夢の浅瀬で逢いましょう続編







“16:00会議室C”


用件未満の単語のみのメッセージがおもむろに私のスマホに届いた。
相手は職場でほとんど会話を交わすことがないあの人からで、この文字数の少なさから緊急を要するものだと判断した私は、進めていた仕事を一旦取りやめて会議室Cの使用予約を取った。


「名字さん、会議室何に使うんですか?」
「ニッ社の単独の諸々決めるの今日やったん、すっかり忘れててさ」
「そっか、じゃあ時間かかりそうですね。明日でいいんで新しいリーフレットの概要確認してもらえませんか?」
「うん、もちろん。ごめんね」


なんか今日、忙しくなりそう。
長年の社会人生活から来る嫌な予感が働き、普段は控えているカフェインを摂取せねばとお昼休憩にコーヒーを買いに行った。その先で偶然会った若手の芸人たちに声をかけられた。が、いつもと様子が違う。


「名字さん、お疲れ様です」
「お疲れ。空き時間?」
「はい。 ……あ、めずらし、コーヒーですか? いつも紅茶っすよね」
「うん。いつも飲んでるやつノンカフェインで、今日は忙しくなりそうやからカフェイン摂取せななと思って」
「あーなるほど」


コーヒーを買うついでにその子たちが買う予定だった物も一緒に払ってあげて、戻りのエレベーター内で変なことを聞かれた。


「いつも使ってるマグカップあるやないすか」
「うん」
「あれ、今ありますか?」
「や、今家に持って帰って漂白中なんよ」
「あーそっか。あれかわいいなって思ってて、今度彼女にプレゼントしよかなって考えてたんですよ」
「あれ非売品なんよ。前勤めてた会社のノベルティなんやけど、意外と長持ちしてんのよね」
「そうなんすね」


変な間が空いた。
何か話さなきゃと思って話題を考えているとあっというまに五階に着いて、右に左に分かれていった。
私が片手にコーヒーを持っている姿は周りにとってはかなりの違和感みたいで、さっきの芸人たちと同じようなリアクションを所々でされた。
時間が経つのは一瞬で、彼との約束の時間が刻々と迫って来る。


「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「お時間どれくらい頂けますか?」
「十八時までなら」
「承知しました。ではどうぞ」


ドアが閉まる無機質な音を二人で聞く。
椅子を引く音、何の意味も持たない書類を整える音、すべてが無機質だった。
彼がテーブルの下、植え込みの間、天井やティッシュなどをぐるりと見渡した。


「なんもないよな」
「ないやろ。私が予約したし」
「はあ……」
「どないしたん急に、びっくりした」
「な、今俺んちにあるマグカップてどこで買うた?」
「え? どこやっけ、一緒に買いに行ったような気すんねんけど」
「あー、京都で買うた黒いやつじゃない方」
「あそうそう京都…… え? 他にマグカップなんかあった?」
「あのベージュっぽい、青のグラデーション入ってるやつ」
「ああ、あれ? 前の会社のノベルティやけど」


会議が始まって早々の議題は、私がどんなマグカップを持っているかだった。
答えを導き出した彼は会議中とは思えないほど大きくうなだれ、深いため息をついた。


「何」
「やってもうた……」
「何をよ」


両手で顔を隠した皓平くんは目元だけ出して、私の顔をちらりと見た。
私よりはるかに背が高い彼の上目遣いは貴重すぎて、写真を撮って記録をしたい気分だったが、どうやらそういったような状況ではないらしい。


「おとつい、ゲーム配信したやんか」
「うん」
「近くに飲み物置いて配信したかったからさ」
「うん」
「探しててんけどコップが名前のマグカップしかなくて」
「そんなわけないやろ」
「今はつっこまんでええから聞いてくれ」
「はいはい、で?」


