Shorthair

無知と恥

2024/01/30 


常々、「無知はひとつの恥である」という主張を、自分ではない幾人かの人間を見ていて感じている。
けれど、私にとって無知は大した恥ではない。
たとえそれがその時人間の頂点に立つ人間であろうと、その時産まれたばかりの赤ん坊であろうと、偉大な思想家であろうと、同じだけすべてに対して無知だからだ。

私にとって、無知であることそのものは恥ではない。
あえて戒めのための名をつけるのなら、「原罪」といったところか。

恥であるのは、「自分が無知であることを知らないこと」または「己の無知を認められないこと」だ。
そして、それを解っていながら「無知に甘んじること」もまた恥である。



「そんなことも知らないなんて恥ずかしい」と無知である私を知った人に言われることが多々あるのだけど、その度に、無知というのは本当に恥ずかしいことだろうか、と不思議に思うばかりだった。

私の中で最も恥ずかしいと言うに似つかわしいことは「無知であること」ではなく「無知を知らぬこと」であるから。



世間一般という多くの他人と比べた時、たしかに私は無知で非常識と呼ばれる方に入るだろう。
有難いことに屈辱的なことに情けないことに、自分のことを人任せに生きてきたところがある。

だから、こんな主張をしたところで負け犬の遠吠えに近い虚しさしかないように見えるかもしれないが、それはたしかに私の中で感謝や屈辱、情けなさや希望を練りこんでつくられた手間のかかった結論であることだけは先に言っておきたい。

たとえこれが負け犬の遠吠えだったとしても、誰かにそう見えたとしても、私は決して己を見捨てて命乞いをして吠えるのではなく、己の身を握り骨を噛み砕こうと叫んでいる。





「恥ずかしい」と蔑まれることだとわかっていながら、それでも、ニュースを把握しようと努めることができない。

毎日ニュースを確認するという習慣をつけようと何度か試してみたけれどダメだった。
一日がひどくつまらないものになる。
空き時間にスマホを開く度に感じる自分の中の何かが停止信号を発する感覚、そんなつまらなさに浸かるのは一日の終わりだけで充分だった。

その空き時間をひとたび過ごせば、色んなひとつのことが鬱々と答えもないままに自分の中をさまよって、その後は何をしたとて通り抜けていくような気がする。
過敏になりすぎてショートしたような。
婚約者の親の訪問に緊張しすぎて無音の中に呼び鈴を聞いてしまうような。
婚約者どころか恋人だっていないのに、ハッとそんな音を聞いては気が張ってしまう。

きっと私は、世界のたったひとつの何かをたったひとつの視線から見た文章、たったそれだけから世の中の色んなものが虚しく思えてしまって、そして、世界に失望を覚えている。

もうそんなことを言って世界を遠ざけていられる年齢でもなく、未だ色がついているかも疑わしい中身を抱えながらももう器の年季だけは一人前になるという今でも、それでも苦手で、見ていられない。



嘲笑とも微笑とも感じられる目で、それは「こども」だと私に言った人がいた。

世界に何度も触れてそこで感じる失望に慣れていくことを「大人」というのなら、たしかにこれは未熟なこどもの感覚なのだろうと思う。
けれど、それなら、こどもだと言われても、私は私の感性をこどものままにしていたいと感じてしまった。

世界が黒と白でできているわけではないことも、ヒーローと悪者がいるわけではないことも、正解や正義は時にもやでつくられた銅像であることももう知っているけれど、それでも、人はみんな優しいと信じているこどもの自分と手を繋いだままでいたい。
傷ついたとしても、コケたとしても、泣き疲れても、命のまま世界と触れようとするこどもの手を握ったままでいたい。

そんな願いを持ってしまった。

だから、無知に甘んずることを恥ずかしいことだとしながらも、私は無知に甘んじている。
私は私の感性をこどものままにしておきたかった。





いつか、「大人」になる時が来るだろうか。
眉をひそめながらも、世の中に失望を抱きながらも、そんな瞬間に慣れてしまう自分を、今はまだ想像できない。

愛する人たちは、世界の中で生きているのだ。
私と同じ世界で生きている、私が愛する人たち。
友人や妹のような、私の愛の証である誰かが、愛の中で生きてほしい誰かが、失望の世界でこうして生きていると感じることを受け入れたくはなかった。

恥だとわかりながらも、私はまだ、世界にずっと希望を抱いていたい。





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