何が原因でこんなことになったんだっけ。





「私は大吾と違って普通の会社員なんやから、見境なくお金使えるわけやないねん」
「……ごめんって」
「そもそもこんな夜遅い時間にラーメン食べようとかさあ…… 私のこと太らせたいん?」
「や、そうじゃないよ」
「私は食べたら食べた分だけ太るし浮腫むし、大吾の周りにおるきれーな人たちとはちゃうんです」
「名前やって僕と一緒に仕事してるやん」
「雑用としてね」
「劇場スタッフは雑用とちゃうやろ」


付き合ってもうすぐ二年目の彼は私のとげとげしい言葉を包むように、声色や言葉を選んで私に向き合ってくれている。そんな低い姿勢にすら癇に障って、さらに攻撃してしまう。
困り果て、しかし確実に体力と気力を消耗している姿を見て、申し訳ないという気持ちがないわけではなかったが、それよりも強い怒りが湧き上がってきてしまう。


「私もう寝る」
「ごはんは?」
「要らん」
「……名前、」
「もう帰って。おやすみ」


大吾の帰りが予定よりかなり遅くなってしまって、でも今日は一緒に外で晩ご飯を食べる予定で、何も口にせず大人しく待っていた私は空腹と月一でやって来るあの諸症状のせいで何本か血管が切れてしまった。
平謝りする彼を見ても怒りは収まらず、彼の軽薄な提案にもっと怒りの炎は燃え盛り、これは駄目だとさすがの私も理解して寝たふりを決めることにした。
明日、どうせ劇場で会うのだからそこで謝ればいい。





「おはようございます」


朝起きるとなんとなく血色が削がれ、表情も暗く、一言で表すならば、それはもうひどい有様だった。
心の不調が完全に顔に出ていて、メイクでごまかすのが精一杯だった。
ふと、すれ違う女性スタッフたちに違和感を覚える。


「元気ないですね、名字さん」
「んーちょっとね。てか、今日みんなおしゃれしとるように見えんねんけど、なんかあったっけ?」
「やあだ名字さん、今日マンゲキの納涼会じゃないですか」


しまった。
スマホのスケジュール欄を確認すると、確かに夜から納涼会の予定が組まれている。昨日の喧嘩ですっかり忘れていた。
早いところ大吾と仲直りしないと。そう思った私はすぐに大吾にメッセージを送った。


“昨日はごめん。ちゃんと謝りたいからどっかで時間作れる?”


とりあえず彼からの返事を待つがてら、仕事をせねば。
納涼会は二十一時から。早く終われば一回家に帰って着替えられるかもしれない。希望の光が見えた私は、いつもより猛スピードで仕事をこなした。
舞台袖に行く際、芸人が事務所に挨拶に来る際、何度も彼の姿を探したがこういう時に限って彼と会えない。


「……なんでなん?」


朝送った私のメッセージは、十五時が過ぎても既読すら付かずインターネットの海をぷかぷか漂っていた。
確かに昨日は今までない以上に一方的に私が大吾に当たり散らして、彼の優しさを一ミリすら汲んであげられなくて、酷いことをしたのは重々承知している。だけど、こんなに長い間携帯を見ないことなんてあるのだろうか。
確認をしたいが本人とは一向に会えないし、付き合っていることは誰にも言っていない。仲直りしないまま納涼会なんて、気まずすぎる。





「こういう時に限って……」
「残業ですねえ」


私たちの部署はわりかし残業が多い方で、別部署のスタッフたちは定時で仕事を終わらせ、尚且つメイク直しや髪型を変える余裕まで見せつけて会場に向かって行った。
後輩はともかく、私は適当なメイクに適当な服、適当な髪型で参加することが決まってしまい、始まってもいないのに既に気分が落ち込んでいた。


「これ多分うちらがいっちゃん最後やな」
「とりあえず良いとこで切り上げて会場向かいましょうか。浜田さんからいつ終わるん? って連絡きてました」
「浜田さんって、カベポスターの浜田さん?」
「はい」


それを聞いてすぐにスマホの電源を入れるが新着メッセージはおろか、今日二十回は見たであろう未読を伝える空白に遣る瀬無さと苛立ちが混ざった感情を抱えて、私たちは会社を後にした。
どんな顔して入ればいいんだろう。
結局定まらず会場に着いてしまい、のれんをくぐるといつも劇場で聞いている賑やかな声が場を彩っていた。


