ここちいい音がする。人げんは気分がいいと、歌をうたうんだってね。あたしの主人も、例にもれずそのタイプの人げんみたい。
たのしそうなその音にあわせて、あたしもちょっとうたってみる。


「ん? どないしたん?」


かがみを見るのをやめて、とおるはあたしの声に反のうした。あたしととおるのあいだに、とうめいのコップがある。とおるのやさしいえがおはぐにゃぐにゃにまがっていて、あたしはすきまからそっと顔を出した。
そのしゅんかん、おうちにおっきな音がなった。この音は、とおる以外の人げんがこのへやに来るというあいず。
あたしが肩をすくめ、首をちぢめるうごきをすると、とおるはあたしにわらって見せた。


「はーちゃん」


なんだ、あなただったの。びっくりしてそんしちゃった。
ドアがしまる音がして、あたしのしまもようとよくにたかみの色がさらりとなびいた。
せなかをつけておなかを見せると、とおるとおんなじ声でおんなじことばを言う。あったかい手つきであたしのおなかをなでたあとは、つぎはお鼻をつかってあたしをなでるのよね。


「あー、はーちゃんのにおい」
「変態やんか」


この子は名前。
あたしより先にとおるとなかよしで、とおるがいちばんだいじにしているおんなの子。あたしが小さいころからとおるといっしょにめんどうを見てくれていて、おしゃれで、おりょうりがじょうずで、あたしのことがだいすきなおんなの子。


「ちゅ〜る買ってきた」
「お、良かったなあハフ」
「あとで食べようね。いっぱい食べるとおデブちゃんになってまうから」
「ハフはおデブでもかわいいもんなあ」


とおるはあたしののどをなでて、名前はだいどころってとこに行った。いつもとおるやあたしのためにごはんを作ってくれているところ。
名前がつくってくれるごはんはおいしい。人げん用のごはんをつくるのもじょうずみたいで、とおるも名前がつくったごはんを食べているときは、とってもしあわせそう。
いつだか、「ハフと透って食べてる時の顔が似とるよね」と言っていたのをおぼえている。


「昼からお酒最高〜」
「何観る?」
「んー、透に任す」


名前はえいがより、とおると会えたことがうれしいみたい。ことばにはしないけど、あたしにはわかる。
でも、おひるまからおさけを飲めることはちょっとうれしいのね。ほっぺたがゆるんでるの、ばればれ。


「下田さんびっくりした」
「あれは全員びっくりしてたで」
「九条さんの方が秘密主義っぽいのにね」
「人は見かけによらんな」
「、そうね」


名前の顔をじっと見つめる。あたしと目はあわないけど、なにをかんがえているかはわかった。
とおるはおさけを体の中に入れて、はじまったばかりのえいがにしゅうちゅうしている。


「どったの」


ふびんな名前に、あたしは体をよりそわせ声をかけてみた。なにを言っているかわからないだろうけど、名前は「うん、そうかそうか」とあたしにあいづちを打った。
名前のあったかい手は、さっきとちがってさみしいっていう感じょうがすこし入っている気がした。
名前は、今なでているそのひだり手のくすり指に、きらきらしたわっかをかざりたいの。
あたしたちで言うところのくびわなんだろうけど、これって「あたしはどうまえとおるのおうちにいるねこです」ってことをさすものでしょ。きっとあのきらきらも、「あたしはどうまえとおるのおうちにいるおんなの子です」っていみを持つものだと思うの。
名前は待ちつづけている。とおるからのことばときらきらを、ずっと。


「名前」
「ん?」
「こないだありがとうな、ハフにごはんやってくれて」
「ええよ当たり前やんか。今月泊まりは?」
「末の金土日が泊まりになってん」
「分かった」


名前はいつもあたしをさつえいするしかくいあれを取り出して、指をすいすいうごかしている。とおるはあいかわらず、テレビをじっとみてうごかない。
あたしになにかできるかしら。
とおるのひざにまえ足をおろしてみたけど、とおるは気づかない。


「はーちゃん、おやつ食べる?」


名前がだいどころに立ちあたしもおっかけると、ようやくとおるはあたしがひざにいたことに気づいたみたいで、ひとりであわてていた。
おやつをたべていると、名前のおめめからつめたいお水がぽつんと落ちてきた。指でぬぐうとすぐに上をむいて、あたしに「ないしょね」のポーズをした。
あたしがこのポーズを見るのは、たぶんにどめ。
まだあたしが小さかったころ、とおるがおうちにかえって来られない日やおしごとがおそくなった日には、今みたいに名前がごはんをつくりに来てくれていた。名前はひとりでおるすばんをしていたあたしをおもって、おもちゃでいっしょに遊んでくれたり、ひえたあたしののどやまえ足をあたためてくれたりした。
そのとき、言ったの。


「ハフ、透は私のことどう思ってる? 私のことちゃんと好きなんかなあ?」


まゆをゆがませて、いつもとちがうこわいろでそんなさみしいことばを言ったの。あのときも今とおなじお水をぽたぽた落としてた。
あたしはまだあのときは子どもで、名前になにをしてあげたらいいかわからなかった。でも名前はつよいから、あたしの頭をいっかいなでるだけでお水は出なくなって、小さい声で「今の、透に内緒ね」って、ふたりでひみつをきょうゆうしたの。


「透」
「ん?」
「トイレ行ってくる」
「ん」


名前はしかくいあれを持ってへやを出ていった。
とおるは名前がいなくなったしゅんかん、ふかいためいきをついた。
……これは、あたしの出ばんってわけね。


「ニャ」
「はー…… あかんわ」


人げんて、ほんとにまわりくどい。ふあんなら本人にきけばいいし、となりにいてほしいならおやつをあげる手をつかんで引き止めたらいいのに。
とおるの目のおくをごびょうかんくらい見つめると、とおるはあたしに「ないしょね」のポーズをした。このポーズ、とおるからはなんどされたんだっけ。
あたしととおるは、テレビの下にあるたなにしせんを落とした。
名前がへやにもどってくる音がする。あたしはもういちど、とおるにむかってひとこと言ってやった。


「なんのために、そのきらきらを買ったの」


ふあんがりな名前も、びびりなとおるもバカなんだから。あなたたち、おんなじことを想いあってるのよ。
あたしをあいだにおいて、名前ととおるはきょりを取っている。あたしは気まぐれだから、もう手だすけをしてやんないことにした。
ふたりして「ハフどこ行くん」なんて言って、ああ、バカみたい。
とおるははやくきらきらをわたして、名前のくすり指にわっかをとおしてあげればいいの。名前はまい日あたしのごはんをつくって、あたしとおひるねをして、たまにいっしょにとおるのわる口を言ってくれればいいの。
あたしが言いたいこと、わかってくれてる? ふたりがうごくまであたし、しらんぷりするからね。もうこれいじょうあたしを待たせないで。

















(あなたたちのしあわせが、あたしのしあわせ)







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