彼は持ち込んだ水を、私はあとすこしで空になるコーヒーを同じタイミングで飲みこみ、彼の言葉を待った。本日何度目かのため息をつき、呼吸を整えて彼は話し始めた。


「マグカップがな」
「うん」
「映ってたみたいで」
「……え?」
「配信に」
「うん」
「今マンゲキにおる全芸人に問いつめられてる」
「え、何を……」
「あのマグカップ、名字さんも持ってませんでしたかって」
「え!?」


事の重大さをようやく理解した私は腹の底の底から驚愕の声が出てしまい、もう遅いが反射で口元を覆った。
二人ともなぜか同時にドアの方を確認して、しばしの沈黙を作り出した。


「なんて言うたん?」
「同じとこで買うたんちゃうかって言うた」
「バカ……」
「ノベルティなんか思いつかへんやん」
「言うたよ、これノベルティなんやでって」
「うそ、そうやっけ?」
「うん」
「……どないしよ」


なるほど、これは緊急を要するわけだ。
これを踏まえると、お昼にエレベーターで聞かれた事も腑に落ちる。今日の楽屋内がこの話題で持ちきりだったことも、容易に想像がついた。


「私があげたことにするとか」
「使いさしを? きしょすぎやろ、あげる方も貰う方も」
「確かにきしょい」
「前の会社に友達がおった」
「……それがいっちゃん自然やんね」
「もしくは」
「ん?」
「公言する」


七秒間彼と見つめ合ったが、適切な返答が出てこず喉元でつまったまま動かなかった。
当の本人は「これが一番違和感ないんちゃうか」と椅子の背もたれに背中をつけ、天井を仰いでいる。先ほどの焦りとは裏腹に妙に落ち着いていて、冷や汗をかいている私の方がだんだん異常者に思えてきた。


「言うた方がやりやすくなるって」
「何言うてんのよ今さら」
「自慢せえよ、俺が彼氏やって」
「しません」
「俺も自慢したい、名前が彼女ってこと」
「やめてよ、殺される」
「誰に」
「あなたのファンに」
「名前が先に死ぬなんてありえへん、俺が守る」
「……はあ」
「このセリフの後にため息はきついわ」


私をまっすぐ見つめる彼、辻皓平。彼は自分の魅力に気づいてはいるのだろうが、その魅力が周りにどんな影響を与え、どんな反響が出るかまでは思い巡らすことはできない。
私が一から十まで丁寧に説明してもきっと受け取ってはくれないだろうし、ふわっとした「守る」みたいな抽象的な言葉で私を安心させようとする。私に被害が及んだら、傷つくのは彼なのに。


「とにかく、前の会社に共通の知人がおったってことにしよ」
「うーん」
「何が不服なん」
「せっかく自然に言える流れやったのになあ、って」
「またそういう時が来るよ」






名前の仕事に向かう姿勢は尊敬するし、サポートしてもらっている側としては彼女のプロ意識に骨の髄まで助けられている。演者を支える社員として、芸人のパートナーとして、あまりにできすぎている名前のことを心配してしまうのは俺の勝手なエゴだと分かっていた。
俺のかすかな希望は、秋の風にさらわれてしまったようだ。


「意外と時間経ってた。もうすぐ十八時」
「……すまんな、時間作ってもろて」
「いいよ。皓平くんが思う通り、この話題は緊急性が高かったし」


架空の書類を小脇に抱えた名前と、胸の真ん中あたりに穴が空いた俺は一緒に会議室を出た。
彼女が立つ側から「うわっ」と低い声が聞こえ目線を振ると、そこには普段着の阪本が立っていて俺と名前の組み合わせに心底驚いているようだった。


「お疲れ様です。え、めずいっすねこの組み合わせ」
「お疲れ。何してんおまえ」
「たばこっす」
「ふーん」
「あ、名字さんこないだのラジオの件なんですけど」
「ああ、あれね。すみませんもうちょっとお待ちいただけますか? まだ先方から連絡なくて」
「全然っす。急いでないんで」