「すみません、遅れましたー」
「お、やっと到着っすか! 遅くまでお疲れ様です!」
「ここ座ってください」


大所帯ということと、昨日からの疲労でどこに誰がいるかはきちんと把握できずにビールを頼む。とりあえず、飲んで落ち着きたい。
おしぼりをこねくり回していると、やたら盛り上がっているテーブルに耳をやられ、視線を投げた。そこには女性に囲まれた永見大吾という男がいて、循環する血が煮えたぎる思いがした。


「残業お疲れ様です、かんぱーい!」


多分今の私は、口角は上がっていないし目も死んでいるだろう。
ジョッキの中のビールを一気に半分以上飲み干し、ため息に近い二酸化炭素を吐き出した。
疲労具合に比例して、アルコールも良い具合に回る。今日は燃費が良さそうだ。


「残業、何が理由やったん?」
「フォトショがフリーズしてもうて。再起動かけたらデータぶっ飛んでました」
「うっわ、そら災難やったな。納品いけた?」
「はい、間に合いました」
「ありがとう。優秀な子がおってくれて助かるわ」
「子て。もうそんな年齢ちゃいますよ」


半年前まで同じ部署で働いていた先輩の向かいに座ることができて、正直ほっとした。この人の前では無理して繕わなくていいし、アルコールが入っても下世話な話題で盛り上がることもない。
騒がしいテーブルにもう一度目をやると、大吾と目が合った。


「名字」
「はいっ」
「結婚、どないすんねん」
「……ああ」
「もうそんな年齢やろ」
「私がしたいって言うてできるわけとちゃうんですよ」
「なんや、訳ありか、男」
「訳ありなのは、私かもです」


ビールはとうの昔に空いて、仕事の話が終わる途中くらいで二人とも口をつける物がジョッキからお猪口に変わった。同じタイミングで話の内容もプライベートな話題に変わり、それに応じて声も少し小さくなる。


「何してる人て言うてたっけ?」
「説明難しいんですけど…… なんか、フリーランスみたいな」
「怪しいな。大丈夫かその男」
「大丈夫ですよ」
「喧嘩したんか」
「……分かります?」
「飲み方がいつもとちゃう」
「あーあ、バレましたか」
「明日は?」
「休みです。なのでつぶれても大丈夫です」
「大丈夫なことあるかい。誰が連れて帰んねん」
「いくつやと思ってるんですか。つぶれようがなんだろうがひとりで帰りますよ」


大吾の周りを取り囲む女の子たちは、せいぜ二十代前半の乳飲み子だ。そんなかわいい彼女らが酔ってつぶれてしまえば我先にと欲まみれの男が群がるだろう。
私はそんなダサい飲み方をしていい年齢ではなくなったし、飲み会の後にひとりで帰ることができない人間に良い仕事ができるはずないと、負け惜しみを心の中で呟いてみる。


「そろそろ店変えようと思うんですが、二次会来られる人どれくらいいてます?」


幹事の一声でどのテーブルもざわめき出した。
大吾はなんて答えたのだろう。結局一言も会話を交わせないまま一次会が終了してしまった。
何度かメッセージを確認したが、もちろん既読のマークは付かない。


「名字、行くか?」
「はい、行きます」
「ん、伝えとくわ」
「ありがとうございます」


先輩が幹事に伝えに行ってくれている間にリップを一瞬で直して、軽いため息をつく。
アルコールに浸かった視界でぼんやり空を見つめていると、右肩を二度叩かれた。


「名字さん、お話があります」


うわ、永見大吾だ。言うなればそんな表情をしたのだと思う。
大吾を取り巻いていた女の子たちは化粧直しに立ったらしく、鎖を解かれた彼の手は自由そのもので、私の肩に触れたまま離さなかった。


「二次会行かはるんですか?」
「はい、行く予定です」
「僕、今日携帯忘れちゃって」
「え!?」


予想以上に大きな声が出てしまい私たちより周りが驚いていて、一瞥されたものの特にこちらを気にするような素振りは見られなかった。
大吾の目を見ると、黒目の奥にごめん、と確実に書いてあって、怒りの炎が弱いそよ風で跡形もなく消えてしまった。
彼はそのまま隣に座り、私にしか聞こえない声で話し始めた。


