「なあ、今日のお客さん気付いた?」
「最前おった人やろ? 見た見た」
「名前、気付いた?」
「え? どんな人ですか?」


出番が終わって帰るまでの雑談が普段とは違う空気を醸し出していて、その雰囲気を背中で感じ取ってはいたが何も気にせずスマホをいじっていた。
話を振られた時も、該当する客のことなど全く見当がつかず記憶を巻き戻していると、誰かがこう言った。


「その人、ずっと名前のこと見とったよ」


途端に背筋が凍って、起動していたスマホが真っ暗になった。
友人の可能性もある、と伝えたが、その客の見た目は四十代くらいで、さすがに知り合いとは思えない感じだったとのことだ。


「まあ劇場やったら警備もしっかりしてるし、大丈夫ですよね」
「まあなあ。でも気ぃ付けや? 最近物騒なんやし」
「ありがとうございます。ほな、お先失礼します」


先輩たちの心配とは裏腹に、私は言うほど気にしていなかった。
そりゃ劇場に立つ以上顔も名前も晒さなければいけないし、有名税とまではいかないけれど、私も少しは世間に認められたかな、と寧ろほくそ笑みたい気分だった。


「お疲れ」


エレベーターを待っていると、同期の九条が後ろからやって来た。お疲れ、と一言返すと、空気より軽い沈黙がふらっと流れた。
二人しかいないエレベーターは、なんだか広いようで狭い。


「今日変な奴おったやろ。客席に」
「ああ、さっき言うてた人か。私喋ることに集中してて全然気付けへんかった」
「相変わらず緊張しいやな」
「これでも昔に比べたら慣れた方やねん」
「そやな。まあ、名前が狙われるわけないか」
「ないない」
「名前より若くて可愛い子なんかようさんおるし…… あ、」
「ん?」
「あいつや」


降りた先には、話題になっていた「変な奴」がいたらしい。
こちらには気付いていない様子で、引っ切りなしに周りをきょろきょろしている。
その人は容姿こそ普通だが仕草や目線が少し人と違っていて、それを見て手のひらに汗をかく感覚があった。


「行くで」


ちょうど私たちに背を向けたタイミングで、九条が私の手首を取り壁になるよう体を入れてくれて、難なく劇場から出られた。
ほっと胸を撫で下ろした瞬間に九条の電話が鳴った。電話の主は下ちゃんで、ネタ合わせをしようという内容だったらしい。


「あいつタイミング悪すぎやろ」
「なんで? これからなんかあんの?」
「いや、お前…… アホか?」
「私? なんかあったっけ?」
「……ええわ。お前みたいな女でも用心しとくに越したことはないんやから、気ぃ付けて帰れよ」
「ああそういうことか。私なんか狙われへんよ、大丈夫。ありがとう」


行きな、と手をしっしっと払うと、その手をチョップで倒された。
「何かあったら電話してこい」と言い残して彼は去った。さすが長男だな、と感心し、私は電車に乗って自宅まで何事もなく帰ることができた。
無事帰ったよ、と一言だけ送信すると、いつも送ってくるOKスタンプが返ってきた。





「名前、あの人また来とる」


次の日、トイレを済ませて楽屋に戻った瞬間に相方が飛んできた。
袖から客席を見ると、確かに昨日見たあの男性が最前列に座っていた。大きく心臓が跳ね、呼吸が浅くなるのを感じる。


「私らにもファンが付いたかな」
「いや、あれはファンとちゃうやろ」
「なんで?」
「……なんとなく」
「見た目で人を判断したらあかんで」


笑ってみたものの、相方と同じように私も幾許かの不安を抱えていた。
女の感? 漫才師の感?
どこの感覚がそう言っているのかは分からないけれど、笑顔を作ってみても、気合いを入れてみても、私の足はすくむばかりだった。
出囃子が鳴り、スポットライトは私たちを照らす。


