背中に視線を送っていると綾瀬川五席は大きく手を叩いた。その音で私に集まっていた視線は綾瀬川五席へと移った。
「見せ物じゃないよ。僕ら十一番隊が隊長の為に願い出て、わざわざ此処に来てもらったんだ。ほら、サボってないで早く自分の持ち場に戻るんだ」
「すみませんでした!」
 綾瀬川五席の言葉を聞いた十一番隊の方達は頭を下げて、そそくさとその場を立ち去った。
「……ありがとうございます」
「君を助けた訳じゃないよ。面倒事に巻き込まれたく無かったからね。放っておいたらアイツらに食ってがかりそうだったし」
 見透かされていた事が恥ずかしく、顔に熱が集まった。俯くと綾瀬川五席の笑い声が聞こえた。
「ふふ……。君も結構血の気が多そうだね」
「そ、そういう訳では……」
「自分の気持ちを偽ってヘラヘラ笑ってるより良いんじゃ無い?」
 そう言うと再び綾瀬川五席は歩き始め、私もその後を一定の距離を保って着いて歩いた。それ以上、言葉を交わす事は無かった。数分程歩いて、綾瀬川五席が扉の前で立ち止まった。
「ここだよ」
 私を振り返って、扉を指差した。
「わざわざ案内ありがとうございました。道を覚えたので帰りは大丈夫です。綾瀬川五席も忙しいと思うのでお仕事に戻って下さい」
 私の言葉に綾瀬川五席は少しだけ目を見開いた。直ぐに眉を顰めて、口を開く。
「……隊長、今結構イライラしてるけど一人で平気?」
「私まだ更木隊長とお話しした事が無いのでなんとも言えませんが、大丈夫です。もし、えっと……大丈夫そうじゃなかったら……走って逃げますので」
「……そう。まあ僕に聞こえるぐらい大きな声を出して貰えれば助けに来てあげるよ。それじゃあ、よろしくね」
 綾瀬川五席は口角を上げて、綺麗に微笑んだ。手をひらひらと振りながら私に背を向けてその場を立ち去った。
 更木隊長が居る隊首室の扉に向き直り、深呼吸を一つ。扉の中から重く刺々しい霊圧を感じた。綾瀬川五席の言う通り更木隊長は機嫌の悪さを肌で感じた。扉を叩こうと握った右手に自然と力が篭った。手の甲を扉に向けて、人差し指と中指の第二関節を使って扉を三回叩いた。
「更木隊長。四番隊から怪我の治療で参りました、春宮優紫と申します。お身体を拝見させて頂きたいので、中に入ってもよろしいでしょうか?」
 数十秒、数分待っても返事は返ってこなかった。
「失礼致します」
 無礼だと分かっていながら扉を開いた。扉越しに感じた霊圧が直で肌に感じて、少し身が強張った。もう一度深呼吸をして、足を踏み入れた。私の気配を感じたのか、長椅子に寝転んでいた人影が身を起き上がらせた。部屋が暗く、顔は見えなかったが特徴的なその影は更木隊長。
「何の用だ」
 声を掛けても返事が返って来なかったのは寝ていたのか、無視をしていたのか。そんな呑気な事を考えていると低い声で尋ねられた。
「怪我の治療で参りました」
「俺は呼んでねえ」
 更木隊長はそう言うと再び長椅子に寝転んだ。
「十一番隊の方達から申請がありました」
「………」
「仮眠中のところ煩わしいと思いますが、怪我を拝見させて下さい」
「………」
 ゆっくり歩を進めて、更木隊長の元へと近付く。距離が縮まるにつれ、更木隊長の霊圧はより重く苦しいものになった。よく更木隊長の垂れ流しの霊圧で気分を悪くしてしまう人がいると聞くが、これがそうかと納得する。今は機嫌が悪いせいか普段よりも身体への影響が強いのではないだろうかと勝手に推測した。なんとか、倒れずに更木隊長の傍に辿り着いた。
 更木隊長の左肩から脇腹あたりに掛けて死覇装と隊長羽織に血液がべっとりと付着していた。傷をしっかり確認はできないが、出血から深い傷だと予測が出来た。
「早く洗濯されないと血液はなかなか落ちませんよ? それに椅子にも付いてしまいます」
 わたしの言葉を聞いた、更木隊長は大きな舌打ちをついた。
