「海?」
「そう。この日オフやろ? 行かへん?」


うん行く、と言いかけたと同時に、同期の女芸人が一枚の紙を渡してきた。
そのペラ紙には大きな字で「1泊2日 芸人だらけの海水浴!」と、見たことある癖字で書かれている。
同期と目が合う。


「何これ?」
「なんかこんなんやるみたいよ」
「へーすご。目立ちそうやね」
「うるさくてね」
「ほんまに。てか私たち行っていいの?」
「うん、声かけてきてって頼まれた」
「ふうん」


先輩の誘いで、しかもわざわざ呼んでくれているということもあり、私と同期は参加者欄に名前を書いた。
既に参加が決まっている面々を見ると、なるほどなと首を縦に振らざるを得ない。


「ひと夏のナントカをするであろう予定の人たちばっかりやん」
「やっぱそう思った?」
「海までに気配消す練習しとかなあかんな」


廊下で静かに笑う私たちの声は誰にも届かなかった。
仕事を始めてから時間というものは速く進むようにできているみたいで、私たちは先輩が運転する車に揺られ海に来ていた。ひと月前に名前を書いたのが嘘のようだ。
人が混み合っていない穴場を狙って少し車を走らせたと言っていたが、メインの海岸を先に見ていたこともあってこの人の少なさには感動していた。


「名字はパラソル持って」
「はいっ。空気入れも持ちますよ」
「頼むわ」


車何台かをかき集めたらしく、名簿を見た時より人数が増えていた。
海を楽しむのはもちろんだが私は後輩の中の後輩なので、とりあえず動くことをやめるつもりはなかった。
パラソルを立て、椅子を立て、クーラーボックスから飲み物を渡しに行った先で事件は起こる。


「なんや、名字もおったんか」
「はいっ、お疲れ様です九条さん」


九条さんの名前はなかったはず。私が書いた後に来ることになったんだなと太陽を浴びながら思った。
日陰入り、と言われ、一歩横にずれる。


「ありがとう。名字のは?」
「私のは女子チームのところにあります」
「何飲むん?」
「ビールいっときたい気持ち抑えてノンアルです。良い後輩でしょ?」
「えらいえらい。我慢できんかったら飲んだったらええねん」
「そうします、」
「おーい九条ー」


先輩がビール片手に九条さんの隣にかがんで、顔を赤くして喋っている。
もうできあがったのかな、とやり取りを見ていると、赤い顔をした先輩は笑顔を消し、私をじっと見据えた。


「水着とちゃうやんけ」
「はっ?」
「お前あっち行け」
「えっ?」
「何のために九条連れてきた思てんねん。邪魔すんな」


九条さん、髪の毛金色になってますます儚げで透明感が増したなあ。夏の日差しにも負けないくらいかっこいい……
……そうか、そういうことか。
私がいるとナンパできないし、俺たちに声をかけたい女子も隣に女がいたら諦めてしまうではないか。九条というスーパーウルトラアイテムを持ってるんだから邪魔すんなと。
先輩、そう言いたいんですね。


「すみません、去ります」
「名字、日やけ止め貸してくれへん?」
「はい、すぐ持ってきます」


女子チームのパラソルに戻る背後で、九条さんの声が聞こえた。その声が明るいものかそうじゃないものかと問われれば後者の方で、彼がナンパとかひと夏のナントカを期待しているような人じゃないからなんだろうと、妙に腑に落ちた気分で自分のバッグに手をつっこんだ。


「……あれ?」
「どないしたん?」
「ありゃー、日やけ止め車の中かも」
「それくらい貸すで?」
「んーでもなあ……」


脳が停止してきらきら輝く波打ち際をただ見つめていると、車の主である別の先輩が「海言うたらラムネやろ!」と叫ぶ声が聞こえた。
これ幸いとばかりにラムネを買いに行く役を買って出ると同時に、忘れ物をしたから車の鍵を貸してほしいとお願いした。
嫌な気分だけど、やんちゃグループのパラソルにもう一度戻る。


「九条さん」
「ん?」
「すみません、日やけ止め車の中っぽくて。今から取りに行くので、もう少しお待ちいただけますか?」
「おいふざけんなよ名字。なんぼほど待たすつもりやねん」
「あ、皆さんは先に遊んでてください。私は忘れ物取りに戻ったらここに置いておきますので」
「ほーん。ほな行こか、九条」


九条さんのはいもいいえも聞かず、私はパラソルの下から抜け出した。
人陰の少ない灼熱のビーチを歩いていると、私の頭は太陽にやられて沸騰しそうになっていた。
あの先輩、飲んだらやばいとは聞いてたけどあんな感じになるんだ。いくら後輩相手だからってあんな口の利き方と態度はありえなくないか。そんなに女がいるのが嫌なら誘うなよ。ていうか水着じゃないからなんなんだよ!
頭の中は先輩への怒りでいっぱいで、周りの景色など気に留めもせず足を動かした。


