「先シャワー浴びてくる?」


トレンディドラマでしか聞いたことない冗談みたいにくさいセリフを発したのは、何を隠そうこの僕だ。
その言葉に君は、


「いや、湯船浸かるわ」


と、仕事終わりのおっさんみたいなセリフで僕のトレンディを一蹴した。雨で冷え切った自らの体を抱きしめて。


「わ、リファのドライヤーあるやん借りよっと」
「名前」
「シャンプーたちどれにしよかな〜」
「名前」
「永見もなんか頼む?」


艶やかな髪の毛は水気を含んでところどころ束になっていて、白い肌は窓の外で降り続く豪雨によってどんどん青くなっていく。
この状況で動揺もせず普段の彼女でいられるのが彼女らしいと言えばそうなるが、僕だけ鼓動を速めている事実が気に食わなかった。


「いや、僕はええわ」
「ふーん」
「どれどれ要るん? 頼んどいたるから早よ風呂入ってき」
「うん、ありがと」


七分前にコンビニで買ったスキンケアセットと袋に入ったままの下着を持って、名前は浴室へ向かった。
今の僕はどの感覚器官も過敏になっているので、ドアの外の物音も余裕で聞き取れた。趣味の悪い色のドアを開けると、籠に入ったお風呂セットとドライヤー、大きな撮影現場でたまに見かけるスチーマーが黙って鎮座してあった。


「名前」
「ん?」
「シャンプーたち来た」
「ありがとー、置いといて」


洗面所越しに名前のへたくそな鼻歌が聞こえて辟易した。そんな僕を迎えた安っぽい灯りと安っぽいカーテン、妙に大きなテレビ、装飾過多なベッド周りに、さらに辟易した。
大きなため息を吐き、三時間前の出来事をゆっくり思い返す。





「永見ひさしぶり、元気やった?」


大学の同期の名前と会う約束をしたのは半月前。仕事で大阪に行く用事があるから飲みに行こう、と誘いが来たのが始まりだった。
会うのは一年とちょっとぶりで、さぞ積もり積もった話があるのだろうと半分期待し、半分はらはらして臨んだのだが、変わっていたのは彼女の役職くらいで惚れた腫れたの話は何ひとつ出てこなかった。


「永見も私に負けじと何もないやん」
「僕はええの」
「なんでやねん」
「そういや何時の電車やっけ?」
「くじごじゅっぷん」
「雨大丈夫なん?」
「だいじょぶやろー」


結論から言うと、全然大丈夫などではなかった。
朝から降っていた長雨は時間が経つにつれどんどん妖しく発達したようで、僕たちを含む多くの人間の足を駅手前で止めてしまった。
駅員に詰め寄るおじさんを横目に、彼女が乗るはずだった電車は運休になってしまい、彼女の中のアルコールは一瞬で外に蒸発してしまっていた。


「永見の電車どれ?」
「僕のは……」
「私に構わず帰りや? 明日せっかく休みねんから」


大阪に一泊することが決まってしまった名前はありとあらゆるビジネスホテルに電話をしていたが、基本的につながらない、つながったとしても満室という絶望的な状況下にあった。
そんな友人を尻目にひとり帰路につけるほど僕は軽薄に育ってはいなかったので、慌ただしい街並みを、彼女を、冷静に眺めていた。


「僕になんかできることある?」
「ある、頼んで良い? そこのコンビニでクレンジングと化粧水たち買ってきて。セットになっとるやつ。種類はなんでもいい。お金は後で出す」
「変なん買うてきても文句言わんといてや?」
「言わん言わん、あっ、あとさあ!」
「何や」
「パンツ! Mならなんでもいい!」


こういう時に限って店員は若い女性で、商品と僕の顔を交互に見つめる強い視線と、心の声の「キモッ」をきちんと受け止め名前のところへ戻った。
未だ電話一本で格闘している名前を遠目で見ると口元が緩んで、しばらく放置してみようと考えた矢先だった。近くを通ったタクシーが水飛沫を上げ、彼女の全身を叩きつけた。
恥ずかしい思いをさせられたと文句のひとつくらい言ってやろうと思っていたが、不憫な彼女を見てその思いつきはゴミ箱に捨てた。


