01.Rencontre


太陽が地平線へと引き寄せられるように向かっていく、夕暮れの時刻。
西日を受けた川は赤く輝き、静かに流れている。

しかしそんな美しい景色になど目もくれず、
…否、それを認識する余裕すらなく、少年は川原に這い蹲っていた。



「腹減って死ぬ…。」



ふらつきながら、ゆっくりと立ち上がり、少年は虚空を見つめる。
彼の脳裏に蘇るのは、今から2週間ほど前の記憶である。

生まれ育った孤児院を、突然追い出されたあの日。
どこぞで野垂れ死んでしまえ!と自身を罵った大人達の声。

それらを思い出し、少年は固く拳を握りしめた。
……ここで死んでなるものか。
そうして彼は、一つの生きる決意をする。


次に通りかかった者…そいつを襲い、財布を奪う!


少年は元来、決して攻撃性の強い人物ではなく寧ろその逆である。
そんな彼が生きる為とはいえ他者に襲い掛かるなどと考えるのは尋常な事ではなく、その覚悟も相当なものだ。
其れ程までに、少年の状況は逼迫したものであったのだ。

だが、しかし。
そう覚悟を決めた直後、突然、彼の視界に或るものが現れた。


それは音もなく、一瞬の出来事だった。


ずぶ濡れの女が、ひとり。
川から這い上がって来た訳でもなく、将又そこらを歩いて来た訳でもなく。
一切の気配を感じさせることなく突然、彼女は少年の前に現れたのだった。




「あぁ、糞…あいつ絶対許さない…。」



俯せに倒れ込みゼエゼエと息を切らせながら、やや低い声で悪態をつく女。
その姿と、このあまりにも不可解な状況に、少年の"生きる決意"は跡形もなく消え去った。



「あ、あの…。」



少年が些か身を震わせながら声を掛けると、彼女は顔を上げた。
見たところその齢は、彼よりも少しばかり上だろうか。
なかなか整った顔立ちではあるものの、やや切れ長な目をしていて、鋭い眼光を放っている。
少年にとっては、それが何よりも印象的だった。



「あぁ、ごめん、そこの人…。」



彼の存在に気づいた女は、数回咳き込んでから声を発する。
その言葉は意外にも優し気で、思ったよりも話が通じそうな人物だと少年は安堵した。

しかしその安堵は、瞬く間に困惑へと移り変わる事になる。



「悪いけどそこに流れてる人、引き揚げてやってくれない?」

「…へ?」



間の抜けた声を発しながらも、少年は"そこに流れてる人"という言葉を受けて川を見やる。
すると人間の足が二本、まるで川底で逆立ちをしているかのようにピンと真っ直ぐ伸びていた。
それは川の下流に向けて、視界を左から右へと流れていく。
当然のことながら、逆立ちをしている訳ではなさそうだ。
……これは、事故か何かだろうか?

未だ事態が飲み込めずに困惑したままではあったが、少年は川に飛び込む。
それは反射的だった。

そもそも他者の財布を奪うという狙いが、当初の彼には存在していた。
それは人助けとはとてつもなく縁遠いところにある目的であった。
しかし前述したように少年は、元来攻撃性の強い人物ではない。
寧ろどちらかといえば気弱な方である。
その為、ずぶ濡れの女が音もなく現れたという状況だけでも彼が恐怖するには十分であったし、そればかりかその女は厭に鋭い眼光を持ち、何処か有無を言わさぬ雰囲気を纏っている。

つまりは彼の本能が、警笛を鳴らしたのである。
この女の言う通りにしなければ、自分は無事では済まないと。




「チッ…煙草もライターも駄目になったか。ったくあの莫迦…。」



川を流れていた謎の人物を連れ、なんとか川原に戻った少年が見たのは、またしても悪態をつく女の姿だった。

…ああ、怖い、このお姉さん怖い…。

少年は静かに恐怖していたが、彼女はそんなことには全く気づかぬ様子で、彼に礼と労いの言葉を掛ける。
この女、素行はあまりよろしくないようだが、どうやら悪人ではなさそうである。