「お姉さん」


後ろから声が聞こえ、反射的に振り返る。
見知らぬ男性三人が私の後ろにいた。しかも思ったより近くに。
先輩の可能性、いや先輩の友達の可能性もゼロではないと考えた私は、一言も発さず相手からの一手を待った。


「ひとり? どこ行くん?」
「俺らと遊ばへん?」


やっぱりナンパかよ!
腹の中で巡らせた可能性なんか、すぐに捨ててしまえばよかった。
頭の中の怒りにさらにスパイスを振りかけられ、私は口も聞かず車を目指した。
しかし男たちは私の無視なんて気にすることなく喋り続ける。両脇に分かれた男たちからはアルコールのにおいがして、さっきのむかつく先輩の態度を鮮明に思い出すことになり心の中で大きめの舌打ちをかました。


「無視せんといてえや」
「何ちゃんて言うん?」
「彼氏おるん?」
「…………」
「どこから来たん?」
「ライン教えてーや」
「…………」
「なーなー」
「……おい、聞いてんのか」


男のこの一言のせいで、今までのくだらない空気に暗雲が立ち込めた。
びびって足を止めてしまったばかりに、男たちはぐるりと私を囲み眉間に皺を寄せてどんどん追いつめる。
やばい、と思ったが、見渡しても人がいない。声を出そうとしたが、栓で蓋をされてしまったのか蚊の鳴くような小さな声しか出ない。


「クソガキが何一丁前に無視してくれとんねん」
「や、その、すみません」
「ほらぁ、声出せんねやったら最初から答えてえや」
「あの、わたしいそいでて……」
「ほな着いてったるわ、どこまで行く? ホテル?」


下品な笑い声が響いた瞬間、膝が震える感覚があった。
誰か来て。下を向いて目を瞑ったそのとき、名前を呼ばれて頭にタオルをかけられた。


「ごめんって、先行かんといて」
「あ、あの、」
「名前の言うとおり、今日の晩ごはんは外で食べて帰ろ。な?」
「く、じょうさん、」
「ん? この人ら誰? 友達?」


なわけないかあ、と九条さんは笑ったが、一緒に仕事をしている先輩ということもあって、この笑顔が好意的なものでないことはバカな私にもしっかり伝わった。
威勢の良かった男たちは九条さんに睨まれたらすぐに「なんや、男持ちかい」と吐いて踵を返した。
呼吸を忘れていた私は、思い出したかのように大きく酸素と潮風を吸い込み溜め込んでいた恐怖を吐き出した。


「大丈夫? なんもされてへんか?」
「されてません、大丈夫です」
「酔うてたな、あいつら。しっかし女にしかあんな態度できひん奴ほんま嫌いやわ」
「すみません、ありがとうございます」
「来るの遅うなってごめんな、怖かったな」


タオル越しにでも、九条さんの手の大きさが分かった。
この鼓動の速さは恐ろしさから来るものなのか、はたまたこの浮世離れした美しさを放つ彼から来るものなのか、今はまだはっきりさせたくなかった。
車に到着し自分が座っていたところをあちこち探していると、座席の下から新品の日やけ止めが姿を現した。手渡すと九条さんは表情を変えず「ありがとう」と言って、それをポケットにしまった。


「こないだのさ」
「はい」
「翔でやったネタあったやん、あれめっちゃ良かったわ」
「ほんまですか? ありがとうございます」
「東京からネタ番組のオファーとかないん?」
「いやいや、私たちなんてまだまだですよ」
「なーんかそろそろ来そうな気すんねんけどなあ」
「えーうれしいなあ」
「東京行きたいとか思わへん?」
「んー、夢のまた夢すぎて今は現実味ないですね。今ある仕事に感謝してます」
「うん、えらいえらい」
「……なんかの面接ですか?」


二人しかいない後部座席が笑いに包まれる。
九条さんとこうやって二人で話すのは初めてだ。仕事や飲みの席でご一緒することは多々あったが、個人的な思いを聞かれたりネタを褒めていただいたりするなんて、夢と疑ってしまってもおかしくないほどの嬉しい現実だった。
夢ついでに、少し疑問をぶつけてみる。


「九条さん」
「ん?」
「戻らんくていいんですか?」
「あー……」
「待ってはるんちゃいます?」
「そうかもなあ」


そう言って九条さんは大きく伸びをし、背もたれに頭を預けた。動くつもりはないように見える。
彼からの言葉を待ち続けじっと見つめていると、「見すぎ」と口角を上げられた。そんなつもりはないのに、調子が狂う。


