『或る一生の行方』
ふと気がつくと、目の前は細い廊下だった。どこかの小さなビルの中だろうか、左に二つ右に三つ灰色の壁に埋まって白い扉があり、その奥はもう行き止まりのようだった。
「おや」
聞こえた声に振り返ると背の高い人が静かに歩いてくる。
「君が新しくライブに参加する文豪かな?」
にこやかな微笑みを浮かべ緩く腕を組んでおれを見つめるその姿はなぜだか見覚えがある気がした。この声も、どこかで聞いたことのある穏やかさであるような。名前を問おうとすればカチャリと扉の開く音がした。
「夏目さん、ここですよ」
「やあ与謝野くん、ありがとう」
見れば、小さく手を挙げて答える夏目と呼ばれたその人に、扉を開けて声をかけてきた与謝野と呼ばれたその人。
「さあ、行こうか」
手を取られて促されるままに歩き、おれの腕を掴む彼の手の先に鮮やかな爪を見つけた時、はたと思い出した。目が覚めると突然どこかにいた。そんな不可思議なことが前にも一度あったではないか。その時は緑色の指先に案内され、小さなホールの一席に座った。
おれはまた夢からあのライブへと攫われたのだとすると、それならばなぜこんな静かな廊下にいるのだろう。ここはどうにも、明かりも少なく壁も床も寒々しさのある色をしていて、あの熱気の入り口であるライブ会場とは思えない物寂しさがある。
「ここが吾輩たちの楽屋だよ」
楽屋?手を離された腕と思わぬ単語に顔を上げると、小部屋に入っていく青色のスカーフの後ろ髪と扉を押さえてたわやかな微笑みを浮かべる先ほどの、与謝野晶子がいた。紫色の髪飾りが艶やかでありながらも落ち着いた品がある。
「──さんよね、いらっしゃい」
言われるままに入れば、化粧台の前に座りこちらを振り返った鋭敏さを湛えた眼鏡をかける端正な麗人に、いよいよ確信する。聡明な閃光を隠したあの瞳、間違いない、あの晩に見た谷崎潤一郎だ。
「……はぁ、やっぱりまた女性ではないんですね」
残念そうに肩を落とす仕草は記憶のそれより幾許か落ち着いていて、──先入観もあるだろうか──冗談のような少しのわざとらしささえ感じた。おれは谷崎潤一郎の散文に滲み出る聡明さと鋭い眼光が好きだったなぁとふと思い出す。
「今度こそ罵倒してくれる女性が来るのを期待していたのに」
……あんな素晴らしい散文を書くのに罵倒を期待し豚野郎と呼ばれて跳んで喜ぶのだから、やはり変な人だ。つい、なんかすみませんと呟くと、カチッと扉を閉める音と同時に与謝野晶子がおれの後ろから谷崎潤一郎を窘める声がした。
「お酒は持ち込むなと言ったはずだよ」
先程おれに話した柔らかな声より些か語気の強い声が聞こえて奥を見ると、夏目漱石が顔を顰めつつペットボトルを掴んでいた。その後ろに見え隠れしている緑色から想像するに、中原中也だろうか。酒って言ってるし。
見覚えのあるような不穏な空気に少しそわそわすると、隣から、しかたないわねとでも言いたげな小さなため息が聞こえた。
「夏目さん、さっき芥川さんが羊羹を差し入れてくれましたよ。夏目先生は甘味がお好きだからと」
ささやかながらよく響く声に振り返りその隣に立つおれを見たのち、ペットボトルを持ったままこちらへ来る夏目漱石。少しばかり不満気な雰囲気も漂っているが、今のはどうにも生徒から煙草を没収する先生のようで、微かに寄せられた眉すら様になっている。先生と呼びたくなるばかりで、あの晩に見た狂気じみたものはどこにも見当たらなかった。
「ふふ、そんなに緊張なさらないで、あなたも一ついただいたら?」
未だ扉の隣で棒立ちになっていたおれを、いつの間にか椅子に座っている与謝野晶子が呼ぶ。はい、と渡された何かに思わず両手を器のようにして出せば、羊羹であった。あ、え、と不明瞭な声を零せば、お礼は芥川さんにね、と微笑まれる。
あの芥川龍之介が買った羊羹が、おれの手にある。両手にちょこんと乗せられた小さな羊羹をまじまじと見つめて、やはりここは新たな夢だろうかと考えた。
「…もしかして、余計に緊張させてしまったかしら?」
「新入り、太宰とおんなじ匂いがすんなぁ」
「ですねぇ」
「ふふ、彼もまた芥川くんのファンかな?ああそうだ、彼はあのライブにも来ていたそうだよ」
周りで聞こえる会話を上手く噛み砕けずにいる中、ふと気がつく。夏目漱石、与謝野晶子、谷崎潤一郎、中原中也。じゃあもしかして……と考えたその時、後ろの扉が開いた。途端に目に飛び込んできたピンク色にやはりと目を見張るが、その後ろからあらわれた困り顔にいよいよ呼吸共々固まることになった。
「…で、芥川さん、……ん?誰?」
太宰、治。そして。
「芥川…龍之介…………さん」
わずかに働いた理性でかろうじて敬称をつけると、くすくすと笑う声がいくつか聞こえた。
「はい。え…なに…?」
「貴方の新たなファンですよ」
「ファン?」
困惑した様子の瞳がうろうろとおれの周りをさまよった末、すっとおれの後ろに飛ぶ。
「先生、彼は…?」
「ああ」
ぽんと肩に乗った手に思わずびくりと揺れると、耳もとで夏目漱石が小さく笑った。
「今回のライブに新たに参加することになった文豪だよ」
文豪。……ああそうか、おれは文士になれたのだ。色のない憂鬱を追って。唐突に頭の隅で理解した一方で、目の前の光景には相も変わらず息を呑んだままだった。
「水墨画のようと称された繊細な濃淡による表現で芥川賞候補にもなったという──くんだ。そして」
軽く背中を押され、つんのめるように芥川龍之介の目の前に立った。瞬きもできず固まったまま憧れの人を見つめるおれに比べ、目の前の瞳は未だゆらゆらと提灯のように揺れているのが見える。
「どうやら、君に光を見せてくれたあの時の彼らのうちの一人のようだね」
おれの後ろに向いていた瞳がついっとおれに向く。微かに驚きが見えるその瞳は、確かにあの日おれが憂鬱を識った時の真っ直ぐな瞳で、だがあの時より幾分か柔らかなものだった。
そうだ、彼が、あの芥川龍之介である人、芥川さんだ。
小さく息を吸ったおれに、芥川さんは、微笑んだ。
「そっか。今日はよろしくね」