04.relie


周はその日、夢を見た。
それは随分と前に現実に起こった、懐かしい出来事だった。


薄暗いバーのカウンターに腰かけて、ウイスキーのロックを煽る。
そんな彼女の涼し気な目元は普段よりも幾らか潤み、白い頬は仄かに赤らんでいた。
周は特段酒に弱い訳ではなかったが、この日は少し飲みすぎていたのである。

グラスをコースターに置き、こめ髪を耳に掛ける。
するとその耳元で、小ぶりなピアスがゆらりと揺れた。

隣に腰かける男は煙草の紫煙を燻らせながら、横目で彼女を見やり、呟くように言う。


『お前、綺麗だな。』


その声が耳に届くと、彼女は目を丸くする。
しかし、潤んだ双眸が彼を数秒凝視した後、やがてクシャリと細められた。



***


目が覚めると、いつもの社員寮の天井が視界に入った。

枕元の携帯を確認すると、アラームが鳴る2分ほど前である。
少々損をした気分になりながらも、周は起床した。

手早く布団を畳んで、洗顔と歯磨きを済ませる。

酷く懐かしい出来事を夢に見た。
とても幸せな記憶だったが、気分が沈む。
その理由は自分でもわかっていた。

…もう二度と、起こり得ない出来事だからだ。

鏡に映る自分の姿は、どことなく悲壮感を漂わせていた。
こんなことではいけない。周は小さく溜め息を吐く。

寝癖を整え、寝間着を脱いで、仕事着に着替えるべく箪笥の引き出しを開けた。

シンプルなデザインの白いブラウスに、黒のワイドパンツを合わせる。
所謂、今時のオフィスカジュアルといった装いである。
流行トレンドというものは、雑誌で軽く流し見する程度には意識していた。

それから簡素な鏡台に向かい、化粧を施す。
決して派手にはしないが、手は抜かない。
ベースメイクは勿論のこと、アイシャドウやアイライン、マスカラといった一通りの工程を丁寧に終わらせた。

こうして出来上がった彼女の姿は、まさに上品なOLといった雰囲気だ。
…普段の些か粗暴な言動を忘れれば、の話だが。

軽めの朝食を摂り、食後の一服をし、そろそろ出掛けようかと思ったところで周の携帯が鳴った。
画面に表示された発信者の名は、"太宰治"である。
その名に眉を顰めながら、周は通話ボタンを押した。


「何か用?」


挨拶も口にしないまま淡々と要件を問えば、飄々とした声が聞こえてくる。


≪実は今、死にそうなんだ。≫

「それはおめでとう。」


同僚から命の危機を知らせる連絡が来たとなれば、一体何事かと訳を訊くのが道理ではあるのだが、何せ相手はあの自殺嗜癖を持つ変人である。
感情の籠らない声で紡がれた祝いの言葉は、至極尤もな反応であった。


≪いやそうじゃなくて、助けて≫

「どうして?よかったじゃん願いが叶って。」

≪えー、そんな連れないこと言うの?折角オイルライター直してあげたのに。≫

「は?!」


思ってもみなかった言葉を聞いて、周は素っ頓狂な声を上げた。
オイルライターといえば、昨日この男の入水に巻き込まれた際に故障してしまった周の私物である。
それが直ったという事は、彼女にとって良い知らせに違いはなかった。
しかしここまで驚いているのは何故かというと、太宰に修理を依頼した覚えもなければライターを渡した覚えもなく、それどころか今も自分の手中に在るものと思っていたからである。

動揺を隠し切れないまま、鞄の中や昨日着ていた外套のポケットを弄ったが、案の定ない。
代用している安物のライターで何とかなっていた為に、気づくのが遅れたようだ。
周にとって宝物と言えるほど大切なものであるにも拘らず、この抜かりようである。
それは彼女の物臭な性格を如実に表していた。

……しかしあの野郎、いつの間に……。

そんな周の心情を察したかのように、太宰がクククと喉を鳴らして笑ったのが電話越しに聞こえる。


≪修理代は私の救出ということで頼むよ。≫


その言葉の返事を待たずして、通話は切れた。




***


太宰は詳細を話さなかったが、居場所は予想がついていた。
否、話さなかったからこそ、予想がついたというべきか。

電話越しに車の音や風の音などが聞こえていたので、屋外であることは推測できた。
それに加えて今日は、新入社員の入社試験を予定している。
太宰がその打ち合わせ通りに動いているのならば、向かうべき場所はただひとつだ。



