肯定すること
2024/03/07
「多様性」という言葉を、この数年、よく聞くようになった。
好意を抱くこと、好意を抱く対象、好意の在り方、好意の収め方。なんとなく公式的な形が決まっていたそれらに更なる自由を、と。
多様性。
その言葉がごく当たり前のように尊き言葉のように使われているのを最初に見た時、私は自分の感覚を顔をゆがめて聞かれる違和感から開放されるという安堵と、暴かれたという怯えを同時に抱えたように思う。薄々感じては捨て場も置き場もわからずにとりあえず握りしめていた蜃気楼のようなものを突然オペラグラスで見つけられてしまったような、そんな怯え。その幻影が、なぜだか、多くの人が優しさや寛容さをあらわす時に使われるものになっている。
多様性。
それは、肯定的な意味として使われる。何を好きでもいい、誰を好きでもいいじゃないか、多くのそれぞれの自由があっていいじゃないか、それを肯定するために使われる。それは疎外されてきた者たちを救おうとする優しさとして。疎外されてきた自分たちを救ってくれという懇願として。そして時にそれは使い手の「私は寛容である」という自己アピールに思えてしまうほどに頻繁に。世界のすべてを正しさとし、その正しさを受けいれる己の寛容さと正しさに酔いしれていると感じてしまえるほどに傲慢に。
それまで「異端」として疎外されてきた自分たちを受け入れて貰おうとすること、それまで「異端」として疎外されてきた何かを受け入れてあげようとすること。それが「多様性」という言葉の持つ「正しさ」だ。
疎外せず、受け入れることを正しさとしている。それが、人を救うということを疑いもせずに、それが「正しさ」であると疑いもせずに、その正しさを肩に乗せて手を差し伸べる自分が「正しい」と疑いもせずに。
本当に、そうなのだろうか。
ある時、世の中に「好き」に対して全肯定のかたまりの世界ができつつあることに気がついた。
あのアニメが好きな自分。あのアイドルが好きな自分。あのYouTuberが好きな自分。性別とは不似合いのものを好む自分。
そんな自分も、どんな自分をも受け入れてくれる全肯定のかたまりの世界。
その全肯定の世界は、否定される私を肯定した。
それはとても甘い世界だった。楽園のような。
そしてまた気づく。その楽園は、私を否定する私が認められたかった人たちを否定していた。
「好き」という言葉を簡単に使う人が増えてきたように思う。
「推し」「推し活」「推し事」
そんな言葉が女神のごとく生まれたからだと個人的には考えている。
ネットという大海から生まれた女神。海から生まれる女神は、誰もの目を引く美貌と輝きと共に厄介なものを持ってきやすい。なんていうのは、ギリシャ神話を読み漁った少女期、海の泡から生まれたという愛と美の女神が神の中でも特に苦手だった私の僻みかもしれない。
何かを好きであること は発信してもいいことであり、輝かしいことであると世の中は言う。少なくとも私は世の中からそういう声を聞いている。たしかに、何かや誰かに抱く好意の力は時に絶大で、その瞬間、すべてを享楽へと昇華してくれることだって、きっと忘れるほどある。時には自分という邪険な存在すら忘れさせてくれる。
ただ、ふとした時に思ってしまうのだ。
好きなものを否定されると傷つく自分がいるのと同じように、好きなものを好きだと主張されて傷つく誰かもまたいるのかもしれない、と。
自分の意見を持つことが怖くなることがある。強い意見を持っているということはつまり、抱えている考えで誰かを否定していることになるからだ。
何も否定せずに生きたいという私の強い意志は、何かを否定したい誰かを否定することになる。否定すること、をひたすらに拒み続けていたかったけれど、そうもいかないのだと気づいてからは、自分の思想というものが新たに進んだり新たに生まれたりする度に怯えながらそれらを抱えることになった。
肯定の裏には必ず否定がある。何かを否定せずに肯定はできないのだ。それを分かっているから、この頃、全肯定が怖い。否定される怖さを抱えて歩く生きづらさを知っていたから、誰のことも否定せずに生きたかった。だけど、そんなことはきっと不可能なのだ。全てを肯定してしまった時、否定できない何かが生まれてしまう危険性を、その危険性から生まれる可能性のある新たな罪を、どうやって罰すべきだろうか。結局のところ、否定は肯定のためにも必要なのだ。
それならば、否定せずにはいられない何かとはとうやったら上手く付き合っていけるだろうか。
未だに答えが出ないまま、とりあえずは受け入れるということで落ち着いている。
全てを肯定はできなくとも、寛容にありたかった。
思考を止めて流れるままに世界を見ていると、いつしか自分に何が起こったのかを理解できなくなりそうなほど、世の中は濁流の嵐だ。私は、誰かに全部を任せられるほど人を頼りにする勇気も、すべてを預けるために自分を赤裸々に見せる勇気も、ひとつのフィルターを点検せずに使い続ける勇気も、持ち合わせていなかった。だから、その中で生きるのなら、せめて、自分を台風の目として居たい。そうでなければ、知らぬ間にひとつの価値観の中に閉じ込められてしまう自分や外の世界に対する自分の無知を知らない自分がいるかもしれない、それはきっと恐ろしいことのような気がした。
そしてまた、考え続けることで、知らないうちに自分が踏み潰していたかもしれない何かへの報いとしたかった。そうして思いを馳せることで、自分に踏み潰された存在があることを理解して歩くことで、許されたかった。きっと、罪を犯していることと、罪を罪と知らないことは別のもので、受けるべき罰も違ってくる。
どんな言葉にも刃となりうる力がある。力という字をよく見ればわかるように、上に飛び出た特有な部分をへし折って内側に傷をつければ、刃となるのだ。使い方を間違えてはいけない。
それを常に意識していたい。言葉を大切に、自分も刃となりうる力を持っていることを忘れずに、大切に使っていきたい。
正しさや正義とは、砂鉄のような小さなものの集まりであり、大切なのはその一粒を持っている誰かの心の方で、砂鉄が引き合ってできた塊のほうではないのだ。振りかざすことなく、ただ大切に人を少しでも傷つけることなく気遣いながら生きていたい。
自分のもつ砂鉄を大切に磨くように、人のもつものも大切にしたい。可能なかぎり、人に優しくいたい。
大切にしたいのは、多様性という言葉でも正義という言葉でもなく、その奥にいる誰かひとりの方だ。
そのための優しさからくる肯定をし続けていたい。
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