入社してから一切しでかしたことない遅刻をしてしまった。支配人には遅れる旨は伝えたが、理由を言うのにかなり躊躇してしまった。私の言葉に支配人は酷く驚いた様子で「無理するな」「今日は帰るか?」と様々な優しい言葉をくれた。
が、私はその気持ちをハンカチにくるんで大事にポケットにしまい、至極フラットな状態で、


「大丈夫です」


と言った。
支配人は眉尻が下がったままの顔で、「分かった」とだけ返した。
私の遅刻の理由を知っているのは、支配人と、一部の女性スタッフだけだ。こちらも伝えた時、みんな目を丸くして私の体と心の安否を気遣ってくれた。
作業着に着替え、自分の頬を叩き喝を入れる。
ここは仕事場。私情を入れるな。


「おはようございます」
「おはようござ、あれ? 名字さん、いつ来た?」
「さっき。すみません、遅刻しちゃって」
「えーめっず! 名字さんから遅刻なんか初めて聞いた!」
「お察しのとおり、初めてやらかしたわ」
「今日は午後から豪雨かもなー」


出番待ちの芸人の団体がわらわら通り過ぎ、ついでに私の遅刻もいじっていった。
喧騒が去った後の静寂は、耳が痛いほどだった。廊下で一人になると、鼓動の音がはっきりと聞こえてくる。
脈の波で自分がばらばらに壊れてしまいそうで、呼吸が上手くできない。


「名字さん」


二秒ほど、呼吸が止まった。振り返ると、永見さんが一人で立っていた。
呼吸の方法を思い出しながら、「永見さん、お疲れ様です」と稚拙な言葉遣いで彼に笑ってみせた。
私の引き攣った笑顔に、彼は違和感を抱いているようだった。


「遅刻したんですか?」
「そうなんです、すみません」
「いや、それは全然ええんですけど、大丈夫ですか?」
「何がですか?」
「なんか、変やから。何がって聞かれると難しいんですけど、とにかく、いつもと違う気がするんですけど……」


僕の思い違いですか?
真っ直ぐで、透明で、やわらかいけど強い視線だった。その実直さから私は逃れたくて、半ば反射的に彼にこう言った。


「はい、思い違いです」


そう言うと、永見さんは優しい笑顔で「それならよかったです」と私に背を向けた。
彼がいなくなったことで気が抜けたのか、何かにもたれかからないと立っていられない感覚に陥った。
……体が重い。





「聞いた?」
「なんですか?」
「名前の遅刻の理由」


女性スタッフたちが小さなかたまりを作って談笑している時、あの人の名前が出てきたので聴覚が素早く反応した。
女性のひそひそ声というものは、思っている以上に響いているということを全女性に教えてあげたい。
逆にわざとなのではないかと疑ってかかってしまうほどに、彼女たちの声は周りにだだ漏れだった。


「痴漢に遭うたんやって」
「えっまじですか?」
「うん。後ろに変な人おったらしいんやけど満員で動かれへんかったらしくて、駅降りたらスカートに精液付いててんて。しばらくトイレから出てこられへんくなって、結果遅刻になってもうたらしい」


大きく一回、心臓が跳ねた。そのあとから散弾銃を放たれたかのようにだだだだだだ、と、頭が揺れた。
僕が感じ取った彼女の不穏は、間違いなかった。でもその痛々しい事実を聞いたとき、間違っていて欲しいと切に願った。
早鐘が鳴り止まない。


「てゆうか」
「ん?」
「名前さんてそういうタイプなんですね」
「どういう?」
「男に体触られてショック受ける感じがしないというか。強そうやし」


どの口がそんな呆れた台詞を言ったのか、顔を拝んでみたかった。
でも今僕がその脳足りんの胸ぐらを掴んだところで、彼女の傷が癒えるとも思えない。そして、彼女が秘密にしていたかったことが明るみに出ていることも同時に意味する。
よりによって、男の僕に。






