彼女から漂うシャンプーの香りが変わっていた。
そんなことを敢えて口に出すこともなく、彼女の唇を食べた。
彼女は俺の首に腕を回し、何度も何度もしてきたキスを求めて、たまに少しはにかんで、俺の目を見つめては幸せそうに微笑む。


「ん、晋ちゃん、」


彼女の呼吸が弾んでいる。それだけで俺の体の中心は疼いて、彼女を求めてしまう。
ひとつ前の事後に、前戯をもうちょっと長くしてほしいと彼女から要望があったのだが、艶めく唇とうるんだ瞳、かすれた声で名前を呼ぶ彼女に、どの男が我慢できようか。


「あかん名前、もうキツい」
「ええ?」
「脱いでいい?」
「うん」


自身の膨らみが収まりきらなくなり、ベルトを外しファスナーを下げる。ついでに名前の服も脱がせて、二人とも生まれたままの姿になった。
名前を呼ぶと、暗闇の中で名前が応えた。表情は見えないが、どんな顔をして、どんな気持ちで返事をしたか俺は手に取るように分かる。


「シャンプー変えた?」
「え、分かった? すごいね」
「前のとにおいがちゃうかった」
「大きいわんちゃんやねえ。おいでおいで」


おいでと言いつつ名前から近づき俺の唇に自身の唇を重ね、その唇は首筋、耳たぶの順に移動ししっかり味見していった。
柔らかい控えめな膨らみを弄ぶと、艶やかな声が漏れる。
大きな犬は上に乗ったまま、硬くなった欲望を飼い主に押し付けた。


「もう?」
「我慢してんねんで、これでも」
「もうちょっと待てできる?」
「あかん、無理」


指で馴らすつもりだったが、名前も俺を受け入れる準備は相当前からできていたようで、卑猥な水音が寝室に響いた。
枕の傍に用意していたゴムを装着して、入り口に自身の物をあてがう。


「いい?」
「うん」
「嫌やったらちゃんと言うんやで?」
「やじゃないよ」
「ん?」
「……なに?」
「言うて、どうしてほしいか」


羞恥で漏れる声が俺の鼓膜を震わす。
どうしてほしいかなんて分かっているし、俺がリクエストして言わせた言葉の何が嬉しいのかと問われるかもしれないが、この言葉は彼女の声で伝えられてこそ価値が出るのだ。


「晋ちゃんのちょうだい」


よくよく飼い慣らされたこの小さいわんこは、涙声で俺の愛をねだった。
名前は俺をすんなり受け入れたが、それとは裏腹に顔を歪ませてくぐもった声を上げた。
久しく会っていなかったから俺も名前もつながってしまった後はもう、互いの感情の行き場を相手に押し付けるほか術は残されていなかった。


「しんちゃんっ、」
「ん?」
「待って、ゆっくり、」


小さな体で必死に俺の活塞運動を受ける名前は、規則的な衝動に合わせてそれはそれはかわいい嬌声を上げる。その声がどんどん俺を昂らせていって、ゆっくり、とお願いされたことすら忘れてしまうほどに、俺はこんなにも彼女をリアルで感じていたかった。


「……名前っ、」


俺が最中に名前を呼ぶ時は、ピークが近づいているということを二人は知っている。名前は快感だけではなくどこか満足そうに笑って俺の首に腕を回した。
すると俺の体をホールドするように脚を背中あたりで組み、意地の悪い表情を作った。


「やだ、まだいっちゃだめ」


余裕なさげに、息も絶え絶えでそう言う名前に、俺の理性も崩壊寸前だった。
わけもわからず腰が動いて、声が大きくならないように名前は反射で自分の口を両手で押さえた。強気に言い放ったものの名前も俺と同じように果てる寸前で、涙を浮かべて俺の名前を何度も呼んだ。


「あっ晋ちゃん、わたし、もう」
「うん、我慢せんでええよ、名前」
「だめ、しんちゃんっ、いっ、ちゃう、!」


波が押し寄せるように、俺も名前も愛を吐き出した。
肩で息をする名前の頭を撫でると、すぐに俺に抱きついて「大好き」と繰り返しつぶやいた。
覆いかぶさったところが熱を持ち、額の汗の玉が頬から顎に伝い名前の鎖骨に落下した。


