ikiyou


めぐり逢うもの


 母が倒れた。
「お母様……」
「優紫ちゃん、心配かけてごめんね…。お母さんは大丈夫よ…」
 私を心配させないように微笑む母の笑顔はいつもと違ってぎこち無さがあった。
 息は荒く、熱のせいで頬は紅潮し、額に薄らと汗をかき、綺麗な透き通った声は掠れていた。
 私はその汗を拭う為に母の枕元にある桶を手繰り寄せた。中に貯めてある冷水に手拭いを浸す。硬く絞ろうとするが、幼い私の力では十分に絞る事が出来ずに手拭いからは水滴がぽたぽたと止めどなく流れ落ちめいる。自分が思い描くように看病をする事が出来ず、情けない自分に涙が出そうになった。
「…ふふ。優紫ちゃん、ありがとう」
 母はそんな自分の気持ちに気付いたか、私の頭へと手を伸ばす。私の大好きな優しい手が頭を撫でる。母の温かさに涙が頬を伝う、それを拭おうと手拭いから手を離そうとした時に大きな手に包み込まれた。
「…お父様」
 父の手だった。
「自分の体と垂直になるように縦に握るんだ その方が力を入れやすい」
 そう言うと父は手拭いを横に握っていた私の手を解き、雑巾を縦に握らせた。左手を順手で手前、右手を逆手で手拭い上部。
「そう何度も握り直すものでは無い しっかり握ってなさい」
「…はい」
「しっかり握ったら、両手首を内側に向けて絞るんだ やってみなさい」
「はい」
 父の言葉通り私は両手首を内側に向けて雑巾を絞る。すると今度はしっかりと水気を切る事が出来た。父の顔を見上げると目を細めて笑みを浮かべていた。それに嬉しくなり私も顔が綻んだ。そんな私達を見守っていた母も小さく笑い声を漏らし、微笑んでいた。
 絞った手拭いで母の汗を拭き取る。火照った顔に水で濡らした手拭いが気持ちいいのか母は目を閉じて気持ち良さそうにしていた。
「ありがとう、優紫ちゃん」
 母は手を伸ばし、もう一度私の頭を撫でた。頭を数回撫で、私の頬に手を添えた。熱のせいか母の手は熱かった。
「苑枝、食事は摂れそうか?」
「はい。…残してしまうかもしれませんが」
「構わん」
 上体を起こす母の背に父は手を添える。私も手伝おうと母に手を伸ばす。
「優紫」
 それを制するように父は私の名を呼んだ。
「はい」
「後は父に任せて向こうで遊んでいなさい」
「でも私もお母様の看病を──」
「優紫も風邪を引いてしまったら元も子もない。父を困らせないでくれ」
「……はい、わかりました」
 そう言われてしまったらそれ以上我儘を言うことが出来ず、寝室を後にした。
「……もう少し優しい言い方してあげたらどうですか?」
「十分優しく言った。……何か駄目だったか?」
「もう…才紫朗さん…。才紫朗さんは怒っていなくても怒っているように見えてしまいますからね。きっと優紫ちゃん泣いてますよ」
「………」



 母と父からすれば私は力になれない程まだ幼いようだった。自分では色々出来るようになった。そう思っていても、大人からすればまだまだ子供だ。それは十分に分かっていたが、私も色々できるようになった、と知って欲しかった。
「確か、この本に……」
 私は父の書斎で薬草図鑑の頁を捲っていた。
 父は瀞霊廷の四番隊に所属する死神である。それ故に父は回道に長けている。
 また私の家、春宮家は代々医学に秀でており、流魂街で町医者としても活躍している。その為、父の書斎には多くの医学書がある。
 多くの人々に『ありがとう』と感謝を述べられる父の姿はとても誇らしい。そしてそんな父に私は憧れを抱いている。
 暇さえあれば父の書斎で書物を本を開いているが、まだ簡単な文字しか読めない私は薬草図鑑や人体図解の本──絵だけでも意図が汲み取れるような本ぐらいしか理解することは出来なかった。それでも理解という言葉を使えるほど十分なものでもない。