「名字」
「はい」
「今日、調子悪かったか?」
「すみません、本当にすみません」


漫才の出来は最低だった。
噛むわ、飛ばすわ、トチるわで取り付く島もないほどだった。
原因をあの人のせいにしてはいけないけれど、今日はっきりと確認してしまった。
緊張と焦りの中視線が気になってそちらに目線をやると、その男性は自身の右手で太ももの付け根あたりをまさぐっていた。私の姿を凝視しながら。
気付いてしまったら最後、私はドミノのようにばたばたと倒れていくしかなかった。


「大丈夫?」
「わ、びっくりした。今日ほんまにごめん」
「ええよ。それよりあの人……」
「うん、やっぱ間違うてなかった」
「やっぱファンとはちゃうよな」
「うん、違う」
「名前、顔色悪い」
「うそやんどうしよ。コーナーまでちょっと休んでてええかな」
「うん、私から言うとく」


コーナーを仕切る先輩を見つけた相方は、すぐさま走って声をかけに行った。
私は一旦洗面所に向かい、どれだけ顔色が悪いか確認しに行った。お世辞を使ってもそりゃあもう、酷いものだった。
少しでも血色を良くするべく、ホットのはちみつレモンを自販機で買ってみたが、効果のほどは神のみぞ知る。


“今日ってマンゲキ出番ある?”


横になって軽く微睡んでいるとき、ふと、手首に残る彼の体温が蘇った。
メッセージを送って深く呼吸をしてみる。無音の部屋は、私の速い鼓動と時を刻む針の音しか聞こえない。
目を閉じてすぐに、スマホが震えた。


“今日はオフやねん”


貴重なオフに、私はなんてことを。
すぐに指を動かして返事を打つ。


“ごめーん! オフ楽しんで!”


電池が切れたように、スマホを持ち上げていた手が倒れた。こんな事務的なやり取りだけでも私の心は軽くなった。
コーナー前にもう一度顔色を確認しに行ったが、さっきよりは遥かにましになっていた。
回復しきってはいなかったが、舞台に出る気力は残っている。あちらに視線を向けないように、私は私の仕事をこなした。
しかし、努力だけではどうにもならないことがある。


「誰か来て!」
「落ち着いて!」
「警備さん早く!」


女性客の悲鳴が轟き、会場は騒然とした。
理由は最前列のあの客で、その人は私めがけて丸めた紙みたいなものを投げてきた。呆気に取られていると彼はもう舞台のすぐそこまで登って来ていて、私の体に触れる直前に近くにいた男性芸人と揉み合いになった。
すぐに客は取り押さえられ、会場から姿を消した。
公演は強制的に終了となり、出演者全員が舞台袖にはけた。


「名前!?」


緊張の糸が切れたのか、はけた瞬間に意識が飛んでしまった。
たくさんの人が駆け回る音と、私の名前と、相方の涙声が遠くで聞こえる。
ゆっくりと景色がぼやけて、脳の中が朧になっていくのが分かった。
ああ、これはたぶん、あかんやつや。





「……良かった、目ぇ覚めた」


何時間経ったのだろう。気付いたら私は知らない部屋の、知らないベッドで横になっていた。
微かにたばこのにおいがする。
周りをぐるりと見渡すと、見飽きた臙脂色のマオカラースーツが目に入った。


「こら、あんまり見んな」
「……ここ、九条んち?」
「うん」
「なんで?」
「どこまで覚えてんねん」
「えーっと、公演が強制終了になって、袖にはけた瞬間私が倒れて…… そっから覚えてない」


九条の話はこうだ。
意識を失くしてしまった私を自宅に帰すにも一人では危険、相方やマネジャーも女性の一人暮らしで害が及んでは危険となり、結果的に九条が適任だとなり預かってきたらしい。


「そっか、ごめんね九条」
「ええよ。今日オフやったし」
「……そうやんね、今日オフやんね」


二人の目線が合ったまま、時間が流れる。
耳には今日のニュースが飛び飛びで聞こえてきてはいたが、頭には入らない。
眉間に皺を寄せた九条が、私のおでこをぺちん、とたたいた。


