あの時は、一生の別れだと思ったのだ。
車通りがほぼない、夜明け前の冷たいコンクリート道路。彼女を後ろに乗せてひたすらペダルを漕いだ。


「東京なんか行きたない」


乗り心地の悪い、後部座席とも呼べない場所は名字だけのものだった。
願いにも似た彼女のその一言は、トラックの騒音にかき消されてしまった。俺はそれに何も返せなかったし、彼女の運命を前に手も足も出せなかった。


「大人って勝手よね。自分たちの都合で子供の人生変えるんやもん」
「そうやなあ」
「辻が甲子園で活躍するところ生で見たかったなあ」
「……東京、遠いもんな」
「バイトして交通費稼ごか」


何てことない、そこらにある公園のブランコで、蛍光灯の灯りだけを頼りに俺たちはミルクティーと涙を飲んだ。
あの時、好きだと言えていたら。
名字の背中や瞳の奥に、俺と同じような気持ちがあったことは知っていた。けれど情けない俺はたった二文字の真実すら彼女に伝えられず、親の離婚の苦しみだけを背負わされた名字をただ無言で見つめていた。


「誰か私を攫いに来てくれたらええのに」


さよならの代わりにそう言い残した名字の目には涙も悔いも残っておらず、未成年の脆い青さとはっきりとした諦めだけが爛々と輝いていた。
名字が東京に行ってからというものの、彼女の黒い噂が蜂の巣をつついたように湧いて出てきたことを覚えている。


「東京で高校デビューしたんやて」
「髪染めてピアス開けてタトゥー入れたんやろ?」
「挙句の果てに援交までして汚いオヤジと寝てるらしいで」
「そのお金でホストに貢いでるって聞いたわ」


クラスメイトにもかかわらず全く関わりのなかったグループの女子たちが、離れた途端に彼女の情報を知り得たことが違和感でしかなかった。
そして最後に、みんな口を揃えてこう言った。


「辻、良かったね。名字さんと離れられて」


小さな町の十七歳は、それが嘘だと確信していても体は抗えなかった。
いつしか彼女との連絡は毎日から三日、一週間から一ヶ月、一年と間隔が空いて、俺の携帯が変わる頃には彼女からのメールはゼロになっていた。
俺の脳裏に映る彼女は、頭のてっぺんから爪先まできれいなままだった。
東京でひとりぼっちの彼女を、俺は奈落の底に突き落としたのだ。





「辻、今日飯行くやんな」
「あ、はい、お願いします」
「ドイさんが女連れてくるらしいわ」
「ああ、今日そういう感じっすか……」


まさか自分が芸人になって、ありがたいことにそこそこ売れて、夜の東京で業界人たちと酒を酌み交わす日が来るなんて思わなかった。
それでもまだまだ下っ端で、女の良し悪しで俺たち大阪芸人の言動は変わってくるらしい。良しならドイさんに女をあてがう、悪しなら女を連れて適当にどこかへ行けとの命令だった。


「タダで飲み食いできるし、俺は行くけど」
「そっすね」


東京に来るたび、高校時代のあの子が顔を出す。
元気にしているんだろうか。まだ東京にいるんだろうか。今、幸せなんだろうか。
そんなこと願う権利すらないのだけど、俺の背中で隠れて泣いていた彼女を思うと、どうしても願わずにはいられない。
東京の一等地に構える洒落たイタリアンレストランは、大阪の臭いがついた俺たちには申し訳ないほどの荘厳な造りだった。
ドイさんが呼んだ女性たちがわらわらと集まり、俺たちを見るなり「芸人さんだ」と微笑んだ。


「すみません、まだ一人来てなくて」
「あれ? どうしたの?」
「残業みたいです。終わったら私に連絡来るので」
「じゃあ、先に始めちゃおうか」


東京の食事も、酒も、女性も甘美でとろけるようだった。俺は一人の女性を適当に与えられ、その人からは仔猫のような声が発せられ、肩に添えられる細い指には高そうな指輪がキラキラ光っていた。
食事が始まって一時間程経った頃、ドイさんと話していた女性から「今職場出たそうです」と報告が上がった。
男性陣はそれぞれ楽しんでいたみたいで、後から来る女性のことはそれほど気にしていなかった。


「すみません、遅れました」


その人は、目の前にいる女性陣よりも飾り気がなく落ち着いていたが、誰もが目を奪われてしまう魅力を放出していた。
空いていた席に座り一息ついた後彼女の名前が遠くから飛んできて、思わず耳を疑ってしまった。


「名前ちゃん、何の仕事してるの?」
「保育士です」
「あー、だから残業したんだ」
「そうなんです。すみませんでした」


名前ちゃん。
同姓同名にしては出来過ぎているし、年齢も同い年で、関西弁のイントネーションは抜けていたが、顔も面影がある。
会えた喜びと同じくして、こんな形で会いたくなかったと後悔の波が俺を襲った。
俺と彼女は一番離れた席にいて、お互い違う異性の壁に阻まれていることもあって話そうにも話せなかった。
隣に座っている先輩が、俺にだけ聞こえる声で言う。