「だいぶ飲んだ?」
「ふつう。でも記憶あるし、大吾の言うてることもちゃんと分かってる」
「帰らへん?」
「え?」
「帰ろうよ、名前」
「でも、今言いに行ってもろてるから、」
「あー名字さん、だいぶ飲んだんですねえ!」
「え?」
「べろべろやないですかあ!」
「はい?」


化粧をばっちり直してきた若い子たちが戻ってきた。先ほどまで借りてきた猫みたいに大人しかった永見大吾が私の隣で騒いでいるのを見て、いろんな疑問が浮かんだみたいで無言で突っ立っている。
これ、酔ったふりした方がいいのか?
大吾が先輩に「僕、名字さん送ります」と少ない言葉で伝え、不審に思った先輩が私の元へやってきた。


「そんな酔うたんか?」
「忙しかったからですかね、意外と回ったかもです」
「つぶれてもひとりで帰るんちゃうかったか?」
「ふ、ダサいですね今の私」
「……永見はー、その、あれか」
「はい?」
「フリーランスか?」


きっと彼氏なのか、と聞きたかったのだろう。人目があるからバレないように、しかし私に伝わる言葉を選ぼうとした結果チョイスしたのが「フリーランス」で、絶妙すぎて噴き出してしまった。
私が二回頷くと、少しほっとした顔に戻ってさっさと帰れ、とあしらわれた。


「立てますか?」
「立てます」
「歩けますか?」
「歩けます」


酔っている人間の物言いではないが、一応演技をした。
大吾の隣にいた彼女らは違う男性にターゲットを変えたみたいで、私たちのことなんて目にも留めていなかった。
二次会へ向かう人たちとは反対方向の道を足取り軽く歩く。結局私は、ひとりでもなんとかなる女なのだ。


「大吾」
「名前」


ふたつの名前が合わさった不協和音が、終わりかけの夏夜に溶ける。
大吾と目を合わせるには少しコツがいるが、今夜はいつもより難しい。


「ごめん」
「……私のセリフよ。昨日ごめんね」
「ううん、よりによって今日携帯忘れるとかありえへん。不安やったよな」
「全然返ってけえへんからめっちゃ怒ってんかと思った。しかも今日に限って全然会えへんかったし」
「ごめんな。飲みの席も嫌やったやろ」
「まああれは…… しゃあないわ。あなた断れへんやろ」
「名前の目線怖かった」
「人のせいにすな」


昨日ぶりに話せた嬉しさに任せて、大きな彼に肩を軽くぶつけてみた。
いて、と言いつつ彼の方が一枚上手だったみたいで、私のぶつかりを利用して腕をからめてきた。私の左手は、もう彼の物だ。


「あ、名前のコンタクトの洗浄液がそろそろなくなんねん」
「じゃー買ってから大吾んち行こか」
「あとなんか要るもんない?」
「んー」


酔ったままドラッグストアで買い物して、結局要らないお菓子を二つくらい買ってしまって、昨日のあの喧嘩は夢だったんだろうなと思えてしまうほどだった。
見慣れた景色、見慣れた看板、見慣れた信号機と自動販売機、数えきれないほど通った彼のマンションに着いた途端肩の荷が下りた。


「ただいまぁ」
「あー疲れた」
「名前」
「んー?」
「はい」


電気をつけた瞬間、大吾が私の名前を呼んだ。
振り向くと両手を広げた彼が黙って私を見据えていて、酔っているにもかかわらず意外と冷静だった私はちょっと待ってね、と軽く彼をあしらった。つもりだった。


「おりゃっ」
「わっ何すんの!」
「名前がそういうつもりなら僕から行く」
「ちゃうって、私が待ってって言うたんはカーテン! 閉めんと!」
「見えへんやろ」
「見えるって!」
「ちょっと黙って。昨日もこうやってできひんかってんからちゃんと責任取って」


やわらかなキャラメル色に染まった部屋の中で、私たちは大きな窓の傍でひとつの影になった。
外ではそろそろ夜も深まって、薄明かりの中何度も蠢き重なり合うふたつの影のこと、どうか誰も気付かないでほしい。そう願うこと以外できないほど、この状況に酔っていたかった。


「……ほんまにばれるよ」
「影だけで?」
「こんな大きい人そうおれへんし」
「あ、確かに」
「アホなんかな」
「まあええか。もっかい。こっち向いて」


こら、何を黙って彼を見上げているんだ、私。
用心しないと、ぜんぶ食べられちゃうぞ。















らう無垢







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