「おいお前、いつまでも気を失ってないで起きなさい。そして煙草を弁償しろ。」



女は立ち上がり、少年が川から助け出した人物へと近づく。
それは彼女と年の近そうな青年であった。



「あの…こちらの方は、お知り合いですか?」

「ああ、これね、わたしの同僚なんだ。」



そんな彼らの会話が耳に届いたのか、間もなくして青年はパチリと目を開き、勢いよく上半身を起こした。
とても川に溺れて死にかけていたとは思えないその様子に、少年はまるで化け物でも見たようにギョっとして、少しばかり後ずさる。

青年は首を動かし、辺りをキョロキョロと見まわした。
そして口を開く。



「…助かったか。…ちぇっ。」



まさかの舌打ちである。
本来なら礼をされるべき状況であるはずなのに、この反応はどういう事だろうか。
少年の困惑は、先程よりも一層色濃いものになってしまった。



「ちぇ、じゃないわ。お前なに考えてんの!莫迦なの?!」

「ああ、なんということだ!君も死に損なったのだね!」

「ふざけんな!如何してわたしがお前と入水なんてしなくちゃいけないんだよ!!」

「へ?入水?!」



突如耳に入った穏やかではない言葉に、少年は驚きの声を上げる。
そんな彼の様子をさして気に留める風でもなく、青年はあっけらかんと答えた。



「知らんかね、入水。つまり自殺だよ。」

「…は?」



自殺…その言葉に少年は、遂に理解が追い付かず表情を凍らせる。
それを見た女はため息をつき、頭を抱えながらこう言った。



「こいつね、自殺が好きなんだよ。わたしはその莫迦げた趣味に付き合わされたってわけ。」



成る程。
自殺が好き…という事に関しては未だ心に引っかかるものがあるが、彼女がずぶ濡れの状態で此処に現れたのはこの変わった青年の物騒な”趣味”とやらに巻き込まれ、命からがらなんとか逃げ延びた結果のようだ。
そう納得した少年であったが、ここで一つの疑問が浮かぶ。

彼女は先ほど、音もなく突然目の前に現れた。
川から這い出てきた様子など、一切なかったのだ。
実は少年がそれを目撃した際、もしや幽霊か何かだろうかなどという考えが頭の片隅に過ぎったのだが、こうして言葉を交わしてみると彼女は紛う事なき生きた人間である。
…一体どういう事だろうか。

その疑問を当の本人へと投げかけるか否か迷った少年であったが、しかし、青年が次に言葉を発したことで機を逃してしまう。



「いやあ、君があまりにも美しいものだから、一緒に死んでみたくなってね。」



なんとも、正気の沙汰とは思えぬ発言である。

…美しい人がいると、共に死んでみたくなるものなのだろうか…。
最早この青年を理解することは自身には不可能だと判断した少年は、諦めて適当に聞き流すことにする。
しかしこの男を理解できないのは彼だけではなかった。



