久しぶりに実家に帰ってきた。じめっとした暑さが肌にまとわりつくが、夕日の色や街を動かす喧騒は昔と変わらない。
笑えるくらい久々に顔を出しといてなんだが、やっぱり私は地元が好きだと心から思った。


「はーあ、どっこいしょ」
「えらい買い物長かったなあ。せやから私も行くって言うたのに」
「ええんよ、せっかく帰って来てんからゆっくりしとき。それよりさっきスーパーで晋のお母ちゃんに会うたわ」
「うっそ、おばちゃん元気やった?」
「あの人はいっつも元気よ。晋も今こっち帰って来てるみたいやわ」


うわー懐かしい。
そう言うと母が、「最近テレビでよう見るから久しぶりな気もせえへんわ」、と嬉しそうに言った。


「何十年かぶりにみんなでバーベキューでもしよかーって言うててんけどなあ」
「えー片付けめんどいやんか」
「まあ、じいちゃん死んですぐに肉焼くんもどうかと思て断ったわ」
「そこかいな」


盛山家とは母同士が友人関係で、私と彼はお互いまだ記憶にない頃からの付き合いになる。
高校までは同じ学校に通ったが、卒業を機に私たちはそれぞれの道へ進み、会うことも話すこともなくなった。
テレビで見る彼は昔のかわいい晋太郎くんの面影もあり、年相応の大人の色気を醸し出す盛山さんの一面もあり、見かけることがあればチャンネルをそのままにして彼を見つめていた。


「おばちゃんに挨拶行って来よかな」
「晋にも会うたりいな」
「うん、ちょっと行ってくる」


盛山家は歩いて一分。家を五軒挟んだところにある。
つっかけを履いて、橙色に染まった道路を踏み締める。アスファルトから跳ね返る柔らかい熱が私のくるぶしを焼く。
いて、小石が入った。


「名前!」
「あ、盛山」


紙袋を持った幼馴染が私の元へやって来た。
うん年ぶりに会うと、想像以上にでかさが際立つ。そんなことをぼんやり考えていると、紙袋を開けて見せて「ほれ」と私に言った。
甘い香りが鼻腔に広がり、思わず声が出た。


「おかんから名前んちに持ってってくれて言われて、食い」
「わー桃! めっちゃおいしそう、ありがとう!」
「お前いつ大阪出てん? 俺知らんかったわ」
「三年前くらいちゃう? あんたが東京進出するちょっと前くらい」
「結構経ってるやん。教えろよ」
「わざわざ教えるほどでもないやんか。おばちゃんから情報流れていってるし、ええやん」
「今どこおんの?」
「ニュージーランド」
「にゅうじいらんど!?」


懐かしい、素っ頓狂なバカみたいに高い声。
帰ってきたなあ、とひとりでしみじみ噛み締めているとまだ彼はびっくりしているみたいで、大阪どころか日本出てもうてるやん、とため息混じりに漏らしていた。


「そういや昔、海外で仕事したいって言うてたもんなあ」
「そんなこと覚えてんねや」
「覚えとる。まあ名前は英語の成績良かったしな」
「記憶力いいな、変なとこで」
「俺のことなんも覚えてへんの?」


他人に言われてやっと思い出すような微かな記憶を掘り起こされて、少しむず痒い感覚になった。
雲に隠れていた太陽が顔を出し、盛山の後頭部を照らしている。


「参観日の時、おばちゃんあんたより私のこと先に見つけて手振ってたなあ」
「あー、小三の国語の時な」
「中学の近畿大会、遠かったのにわざわざ車出して見に来てくれたし」
「あったなあ、そんなこと」
「受験受かった時はかわいいパスケースくれたっけ」
「それ全部お前とおかんの思い出やんけ」


私のしょうもない記憶も、彼の手にかかれば立派な漫才になる。
プロのツッコミを間近で受けてへらへら笑っていると、日差しのせいで暑くなったのか日陰に避難して話を続けた。


「小学生の時は一生分の缶蹴りしたよなあ」
「わーなつかし。あん時は私の方が盛山より黒かったしね」
「中学上がって晋から急に名字呼びになってな」
「思春期やねえ……」
「高校なんか会話する方が珍しかったしな」
「ふふふ」
「……なんやねんその意味ありげな笑い方は」
「多感でしたから、あの時は」


お互いの思い出には必ずどちらかがいて、呼び方が変わった時も会話が減ってしまった時も、いつもどこかに盛山の後ろ姿があった。
学校の中心人物だった彼は男女共に人気があって、第二次性徴期という変化に囚われた私は置かれてしまった境遇に適応することに必死だった。
蝉の鳴き声だけが響いているふたりきりの世界に、盛山が酸素を切る。


「いっこ聞いてええ?」
「ん?」
「高校の時にナカノに告られたってほんま?」
「……ほんま」
「付き合ってなかったよな?」
「うん、断ったし」
「なんで? めっちゃモテてたやんあいつ」
「好きな人おったから、私」


盛山と再会したのが夏で良かった。蝉の叫び声がなかったら、気まずさで死んでいたところだった。
盛山は無言で私の前から去り、視界に収まる位置にある自販機まで行って、ミネラルウォーターを渡してきた。
覇気のないありがとうだけがコンクリートに吸い込まれて、ふたりは遠くを見ながら冷えた水を飲んだ。


「私もいっこ聞いていい?」
「おん」
「高校生の時、二股しとったってほんま?」
「ほんまなわけないやろ」
「うそ、そうなん? がっちゃんから聞いて今の今まで信じてたわ」
「すぐ信じんなや。聞いたらええやろ俺に」
「んー……」