 父の仕事を邪魔しない程度に、文字の読み方や意味を尋ねた。そこで父から教わった滋養強壮という言葉と薬草。それを体調を崩して寝込んでしまっている母の姿を見て思い出したのだ。
「……あった!」
 記憶の中の薬草と一致する絵と共に父から教わった『滋養強壮』という文字。
 体力を消耗している時に滋養強壮効果が高いものを摂取すると良いと父が言っていたのを覚えている。
 その薬草は一見ただの白い花に見えるが、この白い花弁や葉にその作用があると父から教わった。
 この薬草を探しに行こう。
 そう思い至った私は大きな本を抱えて、父が四番隊で使っている救護鞄も肩にかける。私は父と母に見つからないように家を飛び出した。
 文字が読めない私が分かることは図鑑に載っている薬草の外見とそれが滋養強壮の効果があるということだけだった。生えている時期、場所が分からずに飛び出すなんて今思えばあの頃の自分はとても無謀だった。でも恐怖心は無かった。その時の私には父と母から褒められて喜ぶ自分の姿しか思い浮かばなかったのだ。



 私は探している薬草の頁を開いたまま本を抱えて、生えていそうな場所を探し歩いた。生い茂る草の中、樹木の根元、河川敷等思い付く場所をただ闇雲に探した。同じ頁に載っている薬草はいくつか見つけた。しかし目当ての薬草を見つけることは出来なかった。植物にはそれぞれ時期や生育地があることを私はまだ知らなかった。辺りを見渡しながら先へ先へと歩く。
 そんな私に声をかける者がいた。
「お嬢ちゃん」
 背後からかけられた言葉に私はゆっくり振り返った。そこには掛衿、裾、袂が土で汚染された着物を来た男が二人いた。二人は私の頭の先から足先まで品定めをするように見ていた。
「綺麗な着物を着ているね」
 私に害を与えようとしている人だと直ぐに分かった。逃げなければ。頭の中で警笛が鳴り響いた。その場から逃げようと私は立ち上がったが、手首を掴まれてしまいそれは叶わなかった。
「離して! 離して下さい!」
 その手を振り払おうとするが力が適う訳がなく、ただ抵抗できないように余計私の手首を掴む力が強くなっただけだった。
 男の一人に抵抗出来ないように両手を拘束され、もう一人は父の鞄を乱暴に物色していた。
「やめてください! それはっ」
「チッ…金目になるような物は入ってねェな。何だよ、つまんねェな」
 目当ての物は無かったのか塵を捨てるかのように鞄を放り投げた。地面にぶつかった衝撃で包帯や薬、集めた薬草が散らばった。
「やっぱりお嬢ちゃんが着ている着物が一番良いな」
「これだけ綺麗な着物着てるんだ コイツ捕まえて親に金を要求したらそれなりに貰えるだろ」
 男の人はそう言うと私に目線を合わせて、再び舐め回すかのように私を見る。
「それ、お兄さん達にくれないかな」
 男は私を指差した。何を、と聞かなくても先程の男の発言で察しは付いた。
「お嬢ちゃん、どこの子だい?」
「お父さんとお母さんは何て言う名前かな?」
 手首を掴む男の手に力が篭った。
「い、嫌っ!」
 片手で抵抗しようとするがその手も掴まれてしまう。
「離して…!」
 やはり私は無力なのだ。
 少しできる事が増えたからと言って、何でもできる気になっていたことが恥ずかしかった。悔しさが涙へと変わる。
「誰かっ!たすけ」
「おい」
 私の声を遮るように自分と同年代ぐらいか少し年上の幼い男の子の声が聞こえた。
 私と男達はそちらに目をやった。そこには私より背が高い少年が立っていた。短髪の黒髪に鋭いがあどけなさはある目付きで男達を睨んでいた。身に纏っている着物は元はどんな着物だったのか想像できないほど袖や裾は引き裂かれている。そして男達と同様に土で汚染されていた。
「お前は!」
 男の一人が声を上げた。
