二十一日に至る
晄夏は今ほど己の語彙力の無さを悔いたことはなかった。
本を読むのは嫌いではないどころか好きなのだから、もっとジャンルを幅広く読めばよかったとか、いっそのこと自分が小説家だったらよかったのにとか。確かにその目で見た景色を正確に表す術を、今の晄夏は持っていなかったのだ。それでも現代文担当してんのか。
綺麗、見惚れる、美しい──適当ではあるのだろう。辛うじて晄夏が思い浮かんだ言葉の数々。だが足りない、もっと相応しい言葉が、世界のどこかにはあるはずだ。晄夏の知識が致命的に足りていないだけで。
場所は晄夏が勤務するキメツ学園。部活動に励む生徒たちも帰宅し、残っている生徒がいないかの確認と戸締りのために、晄夏は校内の見回りをしていたのだ。
つるりとした白い廊下が、窓から射し込む西日で赤く染まっている。まるでレッドカーペット、この学園に歓迎されているような気さえした。そういえば某テーマパークの出入り口付近の地面が赤いのも、歓迎の意を表しているのだったか、とどこかで見聞きした豆知識を何気なく思い出す。子供の頃はよく遊びに行ったものだが、いつからか年単位で行かなくなってしまっていた。大人になった今だからこその楽しみ方もあるだろう。また遊びに行きたいなと思った時、無意識に誰を誘うかは決まっていた。それに気づき、一人口元を緩める。
(……廊下で一人でニヤニヤしてるのは危ない奴だな、やめよう)
深呼吸をして、表情筋を律する。先日も電車で変質者が出たというし、教師である自分が不審者扱いされるのは御免だった。
階段に落ちていたヘアピンやトイレの出入り口近くに落ちていたハンカチなどを回収する。見回りの際に見つけた落とし物は、後で職員室前に設置された落とし物ボックスへ入れるのがルールだ。落とし物ボックスにはいつも何かしら入っていて、筆箱や水筒など、失くしたら絶対に困るだろうと思う物こそ落ちているし、なかなか持ち主が現れないのである。たまに二度見してしまうほど目を疑う物が落ちていたりする。豆腐とか。
「……──ええ」
その時、廊下を歩いていた晄夏の耳に、鈴を転がしたような声が届いた。
間違えるはずもない。晄夏の幼馴染みにして、一目惚れをしたその日から想い続けている胡蝶カナエの声だ。教室の中で誰かと話しているらしいと気づき、近づいていく。
夕日に照らされた横顔、桜色の唇が言葉を紡ぐ。声も音として認識していたはずだが、何故か聞こえなかった。晄夏は確かに、カナエが目の前の人物に向けて「好きよ」と告げたのを見た。
「大好き、とっても」
大切に、一音一音を慈しむようにして紡がれるそれの、なんと麗しいことか。
頬が色づいて見えるのは、夕日に照らされているからだけではないのだろう。恋をする女の子というのは、いつだって可愛らしく見えるもので──。
「カナエちゃん〜〜〜!」
机に突っ伏しておいおいと泣く同僚を見て、宇髄天元は(コイツと知り合いって思われたくねぇな)と思いながら水を差しだした。泣きすぎて喉が嗄れたのか、見事なだみ声である。汚い。
この大号泣は居酒屋の半個室で行われているので、枝豆をつまんでいる宇髄はもれなく知り合いどころか友人なのだろうという認識を、店員並びに近くの席に座る客から受けていた。
宇髄と晄夏はタメであり同級生であった。片や絵に描いたような不良と、片や絵に描いたような優等生。住む世界がまるで違う──と思いきや、学生時代は互いのことを認識していた上に、廊下ですれ違えば談笑する程度の仲だった。それが今や同じ学校の教師、就任当日には奇妙な縁だと揃って笑い飛ばしたものである。