見切り発車ですべりだした質問はすぐに本人に一蹴され、また変な沈黙の時間が戻ってきた。
確認なんてしなくても、二股の噂がただの噂で真実でないということは分かっていた。彼にそんな甲斐性があるとは思えないし、もし万が一真実であったとしても、私はそれを咎めることはできない。


「盛山は、」
「なあ、その盛山やめろや。いつまで思春期してんねん」
「や、なんかもう癖づいてもうて」
「前みたいに呼べや」
「おばちゃんの前では呼んでんで」
「ほな俺の前でもいけるやろ」
「……晋」
「……なんか気色わる」






言うたやんか、と名前が少し大きな声を出すと、うそやんか、とそれを上回る大きな声で制す。
中学生の時はそんなやり取りを周りが「夫婦喧嘩や」と茶化すものだから、自分を守るために名前は俺から離れた。
名前は元々賢くて運動神経も良かったのに、ただ近いからという理由で俺と同じ高校へ進学した。そんな彼女に「流川みたいやな」と軽く冗談を言えなくなってしまうほど、思春期は俺と名前の間に分厚い壁を作ってしまった。
気にしていないふりをしているのは、名前だけじゃない。


「うわ、あの子かわい」
「あんたねえ……」
「ちゃうて。ほら見てみ、こっち来る」


住宅街の壁際を、小さな四肢を使ってこちらに向かってくる女の子が見えた。元々人通りが少ない場所ではあるが、親らしき人の姿は見えない。
声をかけると小走りでこちらに向かって来る。栗色の髪の毛が、夏の夕日を反射している。


「こんなかわいい子、堺におんねんな。お名前なんて言うん?」
「……ママ」
「ママ?」


女の子は名前の膝にすがり、俺の顔をちらちら伺っている。
名前は女の子に向かって「ひとりでお外出たらあかんやん」と独り言を呟いて、俺が渡した桃が入っている紙袋を渡して、家に帰るよう伝えた。
女の子が戻っていく先に背の高い男性らしき人影が見えるが、逆光で影しか見えない。
訳の分かっていない俺に、名前は白状するように言った。


「私、結婚してん。ニュージーランド行ったのもそれが理由」
「……ああ、そういうことか」
「さっきの娘。あれ旦那」
「外人?」
「うん」
「日本語喋れんの?」
「うん、拙いけどね」


俺らの年齢で結婚した、離婚した、子供が産まれたなんてことは日常茶飯事で、何度も聞いてきて慣れているはずだったのに、幼馴染だからだろうか、まさかこいつが、名前が結婚して子どもまでいるなんて、考えてもいなかった。
妙な喪失感が全身を包んだが、悟られないようにミネラルウォーターを飲み干した。


「次いつ帰って来るん」
「んー、いつやろ。当分帰ってけえへんと思う」
「……きもいこと聞いてええ?」
「駄目」


名前と目が合わなくなって、何分経ったんだろう。
名前を見下ろすと、夏服から伸びる腕がうっすら焼けている。夏の通学路ですれ違う時の、懐かしくて悲しいあの色だ。
名前の制止を振り解き、俺の唇は動くことをやめなかった。


「高校ん時の好きな人、誰やったん?」


目が合う。たった一瞬だけ。
名前はすぐに向かいの家に咲くさるすべりに目線を移し、ぬるくなった水で喉を潤す。
陽がだんだん翳り始め、二人の影も伸びていく。西の空は紫紺に染まり始め、夜が来ることを告げる。


「駄目って言うたん、聞こえへんかった?」
「聞こえへん」


呆れた物言いで俺に悪態をつくが、欲しい言葉はそれじゃなかった。今の心情にこの時間帯の景色は切なすぎて、涙が沸騰して今にも落下してしまいそうだった。
名前は細いため息をついて、睫毛を伏せた。


「結婚する時、ちょっと泣かれてん、おばちゃんに」
「えっ、おかん知ってんの?」
「うん」
「……んやねん、それ」


空気は相変わらず張り詰めていて、俺の一言でさらに冷える。名前は動じているように見えず、その余裕さにも苛立った。
なんで俺だけこんなにイライラしてんねん。俺はそもそも何にイライラしてんねん。
答えが見つからない俺を見かねてか、名前は正解に辿り着くヒントを教えるように、優しい声色で語りかけた。


「おばちゃんにな、“勝手に名前はうちのと結婚するんやと思ってた”って言われてん」
「……要らんこと言いよって。すまんな、答えづらいこと言うて」
「まあ、ほんまのこと言うたらさらに泣かしてもうたけどな」
「ふ、何言うて泣かしたん?」


やわらかく穏やかな空気が流れ、俺も名前に笑えるくらいの気持ちの余裕ができた。
俺の質問に名前は少しだけ困った表情を見せて、俺の目を見て言う。


「“あの人と結婚するまでは、私もそう思っとったよ”」


風が流れる。夏というよりは、秋に近い種類の風だった。
俺の記憶には、どこを切り取っても名前がいた。
呼び方が変わろうが、会話が減ろうが、違う生活を送ろうが、俺の心臓の一部は名前が持っていた。いつかそれを返して貰うべく、金を貯めて、有名になって、片膝でもついてあのダサい言葉を名前に伝えるつもりだった。


「好きな人、誰やったん」
「……さあ、誰やっけ」
















I lock my door upon myself
(私は私自身に扉を閉ざす)







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