雑記 ~ 感性の根源、神さま気取り、安寧の地、家出少女
2025/09/22
感性の根源というものについて、考えている。
いや、ふと考え始めたが、あまりにもすぐ見つかってしまったので、どうしてそうなったのかを考えている。
私の感性の根源は、孤独である。
一番古い孤独の記憶は、幼稚園の頃、お昼寝の時間に眠ることができずに、外の昼間の光を拾って教科書にシールを貼って遊んだ、つまらない記憶。
皆んなの寝息を後ろに真っ暗になりそうな部屋の中で、人の気配は眠ると静かなのだと感じた記憶。
そして、お昼寝の時間に眠らないのならピアノでもと言われ、誰もいないのかと錯覚しそうなほど物音のしない校舎を歩いて幼稚園内のピアノの先生の部屋まで向かった、モノクロ映画のような廊下の記憶。(私は、その先生がくれる乾燥みかんの皮が好きだった。)
思い返せば、このモノクロ映画の廊下の記憶には悲しげな気持ちはない。
この頃から一人が好きだったのかもしれない、とは今になって考えてみたりもすることだ。
一番新しい孤独の記憶は、日々更新されている。
昔から毎日の当たり前に更新され、私の人生を孤独で埋め尽くしていく。
というと悲しい人生のように見えるが、そんなこともない。
少なくとも私自身の体感では、比較的愉快な人生を送ることができている。
自分は非常に恵まれた、非常に幸福な立場の人間だという自覚のもと、その立場を最大限に活かして生きていくことが何かを得た私の義務であり責任でもあるとさえ考えている所も、ある。
愉快な人生であると、幸福を帯びた人生であると、そういう自意識のもと自分を律しプライドを持って生きることで、自分の得たものを得られなかった誰かを自分の知らぬ所で踏みつけている自分の罪——私はこれを私の原罪と呼ぶ——、その罪を、私なりに思い遣っている。
得られなかった誰かの思いがあったこと、行動があったこと、人生のいち時間があったこと。
得た私の思いがあること、行動があること、人生のいち時間があること。
どちらも無碍にしてはならなく、また、どちらも忘れてはならない。
それが、何かを得た私の義務であり、同時に、何かを得なかった時の私の慰めにもなる。
◯
孤独の始まりは、おそらく多くの人がそうであるように、まずは環境だった。
続いて精神世界に及び、思考に影響を与える。
孤立は、学校という狭い社会での私の生き方だった。
人生はもうこれきりで充分だ。
二度目や三度目はいらない、他の誰かにあげてくれ。
恵まれていることもわかっているしそれなりに愉快な人生だという自意識もあるが、これきりでいい。
もう一度生きるなんて、死んでなお疲れることはしたくない。
不満足な人生で終わったとしても、もう一度はいらない。
永遠の命も絶対にいらない。
いらないもののトップに躍り出る。
まだ十九年と少し生きただけだが、十二の頃からそう思っていた。
永遠も輪廻もいらない、終わりのあるものが良い。
◯
私にとって、死の存在は恐ろしいものではなかった。
死の存在は、唯一すべてを託して心を預けて信じられる、絶対と言い切れる安心感を与えてくれる存在であった。
世の中に絶対というものは無い。
全ては半分、存在しないものとして見ている。
絶対ではないからだ。
そうして世界を見てなんかいるから、いつも自分の足の在処がわからないのかもしれない。
いつも幻を生きているような気持ちで、現実は鏡向こうのような気がしているのかもしれない。
だが本当に、絶対などなく、唯一この世で絶対だと決まっていることは死だった。
死は、唯一まるっと信じて良い存在であり、唯一背中を全て預けても安心できる存在だ。
いつ背中を刺されても、それが死というものの在り方であるから、絶対は崩れない。
死の存在は安心できるものだった。
◯
どんな時も、終わりを考えて生きている。
それはつまり、何にも期待をしないということだった。
終わりとは常に、失望を伴う。
たとえそれが終わることをわかっていたものだとしても、たとえそれが苦難そのものであったとしても、終わりが来ることは自分が何かを失うことと同義であった。