「お前らさっきどさくさに紛れて俺の食い物を盗んで行っただろ。返せ」
「あれは俺たちが」
「返せ」
 彼は手に持っていた刀身が長い刀をその男達に突きつけ、凄味が増した目で睨んでいた。それに声にならない悲鳴をあげた二人は果物や木の実、食べ物を地面に落としてそそくさとその場を去った。
 私一人では追い返さなかった男二人をものの見事に数秒で追い返した。
 男二人の背中にふん、と鼻を鳴らし、彼は地面に落とされた物を麻袋に詰め始めた。私はそれを呆然としながら見つめた。彼は私の視線に気付き、こちらを振り返った。
「………やらねェぞ」
 手に持っていた林檎を齧りながらそう言った。食べ物が欲しかった訳では無い私は頭を振った。
「じゃあ何だ」
「あの…、ありがとうございました…」
「………」
 助けてもらった感謝を述べるが彼から返答は無かった。私に向けていた視線を林檎へと戻し、しゃくしゃくと齧っている。無視されてしまった。
 やがて、林檎は芯だけになった。彼はそれを放り投げてまた私へと視線を向けた。
「まだ居たのか」
「あ、えっと…」
 私は地面に放り捨てられていた薬草図鑑を拾い、土を叩く。ぱらぱらと頁を捲る。目的の頁を開くと私はそれを彼に見せた。
「この白いお話を探しているんです。ご存知ないですか?」
「それ……」
 知っている、見たことある、という言葉は続かなかったが頁を見せた時に目を見張らせた彼はそれを物語っていた。
「ご存知なのですか!」
「……見てねェ」
「嘘です。見たことある顔をしていました」
「………さっき見た」
「本当ですか…! 是非そこに案内を」
「しねェ。もう帰れ。ここはお前みてェな奴が来るようなところじゃねェ」
 私の言葉を遮って彼はそう言って麻袋を肩に担ぎ、その場から立ち去ろうとした。
「待ってください!」
 彼の腕を掴んで引き止めた。
「……離せ」
 彼は掴んでいる私の手を数秒黙って見つめて冷えた声でそう言い放った。
「これが見つかるまで帰りたく無いんです…」
 暫く私たちの間に沈黙が流れた。彼の溜息がやけに響いた。
「……こっちだ」
 彼は顎をしゃくり、その方向へと歩き始めた。
「ま、待って下さい!」
 先導するつもりも無いのか私を置いて先へと歩いて行く背中を目で追いながら私は地面に散らばった薬や包帯、薬草を鞄に詰めて彼の後を追った。



「あそこだ」
 彼が指差したのは岩壁だった。指先を辿るとそこには図鑑と同じ白い花が一輪咲いていた。しかし、それは三メートル程の高さにだ。
「………」
「……分かったらさっさと帰れよ」
 案内して欲しいと願い出た時に直ぐに快諾されなかったのは面倒だと思った気持ちが強いだろう。だが、彼はこれを知っていたから帰れと私に言ったのだろう。
 背伸びして手を伸ばしてみるが無論届くはずがない。彼はそんな私を一瞥して、また私の前から立ち去ろうとした。再度私は彼の腕を掴んでそれを止める。
「ンだよ……」
 眉に皺を寄せて煩しそうにしていた。しかし、手は振り払われない。
「肩を…、肩を貸して頂けませんか…!」
 彼は私の言葉に驚いたように目を少し見開いた。
「……お願いします」
「俺の上に乗っても取れねぇよ」
「やってみないと分かりません…!」
「……これで取れなかったら諦めろよ」
 彼は溜息をついて渋々快諾した。
 彼は麻袋と刀を傍に置き、しゃがみ込んだ。
「さっさと乗れ」
 私を見上げて彼は急かす。
「し、失礼します……」
 彼の背に手を置き、彼の肩へ跨った。彼は私の両足を掴むとゆっくりと立ち上がった。落とされないように彼の頭に軽く捕まる。
「……」
 手を伸ばすが届かなかった。まだ距離がある。
「……だから言っただろ」
 彼は予想していた結果にそう言い捨てた。
「下ろすぞ」