「ハァ〜〜〜……何、地味に泣いてんだ。ホラ聞いてやるから話せ、あと水飲め」
「うぅ……カナエちゃん……」
最早「カナエちゃん」が鳴き声のようになっている晄夏は、お冷を二杯飲んだところでようやく息をついた。特段酒に弱い訳でもないはずの晄夏が、今日はまだビール一杯しか飲んでいないことについて宇髄は目を瞑った。
「で? 胡蝶がどうしたって?」
「フラれた」
「は? ……はぁ!? お前ッ、お前、は!!?」
「立ち直れない!!」
そう言って晄夏は再び机に突っ伏し、ウワーッ! と泣き始めた。宇髄は晄夏が何を言っているのかさっぱりだったので、混乱に混乱を極め、晄夏の身体を起こすと胸倉を掴んで勢いよく前後に振り回した。
「お前が胡蝶にフラれたって? お前が? お前が!?」
「う、うぇっ、吐く……」
キメツ学園に通う生徒ならば十人中十人が「嘘だ!」と叫ぶことだろう。宇髄はその十人の中に含まれている。
胡蝶カナエと言えば、おっとりとした性格とその美貌でもってえげつない人気を誇るキメツ学園の生物教師である。その人気は校内だけに留まらず、カナエと関わった人間は誰しも彼女を好きになる。如何に彼女を蔑んでいた人間であってもだ。万人に好かれる人間はいないという説を覆す稀有な人物にして人格者、それが胡蝶カナエである。
そんなカナエと『仲良さげに話していた』という嫉妬に塗れるどころかそれしかない理由により、生徒間で殺害計画が企てられたことがあった。ターゲットは数学教師の不死川実弥と現代文教師の新鎧晄夏である。
だがその実、不死川を標的とした殺害計画はすぐに消えていた。『スマッシュブラザーズ事件』のせいである。図らずも不死川は、数学の大切さを生徒に身をもって教えるという行為により、己の命を守っていたのであった。
反面、晄夏の殺害計画は結構な段階まで練られていた。不死川以上にカナエとよく話していたからである。一体何人の男子生徒がハンカチを食いちぎり、血涙を流したと思ってやがるという怨念が、そこには確かにあった。むしろそれしかなかった。
だが晄夏はまさか自分の命を生徒に狙われているなどとは思っていない。露程も考えていなかった。なので、殺害計画を目論む生徒にも平等に接したし、生徒への対応はどこまでも真摯だった。放課後の晄夏が常駐している進路相談室はもはやお悩み相談室と化していた。ちなみに利用者は後を絶たない。
殺害計画に加担する生徒も相談室を利用した。隙を見つける為である。そしてカナエとの関係や何やらを聞き出そうとして、最終的に「ごめんなさァい!!」と走り去った。
伊達に二十年近く想っていない。時の長さと想いの強さはイコールではないし、比例もしない。だが晄夏は比例していたし、絶対にカナエを幸せにするという強い意志を持っていた。
殺害計画はいつの間にか消えていた。想いの強さが違うっていうか、普通に良い先生だから憎めないっていうか。要は人徳の勝利である。不穏分子達はハンカチを定期的に噛みちぎっているが、いっそ殺してくれと言わんばかりに「はよ結婚しろ」と囁いているのであった。
そんなわけで、言ってしまえば晄夏とカナエの関係はキメツ学園公認なのだ。その内狛治殿と姫みたいに結婚するんだろうな〜なんてのは、二人の実の妹たちですら思っていたことである。
「なにしたんだ、お前……。いやむしろ、なにしたらお前がフラれるんだよ……」
宇髄は恐る恐る問う。凄まじくシェイクされた晄夏は顔を青くしていた。
今朝だって昇降口で出会ったからと一緒に仲睦まじく職員室に入ってきた癖に? 普段あんだけ相思相愛感見せつけてる癖に?
