俺の彼女はモテる。
学生時代は所謂一軍に所属していて、男女共に友達が多く、きらきらした学生生活を送ってきたらしい。これは彼女の友人からのタレコミなので、確かな筋からの情報だ。
就職先は女性ばかりのエステ会社だったので憧れの社内恋愛は叶わなかったみたいだが、街を歩けば、食事に行けば、どんな時だって男は彼女を放っておかなかった。
だから、彼女に俺の気持ちなんて分かりっこない。


「匠くん待った? ごめんね」
「十分やったら遅刻の内に入らへんで」
「入るよ。今日の髪の毛扱いづらくて上手くでけへんかった」
「そう? かわいーしてるやん」
「ほんまに? よかったぁ」


不本意だという彼女の髪の毛は、風が吹けばふわりと舞い、そこからは可憐なブーケのような良い香りがした。
俺の不細工な褒め言葉にも心から喜んでくれて嬉しい反面、自分のダサさが色濃く浮き彫りになり下を向きたい気持ちになった。
だが、俺にそんな暇はないのだ。
周りを見渡すと、彼女を見つめる視線があちこちから飛んでくる。俺には、下を向いている時間などない。


「外でご飯久しぶりやね」
「うん。ごめんな、最近会えへんくて」
「ええよ全然。友達と遊んでたし」
「……友達って、誰?」


皆さまには、俺のこの少しの沈黙を買ってほしい。
言うか言わまいか悩んだ挙句、俺の心の天秤は男のプライドより自身の不安の方が勝ってしまった。
当の本人は俺の葛藤などつゆ知らず、友人を指折りしながら教えてくれた。りんちゃん、マヤ、フジイ、全員会ったことある彼女の女友達だった。
カフェに行っておしゃべりしたり、家にお泊まりに来てもらったり、俺がいないところでも彼女は楽しそうで、寂しいなんて感情をこぼさない。


「匠くんは仕事どやった?」
「俺? 俺は…… うん、まあぼちぼち忙しかったかな」
「M-1終わって東京とかもよう行ってるもんね。すごいね、匠くん」


長いまつ毛、白いすべすべの肌、きゅっと上がった口角につやつやの唇、いつ何時も彼女はきれいで、隙がない。
俺が東京に行こうが飲み会に行こうがメイドカフェに行こうが、彼女の胸は揺さぶられない。
俺の心中は、こんなにどす黒い雲が渦巻いているというのに。


「この後ってなんか予定ある?」
「え? ないよ?」
「名前ん家行っていい?」
「うん、ええよ」
「泊まるのは?」
「えっ泊まってくれるん? うれしい!」


アルコールが入って頬を染めた彼女は、いつもと違ってさらにかわいい。
会計、駅までの道のり、電車の中、彼女に降りかかる男の視線は例を漏れず槍のようだった。彼女は僕の隣で小さく囁く。


「……マユリカ、人気になってきたんちゃう?」


俺がこんなに頭を悩ませているのに、彼女は大真面目な顔でこう言った。
この視線はあなたに向けられているものですよと教えてあげたいけど、「そんなわけないやん」と笑って話が終わりそうだ。


「あー待って、洗濯物」
「ええて」
「匠くん来るならもっとちゃんとしとけばよかった」


干していた仕事の制服やストッキングを簡易的に整え、迎える準備が終わったらしい。
靴を脱いだ瞬間に名前が飛び込んできて、脳みそから一気にセロトニンが放出した。
俺を見上げる彼女のこの表情は、今のところ俺だけのものだ。
優越感で死んでしまいそうだが、今日の俺は一味違う。


「こないだな、モー娘。のライブ行ってん」
「あ、そうなん? ええなぁ」
「そっからずっと動画見漁ってんねん。一緒に見よ」


彼女のテレビに映されるのは、ミニスカートで元気よく歌って踊るアイドル。
有無を言わさず彼女を隣に置き、鑑賞会を始めた。彼女は戸惑ってはいたものの、「これがチェルちゃんやんね」、と俺の推しを指差した。
チャンスが到来した。