「待って下さい!」
「お、おいっ!」
 私の足を支えている彼の手を振り払う。彼の頭に置き、彼の肩に足をかけた。
「危ねェだろ!」
「後もう少しなんです…!後もう少しで!」
 彼の肩に立った私は白い花へと手を伸ばす。しかし、後もう十センチ程届かない。
「後もう少しなのにっ…」
「もう諦めろ!」
「嫌です!」
「おいっ!」
 私は彼の肩を蹴り、跳んだ。
「……届いた!」
 私の手にはしっかりと白い花がある。
「きゃっ……!」
 が、彼の肩に元のように着地ができるはずがなく私はそのまま彼を下敷きにして落ちた。
「……いってぇな」
「ご…ごめんなさい……!」
 低い声で呟く彼の上から私は急いで立ち上がった。
「だ、大丈夫ですか…?」
「大丈夫なように見えるか?」
「ごめんなさい……」
 彼に手を差し出すが必要ないと払われてしまう。彼は一人で立ち上がった。
「あっ! 血が…!」
 彼の右膝に先ほどまでなかった挫創があり、出血していた。
「こんなの大した傷じゃねェよ」
 彼は何でもないように言い捨て、血を拭おうと患部に手で触れようとした。
「触らないで下さいっ!」
 私の声に彼は驚いたのか肩を震わせ、手を止めた。
「清潔ではない手で触れたら化膿してしまいます。治療するのでそこに座って下さい」
「………」
 彼は反論する事なく黙って私の指示通り座った。私は鞄から手袋、消毒薬、滅菌ガーゼ、血止め薬、包帯を取り出した。まずは手袋を身につける。
「少し染みるかもしれません」
 消毒薬を滅菌ガーゼに浸して、傷口を消毒した。痛みがあるはずだが彼は何ともないそぶりで私の手元を見ていた。
 消毒が終わった傷口に次は血止め薬を厚めに塗る。そして、包帯を巻き保護をした。
「これで終わりです。このお薬は血を止めてくれる作用と瘡蓋の役割をしてくれて、傷の治りを早めてくれるので二、三日はこのままにしておいて頂いて構いません」
「……すげェな。医者みてェだな…」
 彼からの賛辞の言葉に頬が紅潮した。
「実は初めてでしたが、ちゃんと出来て良かったです」
「初めてだったのか」
「はい。でも何度も処置しているところは見たことがあります」
 何度も何度も父の傍で見てきた。自分の足に包帯を巻く練習もこっそりしたこともあった。実際に出来るか不安もあったが、それでも自信の方が強かった。
「益々すげェな」
 初めて彼が笑った。口角をずっと下げて不機嫌そうな顔ばかりしていたが、口角を少し上げて目を細めて笑っていた。その笑顔に何故か益々頬が紅潮するのを感じた。きっと、初めて一人で何か成し遂げた事を褒められているからだろう。そう自分を納得させる。
「これ差し上げます。今日みたいに怪我をした時にこれを塗って下さい。」
 あの男達のようにこれは父からくすねて来たものだが、きっと父もこうするだろう。私は血止め薬が入った瓶を彼の手に握らせた。
「……何故俺にここまでするんだ」
「二度も助けて頂いたからです。ありがとうございます」
「………」
 彼の賛辞の言葉に感謝を告げるがやはりそれに対する返答はなかった。
「なあ」
「……はい?」
「その『ありがとう』ってのは何だ?」
 無視されていたのではなかったのか。彼のその質問で彼の行動がに合点がいった。無視したのではなく、言葉の意味を知らなかった為に何と返せば良いのか分からなかったのだ。
「『ありがとう』は、感謝の気持ちを伝える言葉です」
「感謝……」
「はい。誰かに何かをして貰って、助かった時や嬉しかった時に感謝の気持ちとして『ありがとう』を相手に伝えるんです」
「……」
 彼は包帯が巻かれた右足に視線を落とした。そして、私へ視線を戻す。
「ありがとう」
感謝の言葉を貰ったことは初めてではない。