「…お願いわたしを助けて。」



先程まで強気の態度を崩さずにいた女が、なんと恐怖の表情を浮かべている。
皮肉にも彼女がこうしていると、どこにでもいそうな、可憐な女性に見えた。



「…苦労されてるんですね。」



しかし少年にできるのは、当たり障りのない言葉で労うことのみである。
わかっていた、と言わんばかりに彼女は力なく笑った。
その瞳は濁っていた。




「まぁ…人に迷惑をかけない清くクリーンな自殺が私の信条だ。」



徐に青年が立ち上がり、濡れた外套の水気を軽く絞りながら言う。
その言葉を聞いてすぐに、女はありありとした嫌悪を顔に浮かべた。



「それ、わたしの目を見て言える?」



しかしそんな彼女の憤りなどはどこ吹く風。
青年は少年へと視線を移して、言葉を続ける。



「だのに君に迷惑をかけた。これはこちらの落ち度。なにかお詫びを…」


…ぐうううう…
言い終える前に、少年の腹が鳴る。
それを聞くと青年は、クスリと笑った。



「空腹かい少年?」

「じ、実はここ数日なにも食べてなくて…。」


…ぐうううう…
今度は青年の腹が鳴る。



「私もだ。ちなみに財布は流された。」

「ええ?助けたお礼にご馳走っていう流れだと思ったのに!」



悲嘆する少年。
何とか罪を犯さずとも食事にありつけそうだったのに、ついていない。
これ以上ないほどの悲しみが、彼を襲った。

それを不憫に思ったのか、女が懐に手を入れ財布を探し始めるが…。



「あれ、まさかわたしの財布も流された…?!」



今度は彼女が悲嘆した。

少年と、女。
悲しみに暮れた二人の視線が、交差する。

狂った同僚によって命の危機に晒されたばかりではなく、金銭までも失うとはなんと不憫な…。
少年が彼女を見つめる視線は心なしか涙ぐんでいるようにも見えた。
そしてそれは彼女も同じである。
彼らは視線のみで、互いに同情し合っていた。

すると、その時。



「おォーーい!!」



川の対岸から、男性の声が聞こえる。
三人は一様にその声の主へと視線を移した。



「こんな処に居ったか唐変木!」



対岸の男がそう続けて声を発すると、青年は手を振りながら軽い口調で言葉を返した。



「おー、国木田君ご苦労様ー!」

「苦労は凡てお前の所為だこの自殺嗜癖!お前はどれだけ俺の計画を乱せば…」



青年が発したのは労いの言葉だが、どうやら対岸にいる彼にとっては地雷のようである。
"国木田君”と呼ばれたその男は、更に声を張り上げて怒号を飛ばした。
少し距離があるため彼の表情はよく見えないが、声色からはかなりご立腹であることが容易に推測できる。
その様子に、女はただ静かに苦笑していた。
しかし青年はそれらを物ともせず、少年へと向き直る。



「そうだ君、良いことを思いついた。彼は私達の同僚なのだ。彼に奢ってもらおう。」

「へ?」

「…まぁ、ちょっと気が引けるけど仕方ないよなぁ。わたし達お金ないし。」

「聞けよ!!」



勝手に話を進め始めた彼らを見て、国木田という男は再び声を張り上げた。
だが二人の耳には届かない。
それにしても、青年は兎も角として彼女がその案に賛同するとは。
少年は少し意外に思った。



「ところで、名前はなんていうの?」



女が少年に問いかける。



「中島…敦ですけど。」



彼の名を知った青年が言う。



「ついて来たまえ敦君。何が食べたい?」



まるで自分の金で奢るかのような口ぶりである。
これでは国木田というあの男性が、なんだか不憫だ。
しかし少年…敦の中では、それよりも食事にありつける喜びの方が勝っていた。



「……あの……」



敦は遠慮がちに答える。



「茶漬けが食べたいです。」



その返答に、二人は噴出した。



「はっはっは!餓死寸前の少年が茶漬けを所望か!良いよ!国木田君に三十杯くらい奢らせよう!」

「遠慮はいらないよ敦君!!」

「俺の金で勝手に太っ腹になるな太宰!新藤!」



二人の身勝手な発言に再び声を荒げた国木田だったが、敦はその言葉の最後に反応する。



「太宰?新藤?」

「ああ、私達の名だよ。」

「そっか、まだ名乗ってなかったな。」



青年が敦に答えると、女が申し訳なさそうな顔をした。
自身が名乗るより先に他者の名を聞いたことを、気にしているのだろうか。
やはり彼女は、見かけによらず律儀な人物のようである。

そして彼らは、名を名乗った。



「私は太宰。太宰治だ。」

「わたしは新藤周。よろしく。」




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