「そう。めっちゃかわいいねん俺の推し。毎日チェルのこと考えてるし、もう脳みそ一個じゃ足りひん。寝る前にこの子の画像見たら疲れも飛ぶし、仕事がんばろって思えんねんな〜」


名付けて、名前に嫉妬させよう作戦。
三十過ぎたおっさんが何してんねんと言われても仕方ないが、こうすることでしか、凡人の俺には彼女の気を引くことができないのだ。
生まれてきてからずっとモテモテ人生だった名前は、俺が女の子といようがある程度何しようが全然気にしない。他の女の子をベタベタに褒めた後、名前が拗ねて、お互いの愛を確認し合った後にベッドイン、という三日三晩寝ずに考えた作戦だ。ヤバいとかイタいとか、もうそんな反応に躍起になっている場合じゃないのだ。
彼女の反応が気になって横目で窺うと、彼女は画面に釘付けになっており、感嘆した様子でこう言った。


「ほんっまに、肌きれい。ほっそ、スタイルいい。髪の毛つやつや。あ、この表情すてき。てかこんなきわどい洋服似合うとかすごすぎる……」


俺の彼女は、どこまでも良い子です。
嫉妬どころか、二人して一緒に推しを褒め合ってしまっている。嬉しいが、想像の斜め上を行きすぎて俺が慌てている。
アイドルを凝視する彼女は頬杖をつき、その両手には春らしい桜色のネイルカラーが施されている。


「私も負けてられへんなぁ。メイク落としてこよっと」
「え、一緒に見ようや」
「今日ちょっと寒かったし、メイク落としてお風呂入るね。お肌荒れたら困るし。匠くんはゆっくりチェルちゃん見とき」


名前は下着とパジャマとタオルを持って浴室に向かった。
遠くから湯船にお湯がたまる音が聞こえる。一人残された俺は、キラキラ踊る推しが映るテレビを眺めた。
企てた作戦が失敗に終わったからか、推しを見ているのになぜか胸が痛んだ。






「ふう、」


メイクを落とし、私は生まれたままの姿で熱い羊水に浸かる。
匠くんと会えると分かって急いで塗ったピンクのネイル、焦って塗ったわりには上出来。
高いパックとトリートメントを前日に仕込んで、デート用の服を決めるために1人ファッションショーをして、メイクも動画を見て練習して、それから、それから……


「なんなんよ、あの一言」


私の努力が、全部台無しになった気がした。いつ爆発してしまうか自分でもひやひやするくらいだった。
そんなに好きならチェルちゃんと付き合えば。
何回この台詞を言ってやろうかと、喉元まで出かかったこの本音を、何度も何度も泣きながら殺してきた。
匠くんが好きだから、嫌な女だと思われたくないから、匠くんの推しに負けたくないから、私はどんなに腹が立っても笑顔でいることを決意していた。それなのに。


「こんなに頑張って、アホみたい」


仕事に追われながら慣れない筋トレをしてみたり、食事制限をしてみたり、匠くんの負担にならないように休日を予定で埋めてみたり、できることは全部しているはずだ。
なのにあの人は、私のことなんて全然見ていない。
片思いならまだしも、付き合っているのにこんな感情に自分の軸を攫われるなんて、恋人になった当初は考えもしなかった。


「名前?」
「、なにー?」
「俺も一緒に入っていい?」


涙を隠すべくお湯をすくって顔に何度もかけた。
水音で鼻声もかき消され、私が泣いていることはバレていないはずだ。


「ごめん、私今日生理やねん」
「えっそうなん? ごめん!」
「ううん、ごめんね」


がっかりすればいい。どうせ、そのつもりでうちに来たんでしょ。
そう考えると、余計に涙が出てきた。
私はたぶん、世間一般でいうモテる部類の人間で、匠くんと付き合うことになった時も友人たちは訝しげな表情を浮かべて、納得のいっていない顔をしていたことをよく覚えている。
「なんで名前が芸人なんかと」と、実際言われたこともある。
私は誰になんと言われようと匠くんが好きだったし、匠くんも私のことを好きで大事にしてくれていることもよく分かっていた。
今日の発言を聞くまでは。