「るせェな……」
 閉じていた目を開き、鋭い視線を私に向けた。声も雷のように低い重低音。
「傷口を拝見させて下さい」
「………」
「寝たままの姿勢だと傷が拝見できないので、起き上がってここに座って頂けますか?」
「触ンじゃねえよッ!」
 身体に触れようとすると大きな手で思い切り弾かれた。叩かれた手の甲が熱を持ち、赤く腫れた。少し痺れている。私はその手を握りしめて口を開いた。
「お黙り下さい!」
 先程の更木隊長の怒声に負けないぐらい私も声を張った。更木隊長は面食らった顔で言葉を失っていた。しん、とした静寂に包まれる。再び私が口を開き、静寂を破る。
「私は今、貴方の怪我の治療を任されています。貴方は患者で、私は貴方の主治医です。十一番隊隊長と四番隊平隊士ではありません。私の言う事には従ってもらいます」
「………」
 更木隊長が丸くした目でこちらを見つめている。鳩が豆鉄砲を食らったような顔とはこういう顔を言うのだろうか。そんな呑気な事を考えてしまった。呆気に取られている更木隊長の身体に触れる。今度は拒まれなかった。
「さあ。身体を起こして、ちゃんと座って下さい。そのままだと治療が出来ませんからね」
「………」
 数秒間があったが更木隊長はゆっくり身体を起こして、長椅子の手すりに乗せていた足を下ろして座った。
「ありがとうございます」
 横目で私の様子を伺って来た為、目を合わせて微笑むと直ぐに視線を外して床を見つめていた。しばらく沈黙して、更木隊長は口を開いた。今度は激しい怒声ではなく、落ち着いた低い声だった。
「……お前、気が弱そうに見えて卯ノ花みてェな事を言うんだな……」
「ふふっ。そう言って頂けて光栄です」
「光栄か……?」
 下げていた視線を上げて、私と目を合わせた。眉を寄せて、あからさまに怪訝な顔をしている更木隊長が私にとっては新鮮だった。
「私は卯ノ花隊長の直属の部下ですもの。憧れて尊敬している卯ノ花隊長のようだと言われて嬉しいです」
 卯ノ花隊長は、例え目上の人でも物怖じする事なく、間違っている事を間違っていると相手に意見を伝える事が出来る人。そして、分け隔て無く皆を平等に扱ってくれ、春のようにあたたかい優しさで包み込んでくれる。そんな卯ノ花隊長は私の憧れであり尊敬している人。
 更木隊長は、それでも理解出来ない、というような顔をしていた。思わず声を出して笑いそうになってしまい、声を殺すが声が少しだけ漏れてしまった。その声は届いた更木隊長はこちらを見ていた。
「ごめんなさい。お傷、拝見致しますね?」
 あまり笑ってしまうとまた怒られてしまうと思った私は、早速仕事に取り掛かった。更木隊長は黙って小さく頷く。
「傷が見えるように隊長羽織と死覇装を脱いで頂きたいです。傷が痛むと思うのでお手伝いさせて頂きますね。失礼します」
 隊長羽織の襟元を持って、更木隊長が袖から腕を抜きやすいように羽織を広げた。脱ぎ終わった隊長羽織を畳んで、長椅子に置いた。
「どうせ捨てる物をそんなに丁寧に扱わなくて良いだろ」
 更木隊長は自分の隣にある隊長羽織を見つめながらそう言った。
「捨てられるのですか?」
「血付いてンだろ」
「しっかり洗えばまだ使えますよ」
「………そうか」
「肌寒いと思いますので死覇装は左側だけお脱ぎ下さい。お手伝いしますね」
 左胸にある傷に響かないようにそっと死覇装を肌蹴させた。痛々しい傷口が露わになった。傷口は深く皮下組織まで達していそうだった。虚の鋭利な爪で抉られたのだろう。幸い出血は既に止まっていた。
「傷が深そうですが、痛くないですか?」
「痛くねえ」
「更木隊長はお痛みに強いのですね」
「皮肉か?」
 眉を寄せて疑うような視線を向けられた。その表情に少し笑ってしまった。
「いえ、違いますよ。お痛みに強い方は人より怪我を負う事も多ければ、深い傷を負う事が多いと思いますのでお気をつけ下さい」