「やあ、来ると思ったよ。」


周が住まう社員寮とは別棟にある、同じ形状をした建物の前に太宰は居た。
此処も探偵社員が住まう寮の一つで、こちらの部屋は主に男子社員に割り当てられている。

近づいて来た周の姿を捉えると、太宰はにっこりと微笑んだ。
しかしその表情とは不釣り合いに、酷く珍妙な様子である。
ドラム缶の中に、足を上げたV字の姿勢で綺麗に嵌っているのだ。
粗方察しはつくものの理由を訊けば、新しい自殺法を試したが失敗したとの事だった。
あまりに予想通りだったので余計に馬鹿らしくなり、このまま置き去りにしてしまいたくもなったが、人質ならぬ物質を取られてはそういう訳にもいかない。


「でもわたしの力じゃどうにもな…ここは男手が欲しい。」


成人男性の体を引き上げるなど、周には土台無理な話である。
異能力を使えば或いは…と考えたい所だが、生憎この男にはそれが通じない。


「なに、敦君に電話すればいい。」

「…そうだよ。最初からそうすればいいんだよ。なんでわたしを呼んだのさ。」

「会いたかったからに決まっているだろう?それに君なら絶対に来るとわかっていたからね。」


狡猾な笑みを浮かべる太宰の懐には、恐らく件のオイルライターがあるのだろう。
しかし彼の体勢をどうにかしてやらないことには、それを取り返すことは出来なさそうである。


「わたし、試験前には敦君に接触しない予定だったのに。国木田君に怒られる…。」

「彼は予定が狂うのを何より嫌がるからねえ。まあでも、君は"作戦"が始まる前に適当に退散すればいいさ。」

「…めんどくせぇ…。」


悪態をつきながらも、周は外套のポケットから携帯を取り出し、彼の少年の名を探す。

中島敦。
虎に変身する異能力を持ち、区の災害指定猛獣とされていた少年。
そんな彼を"うちの社員にする"と言い出したのは、太宰だった。
とはいえ一介の社員に過ぎない太宰にそれを決める権利はなく、敦の抱える特異な事情もあり反対する者も少なくない。
そういう訳で社内は些か揉めたのだが、社長がその場に居なかった為に一先ず保留となり、行く当てのない敦は社員寮の空き部屋に置かれる事となったのだ。

そして今日。
前述した、入社試験を受ける新入社員というのは、何を隠そう中島敦その人である。
とはいえこれは、本人の知るところではないのだが。
ドッキリと言っても相違ないような内容である為、周には敦が些か不憫に思えるが事情が事情なだけに致し方ない。

何せこれは一般企業の面接や筆記試験とは訳が違うのだ。
己の身を賭して人を救う信念があるか、探偵社員として相応しい人物であるかを見極める為のものである。
その中身を本人に予め知らせてしまっては、意味がない。


「もしもし敦君?おはよう。」

≪お、おはようございます…!!≫


周が電話をかけると、しばらく呼び出した後で敦の焦ったような声が聞こえた。
発信先は昨夜彼に与えた社員用の端末なのだが、恐らくその操作に手間取ったのだろう。
敦ぐらいの年頃であれば大抵の端末は容易に操作できるものだろうが、昨日聞いた彼の生い立ちから、自分用の携帯など持った経験はないのだろうと周は推測する。

事のあらましを手短に説明すると、間もなく目の前の建物から敦が姿を現した。
言わずもがな、太宰と周は彼が身を置くこととなった社員寮の前で待ち伏せていたのである。


「ごめんね敦君、この莫迦が手間かけて…。」

「いえいえ、そんな!昨日の僕がお二人に掛けたご迷惑に比べたらこれくらいは…!」


太宰の姿を見た敦はあからさまに引いていたが、周の言葉を聞くと眉を下げて小さく笑った。
しかしその言葉とは裏腹に、彼は太宰が嵌っているドラム缶を勢いよく横に倒した。
その瞬間まるで蛙がつぶれたような呻き声が聞こえたが、周は"なるほどその手があったか"と密かに感心する。

些か手荒な方法で救出された太宰は意外にも涼しい顔をして、気を取り直すように言った。


「さて、行こうか。」


………あの、ライター返してもらってないんだけど。
そんな周の言葉は、まるで風の中に吸い込まれたようだった。








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