「お風呂どうぞ」


テレビ画面にはローカルCMが映し出されている。チェルちゃんに満足したのだろう。
匠くんと目が合うと、反射で微笑んでしまう。傷ついても尚彼に好かれようとする自分に嫌気が差した。


「言うてくれたら外で飯とか言わんかったのに。ごめんな、しんどかったやろ」
「大丈夫よ。私も言わんくてごめん」
「なんか欲しいもんない? 買うて来よか?」
「ありがとう、大丈夫」


匠くんの体温がおなかに溜まる。お酒が入った私の胃はいつもより前に出ていて、匠くんの手が触れる直前に限界までへこませた。
匠くんがお風呂に入っている間に寝てしまおうかと考えたが、彼が入って出た頃にはまだ私は髪を乾かしている最中だろう。女って、なんてめんどくさいんだ。
スキンケアが完了した後、匠くんから不意に声をかけられた。


「名前」
「ん?」
「電話鳴ってたで」
「え、誰やろ」






俺の体をすり抜けてベッドサイドにスマホを迎えに行った彼女からシャンプーの香りがして、一瞬眩暈がした。
彼女の反応が気になってしまいずっと目線で追っていると、名前は無言でスマホを置いた。


「折り返さんでええん?」
「うん。この子からこの時間に電話来るってことは酔っ払い電話やから出えへん」
「……男?」
「うん」


タマちゃんやで、と名前を言った途端に、謎めいていた不安がにわかに晴れた。
タマちゃんは名前の大学時代の友人で、本名はタマルくん。もうすぐ結婚する彼女がいる。
俺はいちいち彼女に確認をしないと、自分の心配事すら一人で処理できない情けない男なのか。


「ごめん」
「なにが?」
「きもいやろ、おれ」
「……まあ、男の人やし」
「それにしても酷すぎん?」
「うーん……」
「ごめんな。でも好きすぎてしゃあないねん」


瞬間、彼女の大きな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
止めどなく流れ続ける涙に、俺は絵に描いたようにおろおろしていたと思う。
名前は顔を隠して、小さな肩を震わせながら声を殺して泣いている。
事情が分かっていない頼りない彼氏だが、この泣き方が只事ではないことくらいはへたれの俺でも分かった。


「名前……?」
「…………なに」
「どないしたん?」
「どないもこないもないわ」
「え、ど、な、どうしたん?」
「もういや、さいあく、くるしい」
「ごめん。何考えてるんか、ゆっくり教えてくれへん?」


この声かけは彼女にとって正解だったのだろう。名前は下を向いていた顔を上げて、俺の目を見た。
涙でうるんだ彼女の目や、赤くなった鼻、涙の栓を止めているかのようにぎゅっと結んだ唇、名前の全部が俺のツボを刺激するもので、真剣な場面にもかかわらず思わず心臓がきゅん、と音を上げた。


「いくらなんでもきもすぎ」
「……ごめん」
「そこまで考える?」
「ごめん、自信なくて」
「どういう理屈? 自信ないから彼女よりアイドルなん? ほんまに意味分かれへん」
「……え?」
「……え?」


長い沈黙が流れて、ニュースの音がより大きく聞こえる。
整理をつけたいが、言葉に出すのが怖い。でもここでへたってしまえば、名前の彼氏が廃るというものだ。


「ごめん、俺、名前がモテるの不安で、名前の交友関係全部把握しようとして…… ほんま情けない奴やんな」


もう一度「ごめん」、と言うと、彼女はさっきと全然違う表情をしており、さすがの俺でも何を考えているのか見当がつかなかった。
こうなれば勢いだと彼女を抱きしめようとしたが、待ったのポーズをされて自身の体にブレーキをかけた。
絶望する俺を見る名前は、苦虫を噛み潰したような顔をしている。


