鼻腔を掠める良い匂いに、思わず顔が綻ぶ。

客席に届けられた2人分の珈琲からは、わずかに湯気が上がって見えた。
テーブルを挟んで向かいに座る太宰もまた、わたしと同じような表情を浮かべている。



「やっぱりここのが一番だよねえ。」



珈琲をひと口啜り、太宰が言った。
わたしはそれに頷きながら、カップに角砂糖を5つほど入れてクルクルと混ぜる。
するとそれを見た彼が目を丸くした。



「ずいぶん入れるんだね?」



いつも飄々としている太宰が、何かに驚くことは珍しい。
その顔がなんだか可愛らしいなあと思ったが、少し悔しいので言わないでおこう。



「今日は疲れてるから糖分補給しないと…。言っておくけど、ブラックで飲めない訳じゃないからね!」


「知ってるよ…だから驚いたのさ。働きすぎて頭がおかしくなったのかと思ったよ。」



態とらしく肩を竦めて、彼は続ける。



「連れ出して正解だった。」



そうかもしれない、と心の中で返事をしながらわたしも珈琲を啜る。

……うおお、甘い。

太宰がクスリと笑った。
顔に出ていたのだろうか。


この喫茶店が入ったビルの4階に、わたし達の会社がある。
先程までわたしはそこで、山積みになった大量の書類に追われていた。

それは決して珍しいことではないのだが、いかんせん今回ばかりは数が多すぎる。
ここ数日、大口の案件が立て続けにあった所為だろう。
自分なりに計画を立てて進めているつもりではいたのだが、体力的にも精神的にもそろそろ限界だ。
何故ならもう、4日連続で残業しているのだから。

太宰曰く、先刻までのわたしはまるで死んだ魚のような目をしていたらしい。
そしてそんなわたしを見かねた彼が、休憩に誘ってくれたのだった。
嬉しい気遣いだが、サボりの片棒を担がされただけのような気もする。



「ああ〜もう何にもしたくな〜い。」


「どうしたんだい周、私みたいなことを言っているよ。」


「あなた…自覚はあるんだね…。」



実は、いま目の前にいる彼のモノマネをしたつもりだったのだ。
真逆この完成度で気づかれるとは思わなかったが。

いやしかし、喫茶店とは実に素晴らしく、そして恐ろしいものだ。
先程までは心を無にして仕事をしていたが、今ではもう”働きたくない”という願いに縛られている。

ここは人をダメにする悪魔の店だ…。



「現場の仕事で忙しくなるのなら、ここまで苦痛じゃないんだけどなあ。」


「ああ、私もデスクワークはあまり好きではないから気持ちはわかるよ。」


「太宰はどんな仕事も好きじゃないでしょう。」


「まあ、そうだけど。」



なかなか鋭い指摘をしたつもりだったが、そんなものはどこ吹く風といった様子で、太宰は気怠げに頬杖をつく。
2人とも、珈琲がそろそろなくなりそうだ。
入れすぎた砂糖の甘い後味に、なんだか罪悪感が湧いてくる。
わたしは、マスターこだわりの一杯を無駄にしてしまったのではないのだろうか。
糖分補給がしたいなら、デザートのひとつでも頼めばよかった。