「……つめた」
「なんやねん、あのタクシー」
「永見あかん、ホテル見つからへん」
「そうか、」


僕は、いやに冷静だった。騒がしい駅前も、少しだけ離れた歓楽街に落ちるネオンの蛍光灯の色も、気味悪いほどクリアに理解できていた。
焦りと寒さから来る震えでしゃがみ込んでしまった名前の手を引いて、僕は一世一代の決断をした。


「え、どこ行くん?」
「入ろう」


ギラギラ輝く桃色のお城に突き進み、一室だけ空いている部屋を選んだ。名前は僕の男気を理解してくれたようで、何も言わずに部屋まで着いてきてくれた。
寸分狂わず“そういうこと”を目的とする宿泊施設、または休憩施設ならではのきな臭いごてごてしたカラーリングの部屋に通され、「うわ」、と声が漏れそうだったところを彼女の歓喜に満ちた声がかき消した。


「わー広い部屋!」


名前はコートをハンガーに掛けるや否や、テーブルに置いてある貸出欄のファイルに目を通し始めた。
そして、冒頭のあの冗談みたいなセリフがラブホテルの一室を震わせるのだった。





「お先でした」


そこには十年以上前の幼い名前がいて、似合わないバスローブを纏ったまま冷蔵庫を開いた。
ミネラルウォーターで乾きを潤し、僕の視線に気付いたのか瞳の奥に疑問が宿ったようだった。


「何?」
「や、別に」
「なんやねん、言いよ」
「大したことじゃないんやけど…… なんか、すっぴん見るの久々やなあと思って」
「えー? 永見にすっぴん見せたことあるっけ?」
「月曜の一限目は大体すっぴんやったやん」
「そやったわ」


スキンケアを軽く洗面所で済ませたみたいで、何やら高そうなドライヤーを前にテンションが上がったまま髪の毛を乾かし始めた。
自宅に帰れないこと、タクシーに洋服を水浸しにされたこと、全部忘れてしまったのかと心配になってしまうほど上機嫌で、こういう人が近くにいるとなんとなく幸せなんだろうなと気色悪い部屋で思いを巡らせた。


「僕も入ってくる」
「うん。あっ無駄に泡風呂にしてる」
「ほんまに無駄やな」
「無駄は大事よ。ゆっくりしといで」


スチームを浴びながらドライヤーをする彼女を見て、何をそんなに生き急ぐことがあるのかとため息が出る思いだった。
あたたかくて甘い香りのするお湯が肌に絡みつき、冷えた体を包み込む。僕もお風呂に入れば自然と鼻歌がついて出てくるのかと思ったが、全然そんな気分になれなかった。
なぜなら僕は今晩、名前と一夜を明かすからだ。ぎらついたホテルで、昔、好きだった人と。
三十路を過ぎてこんなことでドギマギしてしまう自分が情けない。


「永見」
「うわっ、びっくりした」
「服掛けとくよ?」
「あ、ありがとう」


別にドアを開けられたわけでも裸を見られたわけでもない。扉越しの彼女の声だけで過剰に反応してしまうのは、湯船から漂うこのはちみつの香りのせいだ。
清潔なバスローブのせいで、豆球が切れぎれになっている間接照明のせいで、ベッドの上でのんきにチョコレートを食べている名前のせいだ。


「お菓子頼んじゃった」
「よう食べるな」
「永見も食べようよ」


僕は髪の毛が短いので、呼吸を整えるくらいの時間しか稼げず彼女の隣に行くことになった。
大きなベッドの端と端で、真ん中にチョコレートを置いて名前がチョイスした羊たちの沈黙が流れているのを黙って僕は眺めた。


