「名字さん」
「ん?」
「お客様がいらっしゃいました」
「ええ? 誰やろ?」
「男性でしたよ。ご指名でした」
「男性でご指名?」


バックヤードで水分補給をしていた時、不意を突かれすぎて補給どころか全部出てしまうところだった。
うちは婦人服専門のブランドだし、プレゼントで買いに来てくださる男性のお客様も何人かはいるが、わざわざ指名で呼ばれることはない。
後輩にお礼を伝え店内に戻ると、そこにはここに馴染んでいない長身の男が、目線をあちこちに飛ばしながら商品を物色していた。
目が合う。


「よ」
「うわっ、えっなんで?」
「休みできたからこっち帰って来てん」
「えー連絡してよ」
「ほな今する」
「やめてやめてもう」


私指名の奇妙な客の正体は、小中一緒の辻だった。
学校が離れてから頻度こそは減ったが、何だかんだで縁が切れずに、年に一度は会って酒を交わす関係だ。
芸人になると聞かされた時は何の冗談かと思ったが、最近テレビで見かける回数が増え、それに伴い垢抜けてきたのか、東京のきらびやかなセットと女優さんの景色にちゃんと溶け込みつつある。
ちょうど、遠くへ行ってしまったなと感じていたところだったので、おばけのように現れた本人を前にして分かりやすく狼狽えてしまった。


「仕事、何時に終わんの?」
「十八時くらいかな」
「飯行こや」
「ええやん、行こ行こ」
「何食いたい?」
「あーーーー…… 焼き鳥とビールあるとこならどこでも」
「変わらへんなあ」


スマホをすいすいいじりながら、んーとかあーとか言いながら悩んでいる。一分くらい経った後、「予約しとくわ」、とこぼした。


「ええ値段すんねんな」
「一応百貨店に置いてもろてるんでね」
「いらっしゃいませーとか言うの?」
「そらそやろ」
「ちょ、俺に言うてみて」
「そのノリ、酒入ってる時だけにして」
「名前、今日予定とかなかったん?」


私も辻のまねごとをして、んーとかあーとか意味のない間を作って、ない、と一言吐き捨てた。
芸人のくせにリアクションが薄く、なんだか味気ないやりとりになってしまって居心地が悪い。


「終わったら連絡して。迎え行く」


「あ、あとこれ食い」。
東京のおみやげを私に持たせ、風のように去って行った。
後ろでうかがっていた後輩三人の視線が背中に突き刺さったまま抜けず、辻がいなくなったことを確認して私の元へ小走りで向かって来た。


「誰ですか今の方!」
「名字さん、彼氏おらんて言うてましたよね?」
「隠さんと言うてくださいよ〜」


二十代の彼女らは、まだまだこういう惚れた腫れたの恋の話は大好物だ。
実際、恋でも何でもないただの長い友人だと明かすと、残念そうに瞳を曇らせていた。
運良くお話好きな顧客様が来店し、辻の話はきれいに打ち切りとなった。
十八時まで、あと三時間。





「お疲れ」
「お疲れ」


これだけ長い付き合いになると、挨拶が淡白になるのは否めない。
東京のおみやげの感想を伝えると、表情を変えず「おお」、とだけ吐いた。私はその反応を見て、「喜んでいるな」、と頭の中でつぶやく。
長年の友人のことは、手に取るように何でも分かってしまうのだ。


「ここや」
「……ここ?」


さぞ味のある大衆酒場に連れて行ってくれるのだろうと思いきや、分煙がしっかりしていそうなおしゃれなお店の前で足を止めた。
私が静かに驚いていると、「高そうな服に煙ガンガンの店はさすがにあかんことくらい分かる」、と私のワンピースを一瞥して言った。