何やこの普段はありえへんメンバーでの雑談。三人とも違和感を抱いていることを表には出さず、しかしその不思議な味をしっかり噛み締めているこの感覚。
ネタにできそうやな、とどこまでもしみついた芸人根性に苦笑を我慢しつつ、二人の会話を聞いていた。


「二人で何してはったんです?」
「単独の打ち合わせやで」
「ふたりでですか?」
「ケツ今日しんどそやったから誘わんかってん」
「そっすか……」


阪本があの話題を知らないわけがない。たぶんこいつの頭の中には俺と名前の間にマグカップが見えているはずだ。
嘘が下手なこの青髭男の目力は、何も言葉を発していないのに考えていることが手に取るように分かってしまう。


「じゃあ単独の話はまたおいおい進めていく感じで」
「はい、お願いします」
「そうそう、皓平くんの、…………」
「…………」
「…………」


二年とちょっと、なんならもうすぐ三年、彼女は職場で隙を見せるなんてことは絶対にしなかった。
今みたいにうっかり下の名前をこぼしてしまうケアレスミスなんてもってのほかだ。社内では俺とだけ少し厚い壁を作り、たまに呼ばれる「辻さん」という声色ですらうっすら氷が張ってあるような、そんな鉄壁の彼女が今、俺の目の前で顔を真っ赤にして瞳をうるませている。


「え、やっぱ辻さんと名字さん……!」
「阪本、落ち着け」
「落ち着いてられるわけないでしょ、みんな知ってはるんすか!?」
「阪本」
「いつからですか!?」
「阪本」
「てか俺が名字さんええなって言うてた時どんな気持ちやったんですか!?」
「阪本、たばこ吸うた後話あるから俺んとこ来い」


喫煙所に向かって背中を押す俺は、たぶん誤魔化せていなかったはずだ。彼女との関係が世に晒されて、彼女のこんなかわいい表情を見ることができて、目尻と頬の緩みが止まらない。
二人きりになって彼女を見つめると、目があった瞬間小さくしゃがんでしまった。


「名前?」
「やってもうた……」
「やってもうたな」
「バレてる? バレてるよね?」
「かもなあ」
「ごめん、皓平くん」
「ええやん、ほんまのことねんから」
「にしてもバレ方がアホすぎる……」
「うん、アホすぎてかわいかった」


赤い顔をして涙をためてにらんでも逆効果ということ、完璧な彼女はこれから知ることになるだろう。
居ても立っても居られなくなった俺はパニック状態の彼女を会議室に呼び戻し、火照った小さな頬を両手で包んだ。


「あかん」
「ごめん」
「や、ちゃう。なんやこれ、めっちゃ嬉しい」
「なんでやねん……」
「名前かわいすぎる」
「ええて」
「キスしてい?」
「だめ」


思った通りの言葉が返ってきた。名前がだめって言うことなんか知っている。その「だめ」が聞きたくてわざといじわるをした。
いつもより唇の温度が五度くらい高くて、舌の温度は七度くらい高い。


「もうさ」
「……なに」
「今日一緒に帰ってまおか」
「帰らへん」
「名前」
「はい」
「俺の名前呼んで、いつもみたいに」


そう言うと名前はあのつんとした表情で、「いや」とそっぽを向く。
配信であえて使ったマグカップを周りの芸人が気付き、劇場内に噂が走ったまでは俺の作戦通り。名前はどこまでも真面目で、俺を守ろうとする姿勢は絶対に崩さなかった。
このままこの関係が何も変わらず終わってしまうと諦めかけていたその時、勝利の女神が俺に微笑み、最高速度の神風が吹いた。
というわけなんだ。ごめん名前、ちょっとだけ我慢してくれ。今だけは、どこまでも君を振り回していたい。
















紳士ら、玉砕せよ
(これで堂々と君を守る騎士でいられる)







top