 けれど、初めて誰かの傷の手当てをした。そして、初めて誰かに感謝をされた。
「……はい!どういたしまして」
 それはとても自分を優しく包み、心も体も温かくなるものだった。
「……何で泣くんだよ」
「ごめんなさい…とっても嬉しくて…」
「俺が泣かせてる見たいだろ。とっとと泣き止め」
「嬉しくても涙は出るんです」
 私は涙を拭い、彼に笑いかけた。彼は不思議そうにしていた。
「あの、貴方の名前は何と言うんですか?」
「名前……」
「はい」
 彼は結んでいた口を開いた。
「……名前は──」
「勝手に出歩いては駄目だとあれ程言っただろう!」
 彼の声はかき消された。後ろを振り向くと父がこちらに走って来ていた。
「お父様…!」
「無事で良かった、優紫」
 私に怪我がないか確認して、父は私を抱きしめた。
「苑枝に叱られてしまった」
「お母様に…?」
 叱られると思っていたのは自分の方だった。
「ああ…。もう少し優しい言い方をしろと。大人ではただの風邪でも子供に罹ってしまったら重篤になる場合もある。それが心配だった」
 邪魔だから、という理由ではなかったのだ。
「……ごめんなさい、お父様」
「私が悪かった。優紫のことを足手纏いだと思った事はない。私のことをいつもよく助けてくれている」
 父に背中を撫でられる。優しいその手に思わず涙が溢れた。
「あのね、お父様。お母様のために私、薬草を集めたんです」
 鞄の中身を父に見せた。
「……凄いではないか。優紫はもう一人で何でも出来るようになったんだな」
 父に頭を撫でられた。私は照れを隠すように少し俯いた。
「ありがとうございます…でも私一人ではないんです…。私を助けてくれた人がいて、このお花を一緒に探してくれて………あれ?」
「私が来た時から誰もいなかったが…」
 振り向くとそこにはもう彼の姿はなかった。



「へえ〜!それで姐さん、四番隊目指すようになったんだ!」
 私は四番隊に遊びに来たなっちゃんと話をしていた。その中で私が四番隊を志すようになったきっかけはあるのかと尋ねられた。その為、私は父と母にしか伝えた事がない懐かしい思い出話をしていた。一通り聴き終わるとなっちゃんは感嘆の声を上げた。
「はい。元から四番隊に所属していた父には憧れていたのですが、それは本当にただ漠然とした憧れでした…」
 なっちゃんはうんうんと興味津々に私の話を聞いて頷いている。
「でも、その男の子と出会って…、初めて『ありがとう』を言われたことが嬉しくてもっと色んな人の助けになりたい、救いたいと思ったんです。あの時、男の子から『ありがとう』を言われた時に私のぼやぼやとした夢がしっかりと形になったんです」
「姐さん、小さい頃から本当にしっかりしてるよね」
「ふふ。そんなことありませんよ。でも、ありがとうございます」
 私の話を聞いて、涙ぐみながら小さく拍手を繰り返しているなっちゃんが可愛らしくて自然と笑みが溢れた。
「今の私があるのはあの男の子のお陰なのでもう一度『ありがとう』を伝えたいのですが…」
「名前聞けなかったんだもんね」
「はい…」
 きっとその男の子は忘れてしまっているだろう。少しだけの時間を共にしなかったがそこだけで分かった性格上、そんな気がしていた。自分ももう彼の顔も声もあまり思い出せない。大人に成長した今、それが手掛かりにはならないが。
「檜佐木のクソ野郎に頼んで、瀞霊廷通信に書いてもらう?刀持ってたなら死神になってるかも!」
「ふふ、そうかもしれませんね」
「案外近くに居たりして…!もしかしたら、たい──」
 扉が開く音がして、私たちは会話を止めてそちらに顔を向けた。
「剣八さん、やちるちゃん、いらっしゃいませ」
 部屋に入ってきたのは、剣八さんとやちるちゃん。
「……ここは店か何かか?」
「良きにはからえ〜!」