「お疲れ様でしたぁ」


なんとか仕事は最後までこなした。
頭がぼうっとすることもしばしばあって、その度に自分の体に苛ついてしまった。
午後から豪雨だと笑っていたあいつも、雲一つない澄んだ夜に残念な顔をして劇場を去った。


「名前さん、お疲れ様でーす」


ひとりふたりと、劇場から人が消えていく。
私はロッカールームから着替えもできず、ぐしゃぐしゃに丸まったお気に入りのスカートの死体を見下ろしていた。
スカートを見ても、私の涙腺はぴくりとも動かなかった。
なんだ、意外と平気じゃんか。
私はスカートを紙袋に押し入れ、作業着のパーカーとデニムのままで職場を後にした。


「……雨や」


駅に着く直前で、針みたいな雨が降ってきた。
地面に降り立ってもすぐに蒸発するような繊細なもので、雨が降っていることに気付いているのは私だけなのではないかと思うほどだった。
雨に打たれることなく、私はきれいなまんま改札をくぐる。ちょうど電車がやって来て駆け込もうとしたが、私の足は思うように動かなかった。


「……気持ちわる」


車内を目の当たりにするだけで私の胸はざわめき、脳がぐらぐらと揺れた。
スーツを着た小太りの男性が視界に入るたびに、体は悲鳴を上げる。
電車は、私のことなど目もくれずゆっくりと駅を去っていった。






「名字さん」


駅でたまたま名字さんを見つけたのに、ビビりの僕は声をかけられず遠巻きで彼女を見守ることしかできずにいた。
彼女は何度も電車に乗ろうとしてはそれを見送っていて、その後は時折目元を触ったり、天井を見上げる仕草をしていた。
いても立ってもいられなくなった僕は、気付いたら彼女の名前を呼んでいた。


「あ、永見さん。お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「今日遅いんですね」
「はい、今日はちょっと用事があって」


名字さんの白目は微かに桃色になっていて、薄い涙の膜が張ってあった。
足元にある紙袋を両足で挟んで、中身が見えないようにしている。


「名字さんてこっち方面やったんですね」
「はい、そうなんです」
「途中まで、ご一緒しませんか?」


僕のまさかの発言に、彼女はびっくりして固まってしまった。
普段なら「もし嫌じゃなければ」という枕詞を使うのだが、今日は申し訳ないが省かせてもらった。
嫌だろうが何だろうが、今日だけは一緒に帰ってもらわなければならないと思ったから。


「や、永見さんに悪いです」
「僕はなんも悪いことなんてないですし、夜も遅いですから」
「でも……」


電車の到着を伝える音が、ホームに鳴り響く。
僕たち以外の人はぞろぞろと列を作り、到着した電車に乗り込む。
名字さんは、下を向いたまま動かない。その姿を見て鼻の奥がつんとして、世界がぼやけた。


「すみません、電車乗ってください」
「名字さん置いて帰れませんよ」
「私は大丈夫なので。ほら、早くしないと行っちゃいます」
「でも、」
「ね、お願いします」
「……じゃあ」






そう言ったきり、永見さんの声は聞こえなくなった。
自動ドアが閉まる音がして、次の駅を目指し電車は出発した。
顔を上げると、駅には誰もいない。
私と、隣の永見さん以外には。


「あ、れ、 帰ったんじゃ……」
「こんな名字さん見て、じゃあお疲れ様でしたって帰れると思いますか?」


永見さんは待ち合いの椅子に腰掛け、私の目も見ないでそう言い捨てた。
二人しかいないホームの虚しさをゆっくり味わって、私は捻り出すように「すみません」、とつぶやいた。


「何かあったんですか?」
「いえ、何も」
「朝から様子が変ですよ」
「いつも通りでしたよ」
「……遅刻した理由、僕に言えますか?」


女性間の秘密なんて、あってないようなものだ。
永見さんの口ぶりから、どこかで遅刻の理由を聞いたのが分かった。
被害に遭った当日に噂で流れているなんて、気持ちの良いものではない。
永見さんはさっきの私みたいに「すみません」と泣きそうな顔をして言った。


