『或る凡庸な一生』
言葉は、紙に落とされた途端に死を迎える。
山盛りの死骸が落とされた原稿用紙でいっぱいの屑籠を片手にぶら下げ、玄関の戸を引いた。戸は先日直したばかりだというのに滑らかに動かず、ずっこけたような音を立てる。おれの文章も似たようなものだ。犬ころは飼い主に似ると言うが、果たして戸も似るものか。
いや、そもそも大抵のものは物持ちが悪いのだ。向かいで門の前を掃く婆さんだって、もう戸の音に振り返って会釈をすることさえない。まだおれがこの家に来て五日ほどしか経っていないが、もう日常に溶けたらしい。
「おまえは気にしすぎだ、挨拶くらい放っとけ」
田舎の祖母の家にこうして療養に来る前、東京で友人と飯を食った時、ため息を添えてそう言われた。挨拶を放るとはつまり、婆さんのことも放ることになる。おれは毎朝ここで婆さんを見るというのにだ。
車の音ひとつセカセカと擦れる足音ひとつ聞こえない道。あまりの静けさに最初は喜んだものだった。ようやく心を落ち着けて話を書ける。今度こそ良い小説を書ける。そんな期待がじわじわと心を熱くするのを感じると共にこれでようやっと脳が冴え渡ると万年筆を握ったはずだったのが、次の日の朝にはもう頭を抱える気力もなく呆然とした。
書けない。どさりと机に伏せると、インキの香りがする。丸善で買った掠れが青みがかりな明瞭な黒インキ、初めて短編小説が文集に掲載された時に描いた浮かれた未来のまま買ったものだ。目を閉じても、あの頃に掴んだ気がした光は見当たらなかった。
今ではもう多くの人がパソコンで文を書くという。万年筆で原稿用紙に書くような小説家はいないのだそうな。面倒な拘りを持っているのが厄介だと編集室の一部の柱の影で言われていることは知っている。それでもおれにとっての文士たちはこの中にいるのだから、蜘蛛の糸でも文鳥の羽でも桃の香りでも、──ああこのインキを買った丸善ならば檸檬も良い香りで──ほんの少しくらいこの香りの先に死骸とならない言葉を置けないものかと原稿用紙にしがみついている。
だが書けない。現実に香るのは焚かれた苦い墨のような香りだけだった。
のろのろと立ち上がり、睡眠薬を手に取る。これを過剰服用する勇気のある人もまた、文士には幾人もいたという。生きる勇気より死ぬ勇気が勝るとそうなるのだろう。どちらの勇気もろくに持ち合わせないおれにはもう、勇者にすら感じられる。
気持ち程度に錠剤を飲み込み、また原稿の上に伏せた。
ぼんやりと白む視界に、突然、鮮やかな緑が飛び込んできた。
「チケットはお持ちですか〜?」
尻上がりの語尾で話しかけられ、声の方を向こうと思ったはずが、おれの手は差し出されたその派手な手の上に原稿用紙の切れ端を乗せた。ツンっと雑踏のような辛みの匂いを感じる。どうやら此処は夢のようで、体は思った通りには動かないみたいだった。
いささか乱雑にその手が引かれ、どうぞというように前方を指す。言われたとおりに歩く視界の端に見えた袖口は、やけにひらひらとしていて煌びやかだった。後から気づいたのだが、あれはおそらく、中原中也だったのだろう。微かに酒の香りがしたような気もしなくはなかった。
いつの間にか攫われ連れてこられたこの夢は、あまりにも鮮明に色が散っていた。おれがあのインキの先に求めた、稀有な才を持つ彼ら文豪たちが、歌い叫び踊り煽る。
昨日の晩に読んだ谷崎潤一郎も、中学の頃から好きだった太宰治も、文士となると決めた時に隅々まで読み直した夏目漱石も、祖母に酔いながら詠った中原中也も、祖母が口ずさんだ与謝野晶子も、そして何より憧れの芥川龍之介もいた。
だが、始まってどれほどだろう、アンコールを叫ぶ周りの熱気の中、おれは目が覚めた。苦いインキの香りがする。冷水の風呂を抱いた心地で、もはやあの熱気は相手ではなかった。
芥川龍之介の、あの一筋の暗闇を見つめた瞳がおれの屑籠を散り散りにし、穴の空いた傘を握りしめて崩れていく姿がインキの匂いを濃くした。
原稿用紙に、芥川龍之介は光を求めて、黒インキを落としたのだ。愛を求めて、喪失を憂いて、光を探して、憂鬱を濁すように黒インキに彷徨ってあの美しい物語を生み出したのだ。
おれには、憂鬱がなかった。凡庸な人生で形だけの黒インキには、おれの色のない一生が溶けもせずに燻っていることを知ってしまった。憂鬱のないおれには、色がなかったのだ。
たまらず万年筆を奪った。勢いで原稿用紙に垂れた黒インキが、青ざめたようにさえ思えた。
光でも救いでも愛でもない。おれが求めてきたのは稀有な才であった。そんなものは無いのだと知っている稀有な才。それのあるおれを色のあるおれをこの黒インキの中に見つけなければ、おれの憂鬱は果たされないのならば、やはり書くしかない。
台所へと走り、昨晩に祖母と飲みかわした酒をひと口含んで飲み干した。死骸であろうと生かさなければ、おれの憂鬱に色を聞かせなければ。
足裏を確かめるように歩いて自室へ戻ると、原稿用紙に投げ出した万年筆が青く号哭している姿を見た。嗅ぎなれた苦い墨の香りがした。