失うことに怯える私は孤独を愛すると共に薄れていった。
失う事実を失わずにいる限り、たとえその事実が私にしか残されなかったという寂寥を連れていても、私は孤独の中で失望を抱かずに済む。
失うことは当たり前のことだ。
失わないという期待をして失望に怯えるよりも、失うものとして終わりと手を繋ぐ方が、孤独な世界に生きる私には安堵の道だった。
◯
去年、とある作品を観て心に決めた。
今年の四月から始まる大学生活では、現実に飛び出していこうと。檻を壊していこうと。
私のバイブルとなりつつある、強く心に根付くものであったその作品には、「飛び出して」「壊して」「自由に」と高らかに歌う人たちがいた。
飛び出して壊していくべき私にとっての檻というのは、“孤独の心地良さ”だ。
小学生の頃から安寧の場所となっていた“非現実的な孤独”から、人と生きなければならない“共生の現実”に飛び込むこと、それは私にとってバイブルを抱いての挑戦とも感じられる。
さて、学校が始まってからそれなりに頑張って人に話しかけたり名前を聞いたり、自分から動いてみてはいるのだが、そして毎日新たな顔と名前を覚えているのだが、けれどもやはり、檻に戻ってきてしまう。
多くの雑談の声が響く明るい気配の満ちたあの場に、まだもう少しいれば、知り合った子たちともっと話して仲良くなれたのかもしれない、ただ、どうしても、大学から出たい衝動に駆られてたまらない。
考え事で集中して気づかなかったかのように彼女たちの横を静かに通り過ぎて門へと向かう。
門衛さんに「お疲れさまです」と声をかけて道路に出て、ザンッと車が通り過ぎた瞬間、知らぬ間にどこかに溜められていたらしい重い息がこぼれた。
知り合いが増えれば増えるほど微妙な居心地の悪さも増す。
察知する情報量が増え、気遣うことやどう乗り切るかを考えることが増える。
その場を離れた途端、ぴちゃんと僅かに濁った雫 —— 排気とも真水とも呼べない混濁したものが脳内で響く。
お茶に誘われても遊びに誘われても、脳内では断る言い訳を必死で探す自分がいる。
見知った顔を見つけると、見つからない席を探して隠れるように歩く自分がいる。
もう十五年の付き合いになるかという友人と会う約束でさえ、前日になるとふいに、ドタキャンしたくなる激情が鋭く大きな丸太を掲げて門扉を叩く。
◯
幼い頃からそうだった。
何処にいても浮いている気がする。
鏡の向こうの別の自分が世界を見ている気がする。
鏡の向こうのあちら側が本当の現実で、自分は幻を生きているのではないかという気がしてくる。
聞こえる周りの雑談によって自分の形が歪に浮き彫りにされていく気がする。
やはり、私という存在は幻なのだろうか。
何処でも誰といても、落ち着かない。
図鑑のように無機質なプロフィールだけ知っている誰かを観察しては性格や傾向を分析する自分の、“神さま気取り”な傲慢に思い上がった在り方に、脳が冷え軽蔑を抱く。
この“神さま気取り”は、自分のつけている名札がまるで他人のもののような気がしているから持たれたものか、自分の座っている席がまるで空席のような気がしているから持たれたものか。
自分はどこにも所属していないと感じることで、自分は何者でもないとわかることで、孤独であることで、すべてに対する免罪符を手にしている、“神さま気取り”。
誰にわかってもらわなくても、誰に理解されなくても、誰に変な子だと言われても、誰に呆れられても、平気だった。
神さま気取りの私は孤独なのだから。
私には孤独がある。
私が帰巣する場所はビルの一室でも喧騒の一端でも地図の区画のいち番地でもない。
何も置かれず何も飾られず何の表札も無いまっさらな孤独の中。
安寧の場所だった。
私を傷つけるものから私を守り、同時に、私を傷つけるものの正体を私の目で掴む。
いつだって私を傷つけるものは私自身なのだから、まっさらな部屋の中で私は私を罰した。
時折、急激に毒が回る事がある。
最高の薬である孤独が一瞬だけ毒の顔をする。
それが私が私を罰する方法だった。
毒の顔をした孤独に苦しむたび、私はまた安心する。
私も、人並みに、私だったのか、と。
◯