「これはあれやね、私、墓穴掘ったね」
「どういうこと? あ、さっきアイドルがなんや言うてたこと?」


そう言うと名前は絶叫と共に顔を伏せて、最後は小さな声で「めっちゃ頑張ってたのに」と俺だけに聞こえる声でつぶやいていた。
初めて見る彼女の一面に戸惑いというよりは、どこか歓喜に満ちている自分がいた。


「もういい、この際全部言う」
「え?」
「付き合ってもう一年経ったけど、なんなん、私のことよりチェルちゃんチェルちゃん。私が影でどんだけ努力してると思ってんの。スキンケア頑張って、毎月美容院行って、メイク練習して、匠くんの負担にならへんように自分の時間充実させて、愚痴も文句も言わんと、かわいく見える仕草とか研究して、匠くんの前ではいっちゃんかわいい私でおるように努力を、してんのに、」


匠くんは全然、私を見てない。
怒りに満ちた声色から消えそうな声に変わっていって、それがより一層彼女の悲痛を語っていた。
俺は知らない間に、名前にこんなに重たい劣等感を抱えさせていたのか。
愛を確認どころか、自分でその愛を壊しているじゃないか。なんで俺は、一番幸せにしたい女の子を自分が理由で泣かせているんだ。
烏滸がましいこと承知で、名前の髪の毛を触った。
やわらかな衝動で、ぽたぽたと涙がパジャマに吸い込まれていく。


「さらさら」
「当たり前やん」
「こっち向いて」
「…………」
「お肌つるつる」
「それも当たり前」
「名前、かわいい」
「……全部、匠くんのためよ」


嫉妬させたいとか思っていた数日前の自分を殺してやりたい。
こんなにかわいい女の子を、そんなしょうもない理由で泣かすなボケ。
ゆっくり彼女の唇を奪うと、名前の痛みが俺に流れ込んでくるようで、喉の奥が苦しくなった。


「名前ってさ」
「うん?」
「かわいいやん」
「うん」
「それは知ってんねや」
「うん、かわいいもん」
「こんなかわいい子が俺の彼女でええんかなって、名前も俺とおんなじ量好きになってくれたらええのにって思って」
「うん」
「でも俺自信なくて、その、気を引きたくて、」
「チェルちゃんを引き合いに出したと?」
「……すみません」
「しょーもな」


名前は鼻をかんだティッシュをぽい、とゴミ箱に投げる。
正直言ってこんな彼女を見るのは初めてだった。
ざっくばらんとした、明け透けな彼女は以前とは違うふしぎな魅力があって、胸が高鳴った。


「私の容姿を好きになってくれてありがとう」
「容姿だけとちゃうよ?」
「うん、でもこの容姿がなかったら、私の性格なんて見なかったでしょ?」
「……痛いとこつくな」
「どんな見た目でも、私は匠くんが好きやねん。自信ないとか思わんといて」


彼女からのキスは、いつも素直で純白で、神聖なものだった。
ベッドでそんなことされたら、と考えていると、唇を離された瞬間に名前が俺の上に跨り、ゆるい衝撃と共に背中は完全にシーツにくっついていた。


「私よりかわいい子なんてこの世にいっぱいおることなんか分かってんねん。けど、匠くんにだけは私が一番って思ってほしいし、そう言うてほしいの」
「名前……」
「ま、そういうことなんで。私を泣かせたお仕置きです」


名前はリモコンでテレビと電気を切って、桜色のきれいな手で俺の眼鏡を外した。
シャツのボタンをひとつずつ外されている途中で我に返り、本日何度目かの、情けない自身の声が静寂が包む寝室に響いた。


「名前、さん?」
「ん?」
「あの、これは一体……?」
「なによ、童貞じゃあるまいし」
「せっ、せ、生理て、言うてなかったっけ?」


暗闇に慣れた僕の目が映し出したのは、意味ありげに笑う美しい彼女。
ああ、そんな顔もたまらん。

















(ここだけの話、)
(私1回もチェルちゃんのこと)
(かわいいって言うてないのよ)
(女ってそんなもんやねん)








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