「汗やば」
「いつものことやん」
「シャワー行っといでよ」
「名前は?」
「んー私はいっかな」
「えーいっしょに行こーやあ」


二年の付き合いともなればピロートークはこんなにも軽やかなものになって、夏前からは俺の汗の量が増えることがネタにされ、いつしかこれが恒例行事となっていた。
しつこく誘ってみたものの、名前は頑としてベッドから起きあがろうとはせず、「いってらっしゃい」と言うだけだった。
俺は軽くシャワーを浴びて、新しい下着とパジャマに着替えて一秒でも早く名前の元に戻るべく、光の速さで髪を乾かした。
案外時間が経っていたみたいで、ベッドに戻ると名前は瞼を閉じ、規則的な寝息を立てていた。


「……寝てもうたか?」


穏やかな寝顔を一瞬たりとも崩したくなくて、ベッドには一切触れず傍にしゃがみこんだ。
幸せの象徴とも呼べるこの平和な光景を脳に焼き付けて、俺は煙草とスマホを持って外に歩きに行った。
平日深夜の住宅街は俺以外に外に出ている人はおらず、どこか爽快な気分だった。晴れた空を見上げると数えきれない星があちこちに散らかされていて、無意識にライターの火をつけていた。


「あ、」


煙草を咥えて思い出す。
煙草のけむりで咽せている彼女を何度か見たことがある。
煙草は苦手かと、付き合う前に聞いたことがあるが、大丈夫、と返ってきただけだった。
本当は苦手なのかもしれないと、それ以来彼女の前では火を付ける本数を減らしていた。それが段々と少なくなり、しまいにはにおいすら苦手かもしれないと考えて、煙草の気配すら消した。「禁煙したん?」と聞かれた時は、なぜか勝利の雄叫びを上げたいくらいの感情になった。


「星すっご」


彼女が目を覚まして俺がいないと気付いたら、あちこち探すだろうか。名前を呼んで、全ての部屋のドアを開けるだろうか。その後は焦って電話してくれたりするのだろうか。
いや、もし寝ぼけて部屋を飛び出してしまったら……。






「晋ちゃん?」


晋ちゃんがシャワーを浴びている最中に眠気が襲ってきてまどろんでいると本当に眠ってしまったみたいで、目が覚めたら部屋には私だけしかいなかった。
名前を呼んでも返事はなくて、玄関に行くと彼がいつも履いているスニーカーがなくなっていた。テーブルの上の煙草とスマホも見当たらないことを踏まえると、外に出た以外答えが見つからなかった。
時刻は、二時四十二分。


「パンツどこ」


下着とパジャマを纏い、冷蔵庫にある水を取って喉を潤した。
肌寒さを感じ、すぐにベッドに戻って布団に潜った。
目を閉じてすぐ考えたのは、彼が今何をしているか。便利な世の中だから、地球のどこにいても声が聞きたい人とすぐに話ができてしまう。
ついさっきまで幸せだったのに、自分のネガティブ思考のせいで余韻がどんどん消えていく。
不安が私をまるごと攫おうとしていたが、そんなものに流されてしまうダサい女になりたくなくて、外敵から自分を守るようにして固く目を閉じた。


「……やっぱり電話しよかな」


そう思い立ってすぐに、玄関のドアが開く音がした。
いつもとは違う静かな足音が近づいてくるのが背後からでも分かった。
煙草を持って行ったはずの晋ちゃんの体からは、あの特有のにおいがしない。


「名前」
「……ん」
「起きてるか?」
「……うん」
「寝てるやん」


寝ていると思ってくれたみたいで助かった。
ベッドに入ってきた彼はもうすでにパジャマを着ていて、晋ちゃんからは煙草ではなく星の香りがした。
晋ちゃんの腕を自分の腕に絡めると、思わず本音が出てしまった。






「どっこも行かんといてね」


拙い喋り方ではあったが、確かに寝ているはずの名前の口から出た言葉だった。驚いたまま五秒固まってしまったが、愛しさが勝ってそのままおでこに唇を落とした。
布団に入ってすぐに、煙草を我慢した自分を褒めてやりたいと思った。もし吸っていたら、名前は香りの変化で目を覚ましていただろう。


「名前」
「うん……」
「幸せか?」
「しあわせ……」
「俺も幸せや」
「よしよし」


ゴムの包装が床の下に落ちている。それに気づいた時には名前に頭を撫でられていた。
無音に近いテレビでは、他国の戦争の話がひっきりなしに放送されている。難しいことは分からないけれど、隣にあるこの安らかな表情を守っていけたらいい。
世間では愛を代表されるただの醜い行為の後に、妙に神々しい感情を抱いてしまっている自分に思わず笑いそうになった。
























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