いつまでもプロポーズしない晄夏にカナエが痺れを切らしたか。宇髄はそんなことを考えたが、すぐにありえないと断じた。痺れを切らすくらいならカナエから逆プロポーズするだろう。それくらいの度胸と行動力がカナエにはある。
「今日……、今日見ちゃったんだよ……! 偶然……!」
「何を……?」
思い出すだけで鼻の奥がツンとし、また新しい涙が滲んでくる。
「カナエちゃんがっ! 不死川に! だっ、だ、大好きってぇ〜〜〜〜!」
「は?」
「は?」
「え?」
「は?」
「ん……?」
晄夏は大きなため息をつく。未だかつてここまで大きなため息をついたことがあっただろうか。魂まで吐き出して抜け殻になってしまいそうだ。
夕暮れ時の光景を思い出し、失意を胸に机へ額をつける。
「カナエちゃん、綺麗だったなぁ……。幸せそうで、うぅ、不死川がクソ野郎なら頭から喰ってやりたいくらいだけど、不死川は良い奴だ……。クソ野郎だったらバラバラに斬って海に捨ててたけど、良い奴だ不死川……。俺が女だったら旦那になってほしいくらい良い奴なんだ、不死川……。言葉遣いとかちょっと乱暴だけど、男らしくていいと思う、俺。言動の端々に他人への気遣いと優しさがあるんだよな、人と真剣に向き合ってるからこそあれだけ怒れるってわかってる……。女性と子供への接し方は丁寧だしさ、この前駅前で迷子見つけて死ぬほど泣かれてたけど……」
絶賛傷心中の晄夏は気づいていなかった。ちょうど自分が叫んだタイミングでカナエ本人が現れたことも、不死川が「何言ってんだこいつ」と心底戸惑っていることも、伊黒小芭内が息を引きつらせて腹筋を鍛える羽目になっていることも、冨岡義勇が状況を把握しきれずに突っ立っていることも。
金曜日だし飲みに行こうぜ──まあそういうことである。宇髄が教師陣に声をかけ、一部は来なかったが、あの店集合なと。そういうことである。晄夏もそれは承知していたはずだが、ショックがデカ過ぎてそんなことは頭から全て吹き飛んでしまい、宇髄を引き摺って先に店へ入っていたのだ。「先店行ってて〜」「おお、お前の好きな唐揚げ頼んどくわ〜」みたいなやり取りはよくあることである。
ちゃんと他の面子が来ることを知っていたし、気づいてもいた宇髄はカナエと不死川を見て、もう限界だった。大声で笑いださないのは一抹の気遣いと言えるだろう。だが耐え切れなかったのでバンバンと机を叩いていた。
「俺はカナエちゃんのこと、世界中の誰より幸せにするって、思ってたけど……でも、不死川ならカナエちゃんのこと幸せにしてくれるよなぁ、カナエちゃんが幸せならさ、俺は……。…………だけどやっぱり俺が幸せにしたかった! 俺のお嫁さんになってほしかった……」
「晄夏君のお嫁さんにしてくれないの?」
ついに幻聴まで聞こえるようになった、と晄夏は本気でそう思った。カナエとよく似た声が聞こえる……ついでに顔をあげたらカナエそっくりの女性がいる。幻覚かな。この時の晄夏は息をしていなかった。ただ、急速に脳からアルコールが消え去り、脳みそだけ南極に飛ばされているかのような錯覚に陥った。
人生史上一番冷静になれたかもしれない。高速回転する頭でそう思った。
「…………………………………………………………………………………………………………………やり直していい?」
晄夏の声が蚊と張り合えるレベルでか細かったので、宇髄はついに大声で笑い始めたし、伊黒に至っては笑いを通り過ぎて窒息する勢いで咳き込んでいた。冨岡だけが「伊黒が死ぬ!」と本気で焦っていた。
「……ひとつ、聞きたいんだけど」
「ゲッホ! ゲホッゴホッ! グッ、フフ……ゲェッホゲホ!!」
「伊黒どうした! 喘息か!?」
「いつから聞いてた? っていうか伊黒大丈夫か」
後から合流した四人も席についたが、座った程度で笑いは収まらない。
晄夏の隣に腰を下ろしたカナエは、眉を寄せて晄夏の服の袖を引っ張りながら言う。
「私、不死川君に大好きなんて言ってないわ」
「……えっ!?」
「言われてねぇぞォ」
「教室に晄夏君が配っている花があるでしょう? それを好きなのかって聞かれて、大好きって答えたのよ」