「なんでこれ?」
「観たくなった」
「グロ。そら彼氏できんわ」
「放っといてください」
「恋愛映画とか観るん?」
「うーん、興味ない」
「かわいくな」


「なんか」
「うん」
「こういうとこ来るの久しぶり」
「僕も」
「恋人以外と来るのは初めて」
「僕も」
「えー?」
「えーって何」
「芸人なのに?」
「芸人の前に僕は永見大吾ですけど」
「確かに私の知ってる永見はそんなことせえへんな」


「ショウタから連絡とかある?」
「あるわけないやん、別れたの何年前やと思ってんの」
「もう十年くらい経つ?」
「そやね」
「結婚すると思っててんけどなあ。大学の中でも群抜いてお似合いやったし」
「私もそう思ってたよー」
「別れた後、何人に言い寄られた?」
「一週間で八人」
「やば」
「男が死体に群がるハイエナに見えたよ。結局その中の誰とも付き合わへんかったし」
「もしさ、」
「ん?」
「僕があの時名前に言い寄る中の一人やったらどうしてた?」
「余裕で振ってた」
「生意気な……」


「ここ入るとこさあ」
「うん」
「誰にも見られてなかったらいいね」
「言うな、考えへんようにしてたんやから」
「もし撮られてたらもういっそのこと結婚しちゃおうか」
「そういうことを平気で言うなよ」
「ふふ、自分で言うといてなんやけどさ」
「うん」
「永見名前って変じゃね? 響きが」
「……変やな」


「私マイ・インターンって映画好きなんやけど」
「うん」
「観たことある?」
「いや、ない」
「夜のホテルでベッドの上で映画観ながらお互いの話をするシーンがあるねん」
「うん」
「今の私たち、まさにそれ。あのシーン大好き」
「誰が出てるやつ?」
「アン・ハサウェイとロバート・デ・ニーロ」
「僕デニーロ?」
「私ハサウェイ」
「どこの誰の何がハサウェイや」
「あっはっは」


「……ねむ」
「そろそろ寝る?」
「うん」
「明日何時に出る?」
「く、いや、んー…… じゅうじ」
「ん、分かった」
「さむ」


お腹いっぱいになって、たくさん笑って、喋り疲れて、歯を磨いて寝る準備を整えてしまうと眠くなってしまったみたいで、名前は掛け布団の下に潜り込んでしまった。
僕も眠りの体勢に入り、枕元にある照明をいじって部屋を少しだけ暗くすると、目を閉じていたはずの名前と目が合った。


「おやすみ」
「おやすみ」
「永見」
「ん?」
「ありがとね」
「何が?」
「ぜんぶ」
「ぜんぶ?」
「今日、永見と飲んでてよかった」


眠気で掠れた彼女の声はいつも聞くそれとはまた違っていて、昔抱いていた、というか、今も心根に残っている熟れきった感情が疼いてしまう。


「なに」
「別に」
「めがねないから見えへんのちゃうん」
「見えとるよ、近いから」
「ええ? なんか嫌やなあ」


薄暗くても、めがねがなくても、彼女に焦点を合わせることなんて酷く容易だった。
重たいだけの高級ドライヤーだと思っていたが、弾むような緑の黒髪が僕の指をすべってはほどけていく。
髪の毛を触られて、名前は眠気が増したようだった。僕はこんなにも、君を見つめていたいのに。


「寝よ、永見」
「名前」
「ん?」
「……老けたな」
「うざ。お互い様やろそんなん」
「でも年重ねようが名前は名前やん」
「どういうことよ」
「名前のこと好きにならん男はおらんから」
「……何それ、訳分からん」


彼女は美しいだけでなく利発的な女性だ。
僕の言葉と声色の温度を嗅ぎ取って、ベッドの上で僕に背を向けた。僕が何を言おうとしているか分かってしまったのだろう。
その柔らかな拒否を、僕の身勝手な好意で彼女の身体を両手で包んだ。