「あまり長居すると国木田に怒られちゃうなあ…。」



なんてことを言いながらも、頭の中ではケーキを注文するか否か悩んでいる。

そんなわたしを他所に、太宰は雑誌のページをペラペラと捲り始めた。
…雑誌なんて、いつの間に取ってきたのだろう。

この男が自殺と無関係の本を読むのは、珍しい。
グルメ雑誌か何かだろうか。
居酒屋の特集でもあれば、太宰は食いつきそうだ。



「旅行雑誌だよ。」



誌面を覗こうとするわたしの視線に気づき、太宰が言った。



「どうしたの急に。」



わたしは首を傾げる。
彼に対して、旅行好きだというイメージは持ち合わせていないからだ。



「私だって偶には旅に出たくなるよ。まあ、そう遠くへ行くつもりはないけれど。」


「そんな計画を練る余裕があるなら、いい加減この店のツケを払いなよ。わたしは肩代わりしないからね。」



”周ちゃんよく言ってくれた!”と、店の奥からオバちゃんの声がした。



「安心し給え。女性にお金を払わせる訳がないだろう?」

「太宰さんゴチになりまーす。」

「………。」

「冗談だからそんな悲しい顔しないでよ。」



全く、大の男が情けない。
わたしと太宰の収入はさほど変わらないはずだが、彼はいつも金欠だ。
何に使っているのか知らないが、どうせ碌なものではないのだろう。



「ねえ周。」



旅行雑誌の、とあるページを指差して太宰は言う。



「これから仕事を休んで、クラゲを見に行こう。」


「……はい?」



彼が見ていたページには、県内の水族館が載っていた。
クラゲの展示に力を入れているらしい。
幻想的な写真が添えられている。



「綺麗だろう?見てみたくないかい?」


「うん綺麗。見てみたいよ。見てみたいけど…あのさ、太宰…」



…お前、”これから”って言ったよな?



そう言い終わる暇もなく、太宰は立ち上がりわたしの手を取った。
オバちゃんに「それじゃあまた〜」なんて声をかけながら、片手をヒラヒラと振る。
強引に手を引かれた為に、わたしも共に店を出る事になってしまった。

ああ、わたしは代金をきちんと払うつもりでいたのに…。

申し訳なく思い振り返ると、オバちゃんは笑っていた。
あれは恐らく面白がっている。
それでいいのか!客のツケを膨らませているぞオバちゃん、それでいいのか!




「ねえ太宰、ほんとにこれから行くの?さすがに拙いよ…。」



国木田の怒号を脳内で再生させながら、わたしは空いた方の手で太宰の袖を掴む。



「なに、大丈夫さ。パッと行ってパッと帰ってこよう。」


「いやいや、無理でしょ!そんな近くないもの!」



彼が行こうとしている場所は、横浜市内ではなかった。
ここから電車に乗って40分程かかる街だ。
そんな所に行ってしまっては、社に戻る頃には日が暮れるどころか、終業時間を過ぎる。



「え?私、会社に帰るだなんて言ってないよ?」


「……家に?」


「うん。そういうこと。」




あっけらかんと、太宰は答える。

ああ、そうだ、そういえば。
先ほど彼は確か、「これから"仕事を休んで"、クラゲを見に行こう。」と言っていた。
いやはや流石というか何と言うか、此奴はサボりのレベルが常人とは全く違うのだなあと、場違いにも感心してしまった。



「いや、でもお金は?ないんでしょう?電車賃も入館料も、払えるの?」


「フフフ、心配はいらないさ!その程度の所持金は、ある!」


「ツケ払え!!」



恐らく喫茶店のオバちゃんは、彼を甘やかしすぎている。
オバちゃんがツケを生み出していると言っても、過言ではないのかもしれない。
……いやそれは過言か。



「大丈夫だよ、周は悪くない。悪いのは君をあれ程ズタボロにした仕事と、そんな仕事を君に振る国木田くんだ!」



わたしの手を放したかと思えば今度は両肩を掴み、軽く揺さぶるようにして、真剣に語りかけてくる。
その表情こそシリアスだが言葉の内容は非常に巫山戯ていて、なにより理不尽だ。
もしこれを国木田が聞いていたら、華麗な蹴り技を拝めるだろうなあと思った。



「それに…」



真剣な表情をいくらか柔らかくして、太宰が口を開く。



「これ以上、君の疲れ果てた姿は見ていたくないのだよ。」




ああ狡い。
この男はわたしの弱点を熟知している。

この蕩けるような微笑みと魅惑の言葉で、わたしはいつもダメになるのだ。



「し、仕方ないなあ。」



自分の顔がだらしなく緩んでいくのを自覚して、思わず俯いた。

唐変木だとか包帯無駄遣い装置だとか、様々な呼び名がつく彼だけれど。
こうしてわたしを甘やかす時だけは、許しがたくも愛おしい王子様なのだ。



「なるべく早く帰って来ようね。」


そう言って今度はわたしが彼の手を取ると、太宰は今日一番の笑顔を見せた。




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