「腹は?」
「減ってない」
「風呂は?」
「あ、おふろ……」
「タナカさんがいろいろ持ってきてくれてる。足りひんもんあるか?」


マネージャーのタナカさんが必要なものを事前に九条に持たせてくれていたみたいで、クレンジングやスキンケア類、下着などは既に用意されていた。


「ない。タナカさんすごい」
「なら、僕買いに行かんでも大丈夫?」
「うん、ありがとう」


安心したのか、毛布越しにも聞こえるほどの声で飼っている腹の虫がけたたましく叫んだ。
よほどツボだったのか、九条は床に転げ落ちたまんま大きな笑い声を上げた。


「そんなに笑うかね」
「いや、全然腹減ってるやん、大嘘つきよって」
「安心したら急に鳴ったんやもん知らん」
「女から出る音とちゃうかったで今の音」
「もー笑うな恥ずかしい」
「せやかて、くっ、はは、やば、止まらん」
「そんなに?」
「うん」
「泣くほど?」


九条は笑いながら泣いて、私が指摘すると笑うことだけをやめた。
小さな顔を大きな手で覆って、やがて鼻を啜る音が聞こえてきた。
さっきの明るい雰囲気とは一転、しんみりした空気が寝室に流れ込んでくる。


「……すまん」
「うん」
「なんもない」
「うん、よかった」
「……うそや」
「なによ」
「話聞いた時、生きてる心地がせえへんかった」


涙でぐしょぐしょの顔でも、結局この人はかっこいい。
私の無事を何度も確認するように、大きな手で頭を撫でる。
ごつくて、でかくて、優しい手だな。


「名前なんか狙わへんて言うたんも、狙われへんかったらええって願望が入ってた」
「そうなん」
「酷いこと言うてごめん」
「ひどいこと? なんか言うたっけ?」
「名前より若くて可愛い子が〜みたいなこと言うた」
「そやっけ?」
「おまえな…… 人が気にしてたことを……」
「私芸人やで? そんなん気にしてたらこの仕事してへんよ」


アホやなあ、と笑ったら、九条は涙ぐんだ声でうるさいブス、と呟いた。
横になったまま九条を無言で見つめていると、やっと泣き止んだ九条が無言で布団に入ってきた。


「私のベッドに何か用?」
「僕のベッドですけど?」
「…………」
「僕が僕のベッドで何しようが僕の勝手ですけど?」
「……なにさ」


涙は蒸発したがまだ鼻の赤い男は、長い手を動かし器用に私の頭まで浮かせて、見事私と九条の距離はゼロセンチになった。昨日手首に残っていた体温と同じものだ。


「なに」
「黙っとけブス」
「ブスじゃないから喋っていい?」
「……ブス」
「なんなんよ」
「無事で良かった」
「ぶ、で始まるからまたブスって言われるんかと思った」


体の距離はそのままで、顔だけ離される。至近距離に九条の顔がある。
キス、されそう。
そう意識すると、顔も耳も、体の全部のパーツが赤くなってのぼせてしまいそうだった。
九条の顔がゆっくり近づいて、私は反射で目を瞑る。


「するか、バーカ」


その台詞に私はさらに体温が上がってしまい何か言い返す言葉を考えていると、憎たらしい九条の唇は私のおでこに移動した。


「今はまだこっち」


男性とベッドで密着しているドキドキなのか、キスされたドキドキなのか、相手が九条だからドキドキしているのか、今の私にはまだ分からない。
ただ休みを返上して私のために劇場まで飛んできてくれたことは、いつかどこかでお返ししなきゃいけない。
泣いてくれた九条のまぶたに唇を落とすと、もうふたつの唇の距離なんて、あってないも同然だった。

















(おまえなんかに僕の宝物はやらん)







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