「僕は必要ないからなあ、あんなもん」
「そうですよねえ……」
「分かんの?」
「だっておモテにならはるじゃないですか」
「余裕そうに見える?」
「はい、それはもう」
「まあ、余裕そうに見せてるから」


百戦錬磨の九条さんも自分を奮い立たせてるのか、と黙って納得していると、隣から小さな笑い声が聞こえた。
何かおかしなことを言ったのだろうかと記憶を巻き戻していると、気にせんでええよと軽くあしらわれた。


「私、ラムネ買いに行かないと」
「ラムネ?」
「はい、頼まれたので。九条さんは戻っててください」
「一緒に行こか。荷物持つよ」
「いいんですか? うれしい、私も実ははよ遊びたいなって思ってたんです」
「せっかく海来たしな」
「せっかく水着も買うたし」
「え?」
「え?」


目を丸くし素っ頓狂な声をあげた私たちは、しばし沈黙を噛み締めた。
水着?、と問われたので、はい、と答えると、九条さんは急に窓の外を眺め始めた。


「そうなんや、水着な、うん」
「はい、あの…… なんかまずかったですか?」
「いや、着てへんのかと思って。さっき聞かれてて答えへんかったから」
「あれは単純に聞き方に驚いたので答えられへんかったというか、なんというか……」


自分が水着を着ているか着ていないかでここまで空気を澱ませるとは考えておらず、妙な緊張感と汗がほとばしる。
瞬間、私の携帯からかわいらしい音が鳴り、張り詰めていたものが弛緩した。
同期から「早く戻って来い」と催促があり、九条さんに伝えて私たちは車を降りた。
ラムネも無事買え、透きとおった瓶とビー玉をゆらゆら揺らして少しだけ夏を味わった。


「名字って泳げるん?」
「はい、六年水泳してました」
「ほんまに? 全然そういうふうに見えへんなあ」
「ブランクはありますけど、溺れることはないと思います」
「女の子やし、水着の跡付くんも嫌なんちゃうん?」
「ん? ああ、まあ……」
「ああいうアホな男もおったわけやし、Tシャツ着て海入ったら?」
「んえーーーー……?」


せっかく買ったのに、という顔をすると、ドスの効いた声でなんやねん、と返ってきた。
麗さんに選んでもらったんですよ、と言っても、知らんそんなもんと強めに否定され、さっきまでの優しい九条さんはどこへ行ったのかと頭を抱えた。


「ええわ、お前なんかもうナンパされてしまえ」
「されませんよぉ」
「されてた人の言うことなんて聞きませんけど」
「……ああ、九条さんさては」
「なんや」
「私のこと好きなんですね?」


鏡を見なくても自分の顔が気味悪いにやつき方をしているのが分かった。
お笑いの先輩は、こういう場面になるとどう返すんだろう。楽しみに待っているといつになく真面目な顔で私の瞳を捉えられ、足が後ろにたじろいだ。


「……うん、好きやで」


心臓が破裂したかと思った。
耳が赤くなる感覚があって、唇が震えて、自分がときめいてしまった事実を隠さないといけないと思ってあらゆるところから理由を作った。
九条さんはお芝居もされているから、お笑いというよりはこういう俳優っぽい返しにしたんだそうだそうだ、ああびっくりした。
そう考えるとときめきとかいう少女っぽい気持ちも水平線の方へ飛んでゆき、板の上と見紛うほどの声が自然と出た。


「まーたもう冗談言ってー!」
「ああ!?」
「きゅーんってなりましたよ、こう…… きゅうんって!」
「……ナンパ行ってこよ」
「え!?」


ラムネ瓶を持った九条さんは私の前を颯爽と去り、ラムネラムネと叫んでいた先輩に冷えた瓶を渡した。
車から戻ってきた私を発見した女子チームは、浜辺から私の名前を呼んでいる。
首を捻ると、九条さんと目が合った。


「いいんですか?」
「何が」
「私、行っちゃいますけど」
「……行ったらええやん」
「私がピンチの時は助けてくださいね、さっきみたいに」


服を脱ぎ捨てうきわを持って海に飛び込んだ私をよそに、九条さんはその場でしゃがみ込んで夏の空を仰いでいた。と、先輩が言っていた。
忠告を受けたにもかかわらずしっかり日やけして水着の跡が付いた私の肌を見て「ほら見てみい」と言った九条さんとはこれをきっかけに仲良くなれたみたいで、夜の花火も帰りの車も隣で、来週は一緒にランチへ行く約束をした。
日やけした背中のせいで椅子にもたれられない私を見かねて肩を貸してくれたのは、たぶん私と九条さんだけの秘密。
























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