新生活と共に、孤独という安寧の地を脱して人と生きることを頑張ってみている。
人と共に生活し、私の生活に人を入れ込む。
人の話を自分に取り込み、人の話に自分を入れ込む。
とてつもない疲労だった。
始まって半年だというのに、もう、孤独の海に戻りたくなっている。
けれど、簡単には人のことを切って捨てはいけないと考える自分もいて、そんな自分を見ると、神さま気取りの私は驚いた。
冷酷な人間と言われてきて、自分もそう思っていたけれど、私にも情と義理のような可愛い自分が明確にいたらしい。
新鮮で、あまりに新鮮で、その子の子育てに戸惑っている。
その子を育てるのにどうしたら良いのかわからず、何となくでやってみて与えられそうなものの毒味をしてみて、たぶん、腹を壊している。
ああ、孤独に戻りたい。
でも、私に懐いてしまったあの子は、どうしたら良いのだ。
◯
新しい世界なんていうのは、疲労ばかりだ。
人の優しさが苦手だというのに、理解したいと好意的に向けられる目が苦手だというのに、冷たい皮の一匹狼に騙されてくれていたら、私も心置きなく孤独の内側から触れ合えるのに。
出会ったばかりの人たちは、みな、私を知ろうとする。
知られてしまったら、私は孤独を失うのではないか。
孤独を失うというのは、私自身を失うに等しいほど大きなものに思える。
関係が長く続く人間ほど、私を理解することを諦めていた。
同時に私も、やはり、孤独の内側に無理やり踏み込んで来ない人間を、つまりは私をとてつもなく強い人間だと信じている人間にしか、私の孤独の在り処を教えられない。
◯
私の文章を読んで、豊かな人生を送ってきたんだなと思ったと感想を述べた人がいた。
豊かな。
私の言葉が豊かなものか。
空っぽの箱をどう叩けば違う音が鳴るかありとあらゆる叩き方を試して、結局のところ中身がないからどれもが似たような音を出す。
私の言葉が豊かなものか、空虚であろう。
生きてきたものを消して塗り潰して延ばして作り出したまっさらな白い箱から、何の豊かさが生まれるだろう。
何度吐き出しても、空虚な言葉だった。
何にも信頼を置けず失うことばかり信じているのだから。
私のことを大人だと言うひとに、度々出会った。
大人なものか。
少しでも気に入らないとすぐに諦めてしまうのに、ほしいものを得ることより得てはいけないものを手にしないことばかり考えているのに。
大人に見えるのならば、そのひとは、孤独を強さだと感じているのだろうか。
事実、私の強さは孤独だが、こんなものは子供の意地っ張りな家出と同じ、非現実的で人間が生きるのに相応しくない強さで、ハリボテにすぎない。
どこへ行ってもお姉さんをしているが、それはただの、お姉さんというマスコットキャラの着ぐるみだ。
一匹狼が爪を使って切り貼りしてつくった、ハリボテの冷たい皮である。
誰も、このハリボテを剥がないでくれ。
世界に拗ねている家出少女を暴かないで。
そう思いながらも、ハリボテを突っ切って私の肉体に傷をつけて血を滴らせた人に出会うと、嬉しくなる。
真っ向から傷つくことができた、自分以外の人から主体的に傷をつけられた、不思議な喜びと安心が心に満ちる。
孤独の毒の亜種だ。
半分は薬だった。
◯
感性の根源を考えていたはずが、どうしてこうなった?
気がつけばいつも、自分の精神世界に迷い込んでいる。
迷い込むなんて表現を無意識にしているあたり、今はある程度、現実世界の新生活できちんと人と生きられているのかもしれない。
今日もまた、学校だ。
お姉さんを頑張ってくる。
まだ、私をお姉さんだと言って仔犬のように駆け寄ってくれる優しい子がいるから、お姉さんはお姉さんのままでいる。
矛盾だらけで子どもの甘ちゃんのまま拗ねている家出少女でも、どうにかこうにか、好意をどぶに捨てて悲しい顔をさせないように、人と生きてみている。
また諦めるかもしれないが、矛盾だらけで真っ直ぐ歩けないのは今さらなのだから。
どうにかこうにか、たぶん、明日も。
来年や再来年なんて言い出したら鬼の前に私が大笑いしてしまうが、明日くらいなら、どうにかこうにか外を歩いているのだろう、と、思う。
HOME