かけがえのある私と出会ってくれた奇跡に。
2024/03/15
以前、Xで気まぐれにアンケート機能を使ってどんな記事を見たいか聞いてみたところ、[エッセイなど、私のはなし]に一票頂いた。
ひとつ枠が余ったからノリでいれただけの選択肢だったのだけど、まさかの投票して下さった方がいてものすごく驚いた。今でも思い出す度にそんな事実に驚いている。
(どなただったのかわかりませんが、ありがとう)
それもあって、個人サイトを作った時に自分のことや自分の考えを書く場所をつくった。もちろん自分がやりたかったのもあるけれど、勝手に後押ししてもらった気分だった。
あの時の方がここを覗いてくれることがあるかはわからないけれど、もしこれを読んでいるなら。
あの時はありがとうございました。嬉しかったです。
このところ、「好きです」と言っていただくことが何度かあった。
それは、文章や言葉に対してのもので、もちろんあくまで〈アル〉であることは確かなのだけれど、とても嬉しい。
〈アル〉という人物は、現実の私がひた隠しにしている背中合わせの人物で、現実を表というのなら〈アル〉はおそらく裏に当たる。
裏表のそのふたつの人物はひとつの心によって繋がっていて、全く同じことといえば、どちらも文章を書くことで心の中を片付けていることだろう。
文章を書くことは、きっと、現実を生きる私が苦手な “感情を出すこと” や “考えを伝えること” を補ってくれるかもしれないという希望を乗せた行為で、そのかたちはもしかしたら私の心そのものに一番近いかもしれない。
だからこそすごく嬉しくて、感謝でいっぱいになる。
「特別になりたい」 昔、そう思っていた。
「かけがえのない人になりたい」 とも思っていた。
唯一無二は重宝される。
かけがえのないものというのはつまり、代わりのものを置くことができないものであるということだ。
そんなたったひとつしかないものを世の中や各人が大切にするのはきっと当たり前で、唯一無二になりたがる人は多い。私もそうだったように。
唯一無二であったならば、手放される恐怖も自分の存在価値への疑いも薄く済むように感じ、何より、自分という一個人を認めてもらえる。
ある時、ふと考えた。その逆はどうだろう。
唯一無二のものと共にありたくて頑張るのは当たり前のようによくある一方、替えがきくものと共に在り続けるというのはきっと難しい。
いくらでも取り替え置き換えができるというのに、隣に置き続けたり手に取り続けることは、「かけがえのないもの」であるより遥かに奇跡的じゃなかろうか。
それが、利益や損得勘定なしなら殊更に珍しく特別なことかもしれない。
誰であってもいいのに、何であってもいいのに、選ばれているのは、唯一無二であること以上に奇跡的な気がする。
私という存在は、〈アル〉という存在は、現実で出会う人々以上に替えのきく存在だろうと思う。
たとえば 杉山紀彰さんが好きだとか KZが好きだとか UniteUp!が好きだとか ヘタミュが好きだとか まほやくが好きだとか NARUTOが好きだとか… そういう人はこのネットの世界にありふれていて、私以外にもとんでもなくたくさんいるのだ。
何なら、現実よりも簡単に替えがきくくらいすぐに見つかる。
その中から偶然〈アル〉と出会い、わざわざサイトに飛んで時間を使って文章を読んでくれたり、コンテンツの話をするでもないこんな所にまで覗きに来てくれたり、時に「好き」とまで言ってくれる。
かけがえのある私と出会うだけでもすごいことなのに、そこから更に私に触れてくれるなんて、本当にとてもすごいことだ。
改めて考えるとびっくりしてしまう。
かけがえのある私と出会ってくれた奇跡に、私に触れてくれたその一秒でも長い時間に、心からありがとうを。
仮にあなたさまが〈アル〉に触れなくなったとしても、私はあなたさまが〈アル〉と出会い触れてくれた時間をとても貴重なものとして大切なものとして受け取っているので、その後のSNSライフが楽しいことだけを感謝とともに願っています。
きっと私はたくさんの奇跡をいただいている。
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