「知ってたんですね」
「……はい」
「すみません、お気遣いいただいて」
「謝らないでください。名字さんは悪くないんですから」
「うーん、どうなんですかね」


私がどんな言葉を繕ったって、被害者は悪く言われる。
抵抗しなかった。
訴えなかった。被害を周りに伝えなかった。
どう動いたって、「痴漢をされた女」というレッテルは剥がしても跡がこびりついて消えない。それなら、一人で抱えた方がましじゃないか。
半ば無理やりに笑ってみせたが、かえってそれが永見さんの良心に小さなささくれを作ってしまったようだった。


「僕では頼りないですかね」
「そんなこと……」
「メガネやし」
「……メガネ?」
「なんか、弱そうに見えますかね」
「メガネやから?」
「メガネやし、身長のわりに細いし、大人しそうやし」
「……メガネは、まあ確かにちょっと弱そうに見えるかも、」


自分で言って、少し笑いそうになる。
永見さんがあまりにも真面目な顔をして面白いことを言うから、反動でいくつも笑い声がこぼれてきて心が軽くなった。
それと同時にぼろぼろと涙も一緒に落ちてきて、二人してバカみたいな顔で驚き合った。
ハンカチで大雑把に涙を拭き一息つくと、永見さんが私の手を優しく握った。


「僕はね、見た目より弱くないですよ」
「え?」
「帰りましょう、いっしょに」






一世一代の勇気だった。
彼女の小さく冷たい手を取ると、僕の体温に一瞬こわばったが、ゆっくりと緊張がほどけていくのが分かった。
再び電車がホームに到着する音が流れる。
彼女の負担になることだけは避けたかったので、握ったままの手を離すべきか迷ったが、彼女は足元にあった紙袋を掴んで椅子から立ち上がり、「行きましょう」と、壊れそうな強い声で僕に言った。


「誰から聞いたんですか?」
「たまたま居合わせたところで、スタッフさんが話しているところを聞いてしまったんです」
「そうですか」
「すみません、嫌な言い方をしてしまって」
「いいんです。痴漢ごときで私も過剰反応しすぎました。いい年して情けない」


電車に揺れながら、彼女は少しずつ自分の話をしてくれた。
被害を受けたのは名字さんなのに、自分の防衛の仕方が甘かった、自分が悩みすぎているだけだと責めてばかりいて、犯人や、噂をエンターテイメントだと勘違いしている女性スタッフに対して腹が立った。
停まる駅の回数が増えていくたび、人口密度も比例して高くなっていった。
名字さんの近くに男性が寄らないように、僕は体勢を変えて彼女の盾になった。


「名字さん、こっち来て」
「あ、」


彼女の背中を後ろからつつみこむような形で、僕はシェルターを作った。
僕の心臓は彼女の肩あたりなので、もしかしたら、涼しい顔の裏側がばれてしまっているかもしれない。
手すりを掴む彼女の小指に自身の小指が重っていたが、僕は逃げなかった。


「名字さん」
「はい」
「もうちょっとだけ、我慢しててください」
「はい」
「……にしても」






多いですね、人。
彼の声が、いや、声だけじゃない。息遣いすらも、私の耳元で確かに聞こえる。
少し目線を上げれば永見さんの顔があって、視線がぶつかった。心臓が、強く脈打っている。


「あんなことがあって、こう言うのも何なんですが」
「はい、」
「僕、メガネやけどでかくて良かったです」
「なんでですか?」
「僕のこのでっかい体は、名字さんを守るためにあると思いませんか?」


永見さんの笑った顔は、優しいくせに逞しい。見蕩れていると、足元を掬われてしまう。
彼の体温は心地良くて、一瞬、すべてを任せてしまいたいと心がぐらつく。
あ、電車が揺れる。
















酸欠
(怖いけど、あなたがいれば大丈夫)







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