 やちるちゃんは腰な手を当てて笑い、剣八さんは少し不思議そうな顔を浮かべながら私たちに近づく。
「ふふ。お疲れ様です」
「お疲れ様。今日仕事終わりに買い出しに行くんだろ? 迎えに来た」
「そうでした!すみません、急いで片付けて準備します」
「ゆっくりでいい。なつめはサボってねェで早く戻れ。お前はまだ仕事だろ」
「ゆみちーが怒ってたよ」
「ゲッ……でも隊長もサボってた癖に棚に上げないでよ!ここ!ついてますからね、机の跡が!」
 やちるちゃんは言ったら駄目だと口の前に人差し指を立ててサインを送っていたが、なっちゃんはお構い無くそう言いなが自分の左頬を指差した。剣八さんの左頬には机の木目がくっきりと残ってしまっていた。剣八さんはなっちゃんを見て、自分の左頬を掌で擦った。勿論、消えるわけが無く、そんな可愛らしい様子に私は我慢できずに笑みが溢れてしまった。



 ぱちり、といつに無く目がしっかりと開いた。どうやら書類仕事の最中に机に突っ伏して眠ってしまったようだった。
 夢を見た。やちると卯ノ花に出会うよりずっと前の記憶だった。しかし今まで忘れてしまっていた。
 あの時の彼女は今何処で何をしているのだろうか。夢で見た彼女を急に思い出し、そんな事を思った。普段昔の記憶を夢に見ても、それきり後は何も考えたりも気になったりもしないのに今日は違った。
 助けるつもりはなかったが結果的に男達から彼女を助けた。そして彼女は俺に探しているという白い花の話をした。面倒臭いから立ち去ろうとしたが、自分の手を掴んで懇願する彼女の目を見ていると何故か無下に出来なかった。しかし、場所が場所だった。とても俺たちには届かない岩壁に彼女の探し物はあった。それを見せたら諦めて帰るだろうと思った。しかし彼女は自分に肩を貸せと言い始めた。肩に乗ってますそれには届かなかった。それでも諦められないと彼女は自分の肩に立った。そして跳んだ。
 綺麗な着物を着て、綺麗な言葉遣い、所作だった彼女の突飛な行動を思い出して笑みが溢れた。
 跳んだ彼女は自分の上に落ちて来て、自分は膝を怪我した。放っていればそのうち治る、と血を拭おうとしたら怒鳴られた。そして、その怪我の処置を受けた。的確な処置と指示を出した彼女はとても聡明だった。意志が強く、困難に負ける事なく突飛な行動をした彼女。しかし凛とした強さも持ち合わせ、朗らか柔らかさも持ち合わせる彼女が不思議で幼い自分は笑みが溢れた。そこで俺は『ありがとう』という言葉を教わった。その後、名前を尋ねられたが父親らしき人物の声が聞こえて俺は直ぐに草むらの影に隠れた。何故隠れる必要があったのか。理由はわからないが自然と体が動いた。そこで暫く二人のやり取りを見ていた。その時に彼女の名前を聞いた気がするが、今となってはもう思い出せない。
「剣ちゃん、おっはよ」
「……ああ」
 夢で見たものをもう一度頭の中で繰り返していると視界にやちるが現れた。やちるは俺の顔を見てやけ楽しそうに笑っている。
「何だよ」
「何でもないよ〜」
 壁にかかっている時計を見ると定時から一五分も過ぎていた。
「やちる、居たなら起こせ」
「起こしたよ! でも剣ちゃん全然起きないんだもん!」
 今日は仕事を上がった後に優紫と約束があった。夕飯の買い出しだ。夕飯を振る舞う相手が多い為、買い出しには優紫一人では無理だ。だから毎回買い出しにはいつも一緒に行っている。買い出しも料理作るのも大変だから俺とやちるの為だけに作れば良いのに、と心中で思っているが口にはしない。
「行くぞ、やちる」
「はーい!」
 俺の背中にやちるは飛び乗る。
 急いで四番隊へと向かった。