「女連れて外出ろって」


ドイさんは、いつのまにか名字の真向かいで身振り手振りで彼女の気を引こうとしていた。
邪魔者は消えろと命令が来た。邪魔者はダサい大阪芸人と、名字以外の女だ。
席を立ち上がる先輩をよそに、俺はゆっくり酒を飲みながら藁にもすがるような一手を考えていた。


「名字さん」
「はい」
「以前どこかでお会いしませんでしたか」
「……え?」


俺の往生際の悪さに、ドイさんの眉間には縦皺がくっきり入っている。その様子に隣の先輩は額に汗粒を光らせ、俺の腕を取る。
名字は黙って俺の顔を見つめて、確信に変わるヒントを探していた。


「すんません、すぐ出ます。ほら行くで、辻」


俺の名前が呼ばれた時の彼女の顔は、弱い蛍光灯に照らされ、痛みを隠していた十七歳の時の名字そのものだった。
二人きりにされることを危惧して彼女は周囲に目で訴えかけていたが、彼女の懇願に反発するようにギャラリーは笑顔で姿を消した。そのギャラリーには、俺も含まれている。






「なんなんだろうね、あいつら」


やれやれといった様子でグラスを煽るドイさん、という人。テレビ局の偉い方らしい。
恋愛経験が多くない私ですら分かってしまう汚いやり口に、ただただ辟易した。
二人にされようがされまいが、お酒を飲もうが飲ままいが、目の前の彼に惹かれることはたぶんきっとない。


「……さっきの方、」
「ん? ああ、辻?」
「はい」
「何、タイプ?」
「いえ。知人に似てるなと思って」
「ニッポンの社長ていうお笑い芸人だよ。知ってる?」
「うーん、芸人さんは詳しくなくて」


辻、と聞くと、京都の蒸し暑い夏を思い出す。
白いボールをひたすら追いかけて、ユニフォームを泥だらけにして、汗のしみ込んだ帽子を無理やり私の頭にかぶせてくるあの人がいた、ただ青かっただけの夏を。
東京に追いやられて楽しいことなんてひとつもなくて、助けを求めるように毎日辻にメールを送っては、他愛もない会話を繰り返していた。


「初恋だったの?」
「そうですね、あれは初恋でしたね」
「へーいいなあ」
「もうね、すごい好きでした」


話すことなんてないから、もう終わった過去の恋愛でも話すことにした。
さっきのツジさんが私の知っている辻かどうかは知らないが、この仕様がない時間を埋められるくらいの思い出話はできるだろう。


「付き合ってなかったの?」
「はい。でもお互い好きだったと思います」
「告白はされなかった?」
「されなかったですね。私もできなくて。しかも私女子に嫌われてたし」
「なんで?」
「辻と仲良かったからです」
「ツジと?」
「ツジと」


家庭に居場所がなくて、制服を着ている時だけが唯一の休息だった。言葉なんてなかったが、ただ傍にいてくれるだけで私の心は救われていた。
京都を発つ最後の夜に、告白とは程遠い駆け落ちじみた一言を口走ってしまい、優しい彼を困らせた。
それ以来彼と連絡を取り続けるも、返事が来ることはだんだんと減っていき、ついにはメールを送っても返ってこなくなった。
涙を流す情緒すら湧かないほど、あっさりした終わり方だった。


「いいね、なんか十代って感じだね」
「当時は何日も眠れない日が続いて、苦しかったんですよ」
「彼女でもできたんだろうね」
「そうでしょうね。彼、モテてたから。十代の男の子なんてそんなもんですよね」
「みんないろんな欲を持て余してるからね」
「そうですね」


やばい流れになりそうだなと、女の勘が働いた。
いつトイレに立とうか、バッグを膝に抱えてうわ言みたいに彼の話を聞いていると、店の扉が開く音とこちらに駆けてくる足音が聞こえた。


「行こう」
「えっ?」
「出よう」
「え、ちょ、なんで、」
「辻! お前何してんだよ!」
「お疲れ様です、失礼します」


手を引かれ、店のドアをくぐる前にドイさんの怒号が響いた。
都会のネオンを慌ただしく泳ぐ私たちは、いや少なくとも私は、何が起きているのかも、これから何が起きるのかも、彼が何者かすらも分からなかった。