「え、永見って意外とそういう人?」
「違う」
「私がそういうのに流される女やと思ってる?」
「ありえへん」
「そう、ありえへんねん」


僕の腕の中でもう一度体を半回転させ、あの頃の幼い彼女が僕を見つめる。
襟元からのぞく華奢な鎖骨とか、ゼリーで作られた唇とか、そんな何気ない生きた物体が僕の心臓のある部分に痛みをもたらす。


「僕が名前と仲良くなった時は、もうショウタの物やったから」
「そうやね」
「僕が入る隙間もなかったし、名前はそんな男嫌いやろなとも思って」
「よく分かってらっしゃる」
「別れた後も、焦って告白せんでよかった」
「振られてたから?」
「うん」
「…………」
「なんか言うてや」
「何なん永見、私としたいん?」


あまりにも直接的でストレートな質問に「いやいやいやいや」と散弾銃のように彼女に否定の弾を浴びせてしまったが、こんな場所でこんなことを言う男に対して疑問を抱くのは至極真っ当なことであり、むしろ僕の方が異端だ。
透き通った虹彩で僕を見つめる彼女に何もかも暴かれて、恋とか愛とか呼ばれる彼女への気持ちはもう限界値まで達していた。


「僕もう三十過ぎてんねん」
「うん、私も」
「一応芸能人になって、きれいな人たくさん見てきてん」
「うん」
「学生時代よりはそれなりに恋愛もしてきたし」
「うん」
「ホテル来るのも初めてとちゃうねん」
「あ、ここ来たことあるん?」
「こういうホテルに来るのが初めてじゃないってことやアホ」
「ああそうですか」


十代二十代の獣と同等の欲を持て余している時ならまだしも、そういう煩悩を手懐けることができる年齢になったのに、彼女の前では平気で足元がふらつく。
脳みそから発せられる、非合法の薬に浸かったようなゆるい快楽とひりつく苦しみから逃れたくて、大人になった僕は彼女に青くさい欲をぶつけてしまうことになる。


「好きです」
「うそや」
「うそちゃう。付き合ってくれたら、その…… うれしいなって」
「えーーーー?」
「こんなとこで言われても信じられへんと思うけど」
「うん、全く信じられへん」
「や、いい。今は信じてもらおうとか思ってへんから、また近いうち会って。いや、会いに行くから」
「ん? うん」
「疲れたよな、もう寝よう」


我ながらかなり格好悪い告白をしたということは重々承知していて、名前のリアクションも頷けるものだった。こんな伝え方しかできないことが情けなくて、寒い夜のはずなのに体が火照って汗ばむ感覚がある。
自分で口走ったことなのにこの空気を終わらせたくて、眠気なんかとうの昔に吹っ飛んでいたが名前に寝るよう促した。


「自分だけ言いたいこと言うてすっきりして終わり?」
「名前からなんかあるん?」
「うーん…… ない」
「ないんかい」
「でもさすがに付き合ってないのにホテル行って流れでやっちゃって付き合いましたはださすぎるよね」
「やってへんやん」
「馴れ初め言うて“付き合う前にホテル行って同じベッドで寝たけど何もありませんでした”って内容信じてくれる人何人おると思う?」
「……ゼロやな」
「ね。だから改めてまた今度ね」
「今度?」
「うん。また今度、外でちゃんと私のこと口説いて」


おやすみ。
そう言って彼女は僕の腕の中で十秒で落ちてしまった。疲れていたのか、僕のことを少しくらいは信用してくれているのか、はたまたその両方か、静かな寝息だけが僕の鼓膜を震わせた。
時刻はまもなく一時。ピンク色の部屋に、長年思いを募らせた好きな人とベッドでふたりきり。腕の中で小さくまとまる彼女と、僕らから漂うはちみつの香りでどうにかなってしまいそうだ。
大阪のラブホテルの一室で、世界で一番長くてつらい我慢大会が、今始まる。
















おやすみ水曜日







top