 四番隊隊士から優紫がそこにいると教えられた部屋の扉の前に立つと、中から優紫となつめの話し声が聞こえてきた。少し聞き耳を立てていると、それは何処かで聞いた事があるような話だった。暫くそのまま聞いていると、はっと息を呑んだ。
 その話は俺が見た夢の話だと気づいた。
 優紫は今その話をしている。
 どういう事なのか、直ぐには分からなかった。でもそういう事か。そうなのか。
「今の私があるのはあの男の子のお陰なのでもう一度『ありがとう』を伝えたいのですが…」
 あの時の彼女は幼い頃の優紫だったのだ。
「名前聞けなかったんだもんね」
「はい…」
 伝えることはできなかった。あの時の俺には名前なんて無いから。
 今思えばあの父親は『優紫』と名前を呼んでいたかもしれない。都合が良すぎる解釈だが、しっくりきた。
「剣ちゃん、入らないの?」
「あ、ああ……」
 不思議そうにしているやちるに一瞥して俺は戸に手をかけて、開いた。戸が開く音に会話を止めて二人はこちらを振り返った。
「剣八さん、やちるちゃん、いらっしゃいませ」
 優紫は優しく微笑んだ。
「……ここは店か何かか?」
「ふふ。お疲れ様です」
「よきにはからえ〜」
 優紫の台詞に突っ込みを入れると口に手を当てて笑っていた。
「優紫もお疲れ様。今日仕事終わりに買い出しに行くんだろ?迎えに来た」
「そうでした!すみません、急いで片付けて準備します」
「ゆっくりでいい」
 机の上を片付け始めた優紫を焦らせないように俺はそう伝え、なつめの方へと目線を移した。
「なつめはサボってねェで早く戻れ。お前はまだ仕事だろ」
「ゆみちーが怒ってたよ」
「ゲッ……でも隊長もサボってた癖に棚に上げないでよ!ここ!ついてますからね、机の跡が!」
 なつめは自分の左頬を指差しながらそう言った。
「あーあ!くるくる言っちゃった!」
 やちるのその言葉に先程のやちるの言動に納得した。こいつが笑っていたのはこれか。
 優紫は俺たちを微笑ましそうに見ながら笑っていた。



「お待たせしました」
 小走りでこちらに向かって来た為、前髪が乱れてしまっていた。
「待ってねェよ」
「…ふふ。ありがとうございます」
 前髪を整えてやると少し恥ずかしそうに笑っていた。
「さあ、行きましょうか」
 俺は頷き、優紫に手を差し出した。優紫は俺の手を取り、柔らかく微笑む。そして、いつものように指を絡める。
「しゅっぱーつ!」
 俺たちが手を握るのを俺の肩から見届けたやちるは拳を空に掲げながら高らかに声を上げた。優紫もそれを真似て、片手を空に掲げていた。
「耳元で叫ぶんじゃねェよ。キーンってして痛ェだろうが」
「ふふっ」
 やちるの声の大きさに耳が痛かった。
「ごめん、ごめん」
 本当にそう思っているのか。気持ちが篭っていないように聞こえる謝罪の声と共にやちるは俺の耳を撫でていた。
「行こうよ、剣ちゃん、優ちゃん。あたしお腹空いちゃったよ〜」
 やちるにまだ言いたいことがあったが、俺たちは買い出しの為に街へ向かって歩き始めた。
 道中、優紫がやちるに今日は何が食べたいかと話しかける。しかし、結局やちるはいつものようにカレーと言い放つ。おそらく今日もカレーになるのだろう。カレーの出現率は高いが飽きが来ないのはそれは優紫が作るからだろう。
 その話がひと段落して、俺は口を開いた。
「……夢を見たんだ」
「どんな夢ですか?」
 優紫は俺を見上げて、目を細めて優しく微笑んでいた。
 もう一度『ありがとう』を伝えたいと言っていた相手が俺だと分かった時、優紫はどういう反応をするだろうか。
 俺は優紫の歩幅に合わせて歩きながらゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


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