「はい、じゃあ改めて」
「お疲れー」
「お疲れー久しぶりー」


ジョッキではなかったものの、華奢なグラスに輝く琥珀色のお酒は、一日の疲れを一気に吹き飛ばしてくれる。
お酒も料理も揃ったところで、私たちは一年分の話を持ち寄って各々話した。
辻の話は、どれもこれも楽しかった。東京でのこと、地方でのこと、仕事のこと、芸人仲間のこと、尽きることがなかった。
急に話題をふられた時、何も考えず笑っていた私は頭が真っ白になった。


「仕事して、帰って、寝て…… それだけ」
「あとは?」
「ほんまにない」
「うそやろ?」
「え、自分でもびっくりしてんねんけど。私、この一年何してたんやろ? 記憶がない」
「もう三十五やもんな」
「具体的な数字言わんといて!」


頬を両手で包むと、良い感じに酔いが回っていることに気付いた。今が一番楽しい時間だ。
このふわふわとした感じの時は、酔いに任せていろんなことを聞けるし話せる。そして辻に向かって、全力でいらっしゃいませとも言える。


「結婚は?」
「ん?」
「結婚」
「一人でできひんやろ」
「そやったわ」
「辻は?」
「そやなあ、誰としよかなー」
「いいですね、選べる立場で」


白ワインを煽ってグラスを空けると、すかさず辻は、そのきれいな骨張った手でテーブルのはじにグラスを寄せる。こういうとこ、ギャップでモテそう。
酔ってる時は変に冷静になって、女の勘みたいなものが冴える。
今の辻には多分決まった相手はいなくて、結婚のことなんて微塵も考えていない。仕事も軌道に乗り始めたところだろうし、家を空けることも多いだろう。
それらをすべて許容できる女性なんて、存在するのだろうか。東京とか芸能界とかには、いるのかも。


「名前はいつでもできるやろ」
「うん、よう言われる」
「まあ、あかんかったら俺がもろたるわ」
「逆。あんたがあかんかったら私がもろたる」
「好きやもんな、俺のこと」
「辻も私のこと大好きやん」


分かっている。お互いが思い合っていて、友人の関係より先に行きたいこと。
辻のことは何でも分かっているつもりだけど、それが驕りだと判明した場合、私は人類初、恥が原因で死んでしまう人間になるかもしれない。
三十を越えた大人が、形ばかりの友人関係を続けて、悩んで、馬鹿みたいだ。


「なあ」
「ん?」
「今日、急に呼び出してすまん」
「ええよ、いつものことやん」
「次はちゃんと連絡する」
「うん」
「……好きやで」
「うん、私も」
「ちゃうて」
「何、嫌いなん?」
「名前の好きとは、多分ちゃうねん」


目を合わせたいのに、合わない。
辻の視線が下から上がって来ない。さらには両手で顔を覆ってしまう始末で、私はただ疑問と期待を行き来することしかできなかった。


「酒入ってる。ダサすぎるおれ」
「な、え、どうしたん辻」
「とりあえず聞いてくれ」
「うん」
「好きや。次会う時は、おまえの実家行って結婚の許可もらうから、予定入れといて」
「あ、うん……」


ピアノの音色がわざとらしく流れる。
二人で作った静寂が、二人のヒットポイントを徐々に減らしていく。


「……あかん待って、やっぱしらふの時にこういうことは言うべきやんな」
「うん?」
「さっきの好きも取り消した方が……」
「いやいや、なんでよ」
「名前の気持ち無視しておれだけ突っ走ってるやん。こんなんあかん」


顔を覆ったまま、頭をふるふると振って自分を律しているが、私は何だか笑いそうになっていた。
お酒が入っていたのもあるかもしれないが、こんなに感情に振り回されている辻を見るのは、なんだか久しぶりだったから。


「ええの。お酒入ってようがなかろうが、私の答えは変わらへんよ」


やっと目が合った先に、幼い頃の辻を見た気がした。
そう、彼は芸人になる前から野球が好きで、感情表現が少し苦手。
そして、私のことが大好きな男なのだ。

















(途中から酒の味全くせえへんかった)
(私も。飲み直しに行こ)








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