「………」
「何が命取りになるかは分からないので周りの方達のお言葉に是非耳を傾けて下さいね」
「………」
 何かを考えているのか、無視されてしまっているのかは分からないが相槌を打つ事なく更木隊長は黙って静かにしていた。
「まずは血液を落としましょうか。あちらの給湯室を借りしてよろしいですか?」
「あ、ああ……」
「ありがとうございます」
 背負っていた救護鞄を降ろして、中から持ってきたタオルを取り出す。隊首室の中にある給湯室へ持って行く。お湯が出る蛇口を捻り、お湯が出てくるまで数秒待つ。指先で温度を確認しながら、もう片方の水が出る蛇口を捻る。丁度良いぬるま湯になったのを確認して、タオルを濡らす。水滴が出なくなるまで両手で硬く搾る。掛け流す用のぬるま湯も持って行けるように戸棚を開き、器を探す。戸棚の中には湯呑みがあり、それを手に取った。暫く使われていなかったのか埃をかぶっており、軽く洗い流して中にぬるま湯を溜めた。それとタオルを持って、更木隊長の元へと戻る。
「お体拭きますね。少しお湯を掛けて、血液を拭き取ります」
「ああ」
 タオルで受けながら乾燥して凝固した血液へお湯を掛ける。
「染みないですか?」
「問題ねえ」
 手元から更木隊長の顔へ目を移し、表情を確認する。痛みから表情が変わっている様子は無く、再び手元に視線を戻した。ぬるま湯で少しずつ血液を溶かして、タオルで優しく拭き取る。砂や小石が視認でき、それも慎重に取り除いていく。お湯を掛けて、溶かして拭き取る。それを数度繰り返し、大方の血液を吹き取った。血液を吸い取って白から赤く変色したタオルをビニール袋に入れて、空になった湯呑みを近くの机の上を置く。
「終わりました。次は治療に移りますね」
 両手を傷口にかざし、手のひらに霊圧を込めた。淡い暖色の光が灯る。ちらりと横目で更木隊長の様子を伺う。眉間から皺が少し減り、霊圧も柔らかくなったような気がした。リラックスしている姿にほっと胸を撫で下ろし、自然と頬が綻んだ。手元に視線を戻し、手のひらに意識を集中した。言葉を交わさず、そのまま治療を続けていると更木隊長はじっと私の手元を見つめていた。
「心配されていましたよ」
「あ?」
 私の手元から顔へと視線が移動する。相槌と呼ぶには少しぶっきらぼうではあったが、目を少し丸くし、きょとんとした子供のような表情をしていた。
「十一番隊の方々が更木隊長の事を心配されていましたよ」
「……何ともねえって言ってンのに誰も聞きやしねえ」 
 更木隊長は小さく舌打ちをついた後、そう言って溜息をついた。
「確かに私も心配され過ぎるとそう思ってしまう事もありますが、でも心配してもらえるのはとても幸せな事だと私は思います」
「……幸せ?」
「はい。それも一つの愛の形ですから」
「……愛」
「はい」
「………」
 会話はそこから続かなかった。理解が出来なかったのか、どこか考える素振りで黙って床を見つめていた。
「皆さん、親身になって更木隊長の事を心配されててお優しいですね」
「そんなもんじゃねえよ。怪我人を放っておいて、後で死んだなんて気分悪いだろ」
 更木隊長は先程より深い溜息をついた。
「私が十一番隊の門をくぐって、更木隊長の元へ来る間に十一番隊の方達とすれ違いました。『更木隊長に何かあったらタダじゃおかねえぞ』と。皆さん、そう言う目で私を見ていましたよ」
「………」
「皆さん、更木隊長の事が大好きだから、心配されているんですよ」
「気持ち悪ィ……」
 不快そうに眉を顰めている更木隊長に思わず笑ってしまった。勘違いしていると直ぐに分かってしまった。
「ふふっ。"好き"は、恋愛の"好き"だけではありませんよ。恋人としての好き、友達としての好き、家族としての好き、同僚としての好き、部下としての好き、上司としての好き、沢山あるんです」
