仕事の日の朝の一分は、十分の価値がある。布団から上手に起きられない自分は、心底そう思うのだ。
毎朝常に小さく焦っている私が、思わず目線と気持ちを寄越してしまうものがある。


「今日の一位は…… おめでとう! しし座のあなた!」


表情こそ変わらないものの、口角がくっと上がった。
たかが星占い、当たらないからといって不機嫌になってその日は最悪…… ということはない。ただなんとなく、何の刺激もないこの人生が揺さぶられている気がして、結果が良くても悪くてもつい見てしまうのだ。


「ドラマのような出会いが期待できる日! あなたの魅力が最大に発揮され、ハッピーな一日になるよ! ラッキーカラーは赤、ラッキーナンバーは“9”!」


長年一人暮らしをし続けたせいで、自分以外のことはほぼ気にかけなくなった。
二位以降の星座なんてまったく聞く耳を持たず、私は無言で赤い靴下を履いた。


「9はなあ……」


あいにく9に縁のある物はうちにはなく、今日のご利益はすべてこの赤い靴下に頼むことになった。
なんとか遅れず最寄駅に着いた瞬間、何やら嫌な予感がした。
改札をくぐって地上に出てみると、嘘のような大雨が街に降り注いでいる。ばけつをひっくり返したようとはこのことで、職場からそんなに距離はないものの、傘なしではとんでもない姿になることが想定できる。そんな状況な挙句、私には余す時間がない。
出社時間は刻々と迫っている。どうしよう。


「名字さん」


表情がおかしかったのだろう。目が合った同じ職場で同い年の彼は楽しげに笑い、「何その顔」、と人懐っこい笑顔を見せた。


「分かるでしょ、この最悪な状況」
「え、傘は?」
「ないのよ」
「嘘やん。天気予報で雨降るって言うてましたやん」
「ほんまに? 占いしか見てへんかった」
「何してんすか、良い大人が……」


私の隣でぽん、と透明な花が咲く。
雨音はどんどん大きくなって、大事な朝の時間もじりじり削られていく。


「永見くん、入れて」
「そのつもりです。遅刻しますよ」


ありがとう、と彼の傘の中に飛び込む。
傘はあれども、道路からの被害は完全に防ぐことはできない。ラッキーカラーの靴下は見事に雨水を吸い上げ、もうこれ以上吸えませんと言わんばかりに靴の中で嫌な音を立てていた。


「あー髪の毛がストレートになる……」
「あかんのですか?」
「せっかく巻いてきたのに。雨て分かってたら髪の毛巻かへんかった」


「その分寝られましたもんね」。
私生活を覗かれているみたいな一言に、照れなのか恥なのか訳の分からない感情が出てきて驚いた。
大きいなと思っていた彼だが、隣に立つとその大きさをより実感し、軽く心臓が浮き立つ感じがした。
屋外からやっとエレベーターに乗ったとき、彼の思いやりが右肩に現れていて、慌ててハンカチを出した。


「大丈夫ですよ、これくらい」
「めっちゃ濡れてるやんあかんあかん、使って!」
「それより名字さんも、靴」
「そんなん履き替えれば済むから!」


半ば無理矢理にハンカチを渡してしまい、彼は困った顔で「ありがとうございます」、と言った。
履き替えれば済むと言ったものの、私、替えの靴と靴下なんて用意してあったっけ。


「おはようございます」


廊下から現れた男。
まだ臙脂色の衣装には着替えておらず、髪の毛もセットされていない。舞台の時の印象よりこざっぱりとしている。
彼は永見くんと晴れやかに挨拶を交わし、高身長故、私の方を見下ろす形でぴったりと目が合う。


「おはよう」
「名字さん、足元えらいことなってますよ」
「そやねん」
「僕、開けてないスリッパあるんで貸しましょか?」
「うそ、めちゃくちゃ助かる」


「こっちです」、と彼は踵を返して違う部屋へ向かう。
永見くんにお礼を伝えると、眼鏡を拭きながら「いいえ」、と返してくれた。
足の長い彼の背中は遥か遠くへ行ってしまっていて、不本意だが水浸しの靴と靴下で不快な音を響かせ彼を追った。


「気持ち悪い足音」
「雨が全部悪いねん」
「名字さんと永見の組み合わせ珍しいからびっくりしました」
「ああ、駅でたまたま会うたんよ」
「靴下、かわいっすね」
「ん? ありがとう」
「はい、これ使ってください」


この短時間で、彼に伝える二度目のありがとう。
さまざまな会話の種が四方八方からやって来るものだから、朝ということもあって少しくらくらした。
古びたソファに腰を下ろし、色の変わった靴下を脱ぐ。そこに熱い視線が注がれていることに気付かないほど、私の頭は愚鈍ではなかった。


「九条くん」
「はい」
「あまり、その、見られるとね」
「はい」
「……恥ずかしいなー、なんてね!」


年下の男の子に、照れた姿なんて見せられない。
九条くんはやけに落ち着いていて、私の濡れた靴下を手に取って洗濯機に入れた。それに触れられることすら躊躇したが、「あっ」、と漏れた声は幸い雨の音が掻き消してくれた。


「あ、9」
「きゅう?」
「うん、九条くん、名前に9入ってる」
「そうですね」
「私の今日のラッキーナンバー、9やねん」
「そうなんですか。じゃあ今日は一日中名字さんの傍にいましょうかね」
「嬉しい。私の魅力が最大発揮されて、ドラマのような出会いがありますって言うてたからもしかしたら、」
「そういうことなら、僕協力できひんかも」


空気が湿気で重い。
二人しかいない部屋に嫌味な静寂が訪れたのが気に食わず、へなへな笑ってみたが、毒にも薬にもならない萎びた笑い声は音もなく床に落ちた。


「名字さん、彼氏おらんかったんですね」
「うん」
「何年?」
「……三年くらいちゃう?」
「普通に彼氏おるんやと思ってました」
「まあ、年齢が年齢やしね」
「まあ、それもありますね」


隣から、人間一人分の重みを感じた。
少し見上げると、彼の端正な顔立ちが目に入る。
涼しげな目元に、きれいな肌、整った鼻筋。
自分が星占いごときで色めきだっていることが急に恥ずかしくなって、思わず彼との距離を取った。


「なんで逃げるん」
「逃げてへん」
「逃げられると、追いつめたくなります」


隣に座っていた九条くんが、今度は私の正面に立った。
私の背後には壁がぴったりくっついていて、九条くんがしゃがんで同じ目線に立ちじりじり迫ってくるたび、心音は速くなり壊れそうになる。


「やめなって」


鼻先同士が触れ合いそうな距離だった。充分に呼吸ができる間合いをとって、深く酸素を吸って吐いた。
年下の、しかも遊び慣れた男の子にこうしてからかわれるのは不本意だ。
あとで芸人仲間とネタにして笑うの? 変な噂を流すの?
今日はハッピーな一日になるって、言ってたはずなのに。


「赤い」
「何が」
「耳」
「ほんまに、そういうのやめて」
「かわいいんすもん、名字さん」
「ああ、そう」
「……ほんまですよ」


九条くんの最後の一言は、雨音に上塗りされてよく聞こえなかった。
廊下から忙しげな足音が聞こえ、我に返った。
仕事、しなきゃ。


「じゃあ、事務所行くから。これ、ありがとう」
「いえ。名字さん」
「……なに?」
「今日、ほんまツイてない日ですね」


九条くんはたぶん、私のことが大嫌い。
















(やぎ座のあなた、)
(今日は好きな人に積極的にアピールしてみて!)








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