わたしが辞表を出したのは昨日、同僚たちが業務を終えて退社した後だった。


理由はとても人様には言えない程どうしようもないもので、それ故皆には話す事ができずに碌な挨拶もしていない。
社長には適当な理由をつけて退職の意向を伝えた。
我ながら、一社会人として有るまじきことだとは思う。
しかし、自分ではもう如何にもできない。
自覚はあれど、改善をする意志が湧かないのだ。


そうして人知れず社を後にしたわたしは今、社員寮の荷物を整理している。
社員ではなくなったのだから当然、この先ここに住まうことは許されないのだ。

これから一先ず旧い友人の所に身を寄せるつもりでいるが、実は次の職場は未だ決まっていない。
あまり多いとは言えないがそれなりに纏まった貯えがあるので、当分は食べていけるだろうと踏んではいるのだけれど…まさに見切り発車だ。

皆の出勤時刻を少し過ぎた頃から、携帯が休む間も無く震え出したが応答することはできなかった。
社長は他の社員たちに、わたしが去った事をどんな言葉で伝えたのだろうか。
今になってそんなことを気にしても、何の意味もないのだけれど。

電源をオフにして、放り投げる。
柔らかい絨毯の上に転がった小さな機械が、なんとなく、恨めしそうに此方を見ているような気がした。







「やあ周」


黙々と片付けを続けていると、部屋の入り口の方から声が聞こえる。
反射的に振り向くと、そこには1人の見知った男がいた。


「太宰…?!」


あんぐり、という言葉が今の自分にはぴったりだろうと頭の片隅で思いながら、開いた口が塞がらないまま”元”同僚の名を呟く。

彼はそんなわたしの顔を見て、口角を少しだけ上げた。

驚かない筈がない。
誰かが入室するような物音は一切聞こえなかったし、なにより鍵を閉めていたはずだ。
しかしなぜこの男が、この部屋に…。

そう思った時、彼の手にキラリと光るヘアピンのような物が見えた。

音もなく現れた事に関しては全くの謎だが、なるほど此奴にとっては施錠など無意味ということか、とひとり納得する。
納得している場合ではないけれど。


「引越しの手伝いでもしに来たの?」


不法侵入に関しては、面倒なので敢えて触れないことにした。
視線を手元の荷物に戻して作業を再開しながら、できる限り平静を装って言葉を発する。

…正直、動揺していた。

このまま誰にも顔を合わさず居なくなるつもりでいたので罪悪感は少なからず感じているが、なにより彼は今のわたしにとって、最も会いたくない人物なのだ。


「真逆、そんな訳ないだろう。」


太宰はいつもと何ら変わらない調子で、わたしの問いかけに対し否定した。
とはいえ元より答えなどわかっているし、仮に肯定されたとしても迷惑でしかないのだが。


「なら帰ってくれない?見ての通り忙しいの。」


悪態をつきながら、手元に落としていた視線を彼の方へ移す。
早くこの男を追い出したいという一心で、帰宅を促した。



「おや、ご機嫌斜めかい?」


しかし。
いつも通りの声色に、いつも通りの表情で、飄々と返されてしまう。

一体なにを考えているのだろう。
彼とは数年間共に働いたが、その真意が読み取れたことは未だ一度もない。

…ということは、この先、わたしが彼を理解することは一生ないのだろう。




「何ね、今日は君に頼みたい事があるのだよ。」


此処へ来た理由を訊くと、彼はこう言った。


「はぁ?!」



予想の斜め上を行く答えに、思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。

通常、突然辞表を出した同僚への対応として考えられるのは、”なぜ辞める”と問いただすか、”辞めるな”と引き止めるかのどちらかだろう。

しかし彼が選んだのはそのどちらでもなく、わたしに頼み事をするという選択肢。
しかも引越し準備真っ最中で、誰がどう見てもそれどころではないと理解できる状況だ。
一体何を頼むつもりなのかは知らないが、聞いてやれると思うのだろうか。

今のわたしにできる事と言ったら精々不要な家財道具を譲ることくらいだが、恐らく彼の望みではないだろう。社員寮は決して広くはないし、独り身の男に必要な物はそう多くない筈だ。

…ひとつ断っておく。
太宰は変人だが、馬鹿ではない。
なんとも悍ましいことだが、この男は人一倍に頭が切れるのだ。

だからこそ、何故こんなにも状況に不釣り合いな話を投げかけてくるのか、全くもって理解できなかった。
もしや太宰にだけ、わたしが退職したことが知らされていないのだろうか…と思うほどだ。

普段からサボり癖が酷く無断で席を外す事も多いこの男が、未だ情報を得ていないというのも考えられない話ではない。
しかしそれなら此処に来た時点で、私が荷物を纏めている事に疑問を持つだろう。
彼はこの状況を始めから受け入れていた。
だから知らないということは、恐らく無い。



「凄い顔してるよ周。どうしたんだい?」


「あんたの所為でしょ…。」



はああああ、と、肺が萎むのではと思うほどの深いため息を吐いた。
この男と話をすると、いつも血圧が上がるような気がする。



「君が何を期待しているのかは知らないけれどね、周。」



頭を抱えるわたしに、太宰は言った。



「私は君を引き止めないよ。」



彼はわたしに顔を近づけて、いくらか声を低くした。
どくん、と心臓が大きく脈打つのを感じたが、それは決して、異性に対するときめきなどという可愛らしいものではなかった。



「辞めたいなら辞めればいいさ。誰も強制はできないよ…君には選択する権利があるからね。まあ、他の社員の殆どは未だ納得出来ていないようだけれど。」


先程わたしの携帯を鳴らしていたであろう人々の顔が、脳裏に浮かぶ。
彼らは恐らく、今目の前にいるこの男よりは幾分か良識的な言葉をわたしに用意してくれていただろう。
それなのに、この男は。

思わず奥歯を噛んだ。

心臓が脈打つ度に、湧き上がる。
黒く澱んだ、とてつもない憎悪。
それが血液中の酸素と共に、身体中に巡らされていくような感覚がした。

わなわなと震える手を抑えるように、拳を握る。
真っ当な人間ではおよそ持ち得ないような、異常とも言えるほどの憎しみ。
それを放つまいと耐える自分と、どこか俯瞰している自分とが共存しているのを自覚して、少し奇妙に思う。


わたしは、この男が嫌いだ。
太宰治という人間が、世界で一番憎いのだ。



「それで、先刻言った頼み事の件なのだけど…。」



何事もなかったかのように、太宰はまたいつもの調子で話を戻した。
その態度が余計に嫌悪を抱かせることを、彼は気づいているだろうか。


わたしは唇を噛み締めて、俯向く。

その姿をどのように捉え、何を思ったのかはわからない。
だが太宰は、こう続けた。




「私を殺してくれないか?」






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