「……ふん」
「好きな人だから、悲しい思いや辛い思いをして欲しくないとみんな心配するんです。だから、私の中では、心配は愛なんです。あくまで持論ですけどね」
「………」
「でも、ご自分の事をあまり卑下なさらないで下さい。更木隊長は沢山の方から愛されていますよ。……私も、更木隊長のお具合とお怪我を拝見するまで心配でした」
「……そうか」
「はい」
 小さな声で返事が返ってきた。微笑み掛けると、ちらりと横目で更木隊長はこちらを見つめてきた。小首を傾げると目を逸らされてしまった。私も更木隊長から目線を外し、手元に戻した。更木隊長の傷は完全には塞がっていないが、自分の霊圧が尽きてきた。元より隊長、副隊長や席官の手当ては同等の霊圧を持った者が治療に当たる事が決まっている。更木隊長は良くこういう事がある為、平隊士が治療へ向かう事があるが。席官でも無い私が雲泥の差がある隊長格の傷を回道で完全に治療をするのは無理に等しい。しかし、皮下組織まで達していた傷は何とか真皮まで治癒させる事は出来た。後は軟膏を塗って、包帯の保護ぐらいしか私には出来ない。
「申し訳ございません。私には完全には治療出来ませんでした。卯ノ花隊長や虎徹副隊長なら綺麗に治せたはずなのですが……生憎本日はどちらも手が離せず、私が伺わせて頂いたのですが……」
「いや、良い。ここまで治ったなら直ぐ塞がるだろ。それに……」
「……はい?」
「いや……なんでもねえ」
「……では、傷口に傷の治りを早める軟膏を塗って包帯を巻きますね」
「ああ」
 回道を中断し、両手に手袋を装着した。軟膏が入っているチューブの中身を手の甲に出した。それを指先で傷口を埋めるように厚く塗っていく。
「もし傷口の周りが赤く腫れてきたり、膿が出てくるようだったら四番隊にお越し下さい。その時は別のお薬を塗る必要があるので」
「そうなのか」
「はい。細菌に感染してしまっているので、その細菌を退治できるお薬を使わなければいけないんです」
 更木隊長に説明しながら傷口にガーゼを当て、包帯を巻いていく。
「何も異常が無ければ、一週間後にまた傷の具合を拝見したいので四番隊でお待ちしていますね」
「………」
「よし、終わりです。お疲れ様でした」
 包帯を巻き終わり、手袋を外し、使用した物を片付ける。更木隊長は私の手の動きを目で追っていた。その姿に飼い主の動向を見守る犬や猫が頭に浮かんでしまって、つい笑いそうになってしまった。笑いを堪えている事がばれないように片付けを続ける。使用した湯呑みは給湯室で水洗いをし、軽く水を切る。水切り籠も水滴を拭き取る布も無い為、戸棚の外に置いた。給湯室から出て、荷物を置いている場所に戻る。忘れ物は無いかと辺りを見渡していると、更木隊長の隣に置いた隊長羽織が目についた。
「あっ!」
「どうした」
「良ければこの隊長羽織を私にお洗濯させて下さい」
「捨てようと思っていたものだ。好きにしろ」
「ふふっ。はい、好きにさせて頂きます」
 隊長羽織を両手で拾い上げて、胸に抱える。
「これをお洗濯して待っていますので、一週間後四番隊へ是非お越し下さいね」
「………」
 そう来たか、と言いたそうな目で更木隊長に見つめられた。
「もし、今日みたいにどうしても気が向かなかったら私を呼び付けて下さい」
 救護鞄を閉じて、背負う。
「それでは、私は帰りますね。お大事にして下さい」
 更木隊長へ一度頭を下げて、廊下へと繋がる扉へと歩く。扉の前まで来ると、更木隊長へ振り返る。
「失礼致しました」
 もう一度更木隊長に頭を下げて、扉に手を掛ける。扉を開けて、立ち去ろうとした時に更木隊長に呼び止められた。
「おい」
「はい……?」
「名前ぐらい名乗っていけ。主治医ってのは患者に身を明かさねえのか」