「…………」
つまり勘違い。
聞いた部分が悪かった、あと教室を覗いたタイミングとか角度も悪かった。
たっぷり沈黙した晄夏は深く深く息を吸い、ゆっくりとそれを吐き出した。そんな深呼吸を三回ほど行い、情けない声だと自覚を持ちながら「よかった」と呟いた。
「……いや待て、何にもよくない! よくないぞ!」
「ハァ? 大団円だろ、よかったな勘違いで。ンなことだろうと思ったけど」
晄夏の勘違いによって引き起こされた大騒ぎは、今ではすっかり鳴りを潜めている。たまに伊黒が晄夏の顔を見るだけで変な顔をするが、とりあえず落ち着いている。それぞれ酒とつまみを片手に次回のテストのことだとか、自分の近況だとか、テレビ番組の話だとかを好きに話していた。
そんなとき、不意に晄夏が頭を抱えた。カナエは席を外している。宇髄は片眉を上げて怪訝そうにし、不死川は「酔っぱらってんのかァ」と晄夏に水を寄越した。良い奴である。
「ありがとう、不死川……。や、酔ってるには酔ってるけど、そういうことじゃなくて……。さっきの俺、もしかしてプロポーズ紛いのこと言ってなかったかなって……思い出して……」
「あー、まあ、確かに? 嫁にしたいとか何とか言ってたな」
「プロポーズ……? 新鎧は既婚者じゃなかったのか?」
「まじかよ冨岡」
「胡蝶と……そうか、未婚だったのか……」
この面子の中で、どうやら冨岡だけがカナエと晄夏は結婚しているものだと思っているらしかった。もしかして夫婦に見えていたんだろうかと晄夏は頬を緩ませた。すぐに宇髄が「デレデレすんな」とツッコミを入れた。
「当然プロポーズはするつもりなんだけど、どうしてこう……締まらないんだ。一世一代の覚悟をもってするつもりなのに、こんな! こんなうっかりで、中途半端に!」
カナエなら気にしないのでは? という意見はやぼである。男には決めなければいけないタイミングがあるし、決めたいときもある。同性故にその気持ちがわかってしまうので、余計な勘違いして傷心した上にそれを同僚に吐き出して男泣きしていたら想い人本人に聞かれてしまった──なんていう晄夏には心底同情したし、腹を抱えて笑った。
「今日のこと忘れちまうくらい決めていけよ」
「ああ、そうだな。ついでにどんなプロポーズをしたのか聞かせてくれ」
「伊黒……気になる人でもいるのか?」
「ン、まあ、いや……」
「そうかそうか、応援してるよ」
「うむ……む、うぅん……」
煮え切らない様子でもごもごと口を動かす伊黒を、晄夏は微笑ましく思う。伊黒の目に留まるくらいだから素敵な女性なんだろうなと想像する晄夏の脳内に、今だけペットボトルロケットの的になる生徒の姿はなかった。伊黒は赤点をとる生徒に容赦ないのである。
「今日のこと忘れるくらいのプロポーズ、かぁ……。カナエ、喜んでくれるかな」
「晄夏がしてくれることなら、なんだって嬉しいわ」
ヒュッと晄夏の喉が鳴った。
いつの間にか戻ってきたらしいカナエが顔を覗かせ、再度腰を下ろす。
晄夏は己の運の無さを呪った。どうしてこうも本人にだけは秘密にしておきたい部分を見事に聞かれてしまうのだろうか。慈愛に満ちた笑みを浮かべるカナエは今日も可愛かった。
「……ちゃんと日を改めて、伝えさせてください」
「うん、待ってる」
オマケのキメ学設定。
新鎧晄夏 現代文教師。
進路相談といえばこの先生、やたら大学について詳しい。進路相談以外の相談も聞いてくれるので、お悩み相談担当になっている。進路相談室は色とりどりの花がたくさん置かれており、全部晄夏が世話をしている。本人からはちょっと良い匂いがする。
実家がお金持ちらしいというか、キメツ町では結構有名なので、玉の輿を狙う女生徒もいる。
が、本人はカナエ一筋なので告白されても至極真剣にお断りしている。
殺意を人徳で黙らせる。ちなみに学生時代に宇髄と本気で殴り合いをしたとの噂があるが、全く喧嘩をするように見えないし強そうにも見えないので、都市伝説扱いされている。しんあな。
この度カナエと結婚することになった。