「あっ、あのっ……!」


呼吸が上手くできず、声が上ずってしまう。
私の制止に彼は走るのをやめ、振り返って向き合う姿勢をとった。


「ツジ、さん?」
「はい」
「ニッポンの社長の、ツジさんですよね?」
「はい、辻です」
「ツジ……、 辻?」
「うん、辻やで、名字」


目の前にいる彼は、高校時代より少し背と髪が伸びて、おしゃれな服を着ていて、どこから走ってきたのか首筋に汗を伝わせ、私の名前を呼んだ。
蛍光灯の色や灯りなんてどこも一緒のようなもので、二人を見下ろす街灯はたまにパチパチと音を立て私たちを威嚇している。


「久しぶりやな」
「うん、久しぶり」
「名前言われてびっくりした。まさか、本物やとは思わんかった」
「私も信じらんない。なんか夢見てるみたい」
「……東京弁やな」
「何年東京にいると思ってるの」
「何年やろ」
「十七歳の冬からだから……」
「十八年か」
「ああ、もうそんなになるんだね」
「十八年、名字をひとりぼっちにさせてもうたんやな」


今日の東京の夜はやわらかくて、数えきれない色の光が明滅している。それに呼応するように、私の鼓動もゆっくり大きく動いている。
二度とやり直せない、あの青臭い京都の時がじわじわと成仏していっている気がしてならなかった。


「さっきの」
「さっきの…… あの人?」
「何を話してたん」
「ああ…… 何も。ただのくだらない話だよ」
「俺らのことをあいつに喋って、なんになんねん」
「……何よ。もう終わったことだよ」


十年以上ぶりに会った私の初恋の人はなぜかちょっと怒っていて、深いため息をついた。
どうしていいか分からない私に彼は、辻は体力を消耗したのかしゃがみ込んでしまった。


「あいつに俺らの何が分かんねん」
「……何って、」
「好きやって言われへんくて、東京行ってまう名字に俺はなんもできひんくて、しまいには同級生からの根も葉もない噂に惑わされて、こんなに長い間名字をひとりぼっちにさせてもうた」


俺がどんだけ最低だったか。
アルコールも蒸発してしまうくらい、体温が上がっていく感覚を覚えた。


「私は辻が思ってるより平気だったよ」
「嘘や」
「本当だよ。あの多感な時期をグレずに一人で乗り切ったし、友達もできたし、自慢できるような物じゃないけど恋もした。その証拠に、」


バチン、と、頭上でエレキが走る。
私が息を呑んだ瞬間に、辻の悲しそうな目が視界に入った。


「その証拠に私、もう京都弁なんて喋ってないでしょ」


十代の頃から、なぜか私たちはお互いの気持ちが手に取るように分かっていた。
痛々しい事実だけが私たちをめちゃめちゃに切り裂いて、二人して立っているのがやっとだった。


「私も辻に、十八年間つらい思いをさせてたのね」
「俺はなんもつらいことなんかなかった。名字が、」
「その罪の意識も、今日できっと成仏するよ」






また俺は、運命に翻弄されている。海に浮かぶ小さな灯台の光みたいに、掴めそうで掴めないあの子の手を、俺は二度も諦めてしまうのか。
名字の笑った顔が、泣いているように見えた。
俺たちは平気で自分の気持ちに嘘がつけてしまうほど、大人になってしまった。


「大人は勝手やって、あん時言うてたな」
「うん、言った」
「俺らは、今大人やな」
「うん……?」
「大人は運命変えることができるって、俺と名字は知ってるやろ」


壊れ物を扱うみたいに名字の肩に触れて、同じ目線になるように膝を曲げて、唇を当てた。
背、こんなに小さかったっけ。肌の色は、こんなに透けるように儚かったっけ。
夜を映す名字の瞳はかげろうみたいに揺れて、もう一度キスしてしまうとばらばらと崩れてしまいそうだった。


「もう俺は十七歳とちゃう」
「うん、 ……近くで見たら目元に皺があった」
「こんな時になんでそんなこと言うねん。変わってへんなあ、そういうとこ」
「辻も十七歳じゃないけど、私も十七歳じゃないんだよ?」
「分かっとる」
「ほんまに?」
「ほんま」
「十八年越しに、私を攫いに来たん?」
「そうや」
「物好きやなあ」


少しずつだが、十八年の壁が融解している。
名字の東京弁が崩れる様子は妙に涙を誘って、気を引き締めていないとうっかりこぼれ落ちてしまいそうになる。
先輩から着信が大量に来ていたことは知っていた。今も俺と彼女の間を割くように、馬鹿みたいな機械音が連続で鳴っている。


「戻るの?」
「今戻ったらえらいことなりそうや」
「いつ戻ってもそんなに変わらないんじゃない?」
「戻りたないわあ……」
「じゃあさ、」


名字が俺の手を取る。
裸の電球は俺たちの気持ちを暴くみたいに照らしていて、夜風だけがふたりの景色を動かす。


「私に攫われてよ、辻」


俺はもうとっくの昔から、君とふたりで走る準備はできていたのだと思う。
















える







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