 部屋の中に入る前に名乗ったがやはり聞いていなかったか、眠っていたのだろう。私は姿勢を正して改めて自己紹介をした。
「失礼致しました。私は、四番隊所属の春宮優紫と申します」
「はるみや、ゆうし……」
「はい。今後ともよろしくお願い致します、更木隊長」
 私の名前を復唱する更木隊長の小さな声が聞こえて、自然と私は微笑んだ。
「それでは、失礼します」
 再び頭を下げて、扉を開く。廊下に出て、ゆっくり音を立てないように扉を閉めた。十一番隊の門へと向かって歩き始める。道中、欠伸が一つ出てしまった。伝令神機を取り出して時間を確認すると正午を迎えようとしていた。そう言えば、お腹が空いた気がする。夜勤明けからそのまま十一番隊へ向かった為、何も胃に入れていない。四番隊に戻ったら後片付けをして、報告を書かなければいけない。その間に少しだけ何か食べても許されるだろうか。残業はまだまだ続きそうだが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
 そうだ。まずは四番隊に戻ったら、この隊長羽織に付着した血液を落とす為につけ置きしておいた方が良さそうだ。そう思いながら胸に抱いていた隊長羽織に目を落とした。そこに刻まれた十一という数字に桜の花弁が一枚落ちた。

 *

「おい」
「はい、なんで……ヒイッ! ざ、ざ、ざ……更木隊長! よ、四番隊に、な、何か……用でしょうか……?」
 声を掛けた奴は振り返って俺を見るなり悲鳴を上げて、何度も吃りながらそう言った。あからさまに俺から視線を外している。チラチラと横目で俺の様子を確認して、その度に小さく悲鳴を上げて目を逸らす事を繰り返している。そんな見飽きた反応に俺は小さく溜息をつく。
「用があるから此処に来たに決まってんだろうが。無かったらこんな所に来ねえよ」
 一週間前に四番隊の奴から治療を受けた。そいつから、傷の具合を見たいから一週間後に四番隊に来いと言われた。だからわざわざ出向いてやった訳だ。
「そ、そ、そうですよねー! アハ、ハハー!」
 俺とはなるべく話をしたく無ければ、近付きたくもない。目の前の奴がそう思っているのがじわじわと伝わってきて今度は小さく舌打ちをついた。もう数える気も湧かない程、何度も何度も見てきた反応だ。今更、悲しいとかそんな感情はない。だが、苛立ちはする。一週間前に俺を治療をした奴からはそれを感じなかった。だから、俺は大人しく治療を受ける気になってしまったのだろう。
「春宮って奴はいるか」
「えっ? 春宮さんですか? 春宮さんは、今日は確か――」
「山田七席、私がどうかしましたか?」
 目の前に突っ立っている男の向こう側から女の声が聞こえた。そちらに目を向けると探していた女の姿があった。
「春宮……」
「春宮さん! 今日、遅番なのにもう来られていたんですね」
「はい。準備が色々とあったので」
 一週間前に俺へ見せた笑顔を春宮はこの男にも向けていた。柔らかい笑顔と温かい声。こいつは俺以外の奴にでも同じように気が解れるような笑顔と心が溶かされてしまうような優しさを向けるのだろう。それは偽ったり、取り繕ったものではないぐらい俺にでも分かる。
 その対象に俺が外れていない事にどうしようもなく心が浮つく。普段なら自分に理解できない感情に腹が立って舌打ちでも付いていただろう。でも、それも悪くはないと思ってしまう。この春の日差しにでも頭がやられてしまったのだろうか。
「更木隊長、お待ちしておりました。……私の名前、覚えていて下さったのですね」
 男から俺に視線を移した春宮と目があった。男の声に掻き消されてしまったと思っていた俺の声は、しっかりと春宮に届いていた。俺が頷くと目を細めて微笑まれて、何故か胸が、温かくなったんだ。

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