「相談があるんです」


その言葉を放ってしまった理由は、後で考えたらいくつか思いついた。
うちの会社は制服という概念がない中、見かけるたびすてきな服で出勤されていて、季節が変わるたびに纏う香りも変わって、元ヘアメイクという職業柄、ヘアスタイルやメイク、まつげの一本一本まで美しい。
私は、あなたに聞きたいことがたくさんあるんです。


「名前さんて、東京異動になって何年目になるんでしたっけ?」
「えっと…… 今年で四年目? やったかな?」
「私らが東京進出するかどうか悩んでた時、名前さんがこっちにおるから安心して東京来れたんです」
「うそ、うれしい。ありがとう」


間接照明とジャズピアノで作られた柔らかくさわやかなお店で、私たちは乾杯した。
名前さんは年齢も年齢だから、と今年からビールをやめてワインに移行したらしい。
ステムを傾ける右手の人差し指には、大阪の芸人なら誰もが見知っているゴールドリングがはめられている。


「仕事は順調そやけど、どう? 体調とか」
「めっちゃ元気ですよ、ほら!」
「身体もやけど、こころもね。無理してない?」
「はい平気ですっ」
「……まあ、荒川の言葉を信じるわ」
「なんでですか! 嘘言うてませんよ?」


仕事終わりということもあって思わず声が大きくなってしまい、すぐに口に手を当てた。
その様子を、名前さんも同じように口元に手を当てて笑う。


「今日の香水、何の香りですか?」
「今日は緑茶」
「え、そんなのあるんですね」
「珍しいやろ? アトマイザー持ってるからあとでハンカチにつけたげる」
「わーありがとうございます!」
「ネイルかわいいやん」
「でしょー? めっちゃお気に入りなんです」
「前見たのと雰囲気違っていいね。大人っぽくて似合ってる」
「覚えてくれてたんですね、前のネイル」
「うん、前のもかわいかったから覚えてる」
「……名前さんて、」
「ん?」
「完璧ですよね、いつ見ても」


かちっと目が合って、たった一瞬なのに脳を取り出しナイフで半分に切られ、私の思考を一つひとつ覗かれたような、そんな感覚に陥った。
しかもその感覚は、当たらずとも遠からずなのだ。


「恋の悩み?」


見透かされた私は耳の先まで熱を持ち、言葉を探している間に店員さんが料理を運んで来てくれて胸を撫で下ろした。
色とりどりの皿が並び、空間は私たちだけになったが、私が口を開くまで名前さんは話題を催促することなく料理を口に運んだ。


「好きな人が、いて」
「あら、いいやないの」
「でもその人彼女がいるんです」
「あ〜〜〜〜……」
「好きになった後に知ってしまって」
「なるほどね」
「諦めなくちゃいけないのに、気持ちが消えなくて」
「そっかあ……」


タートルネックのブラックニットは、彼女の華奢なパーツをより鮮明に浮き上がらせる。
私は仕事終わりにジムへ行く努力家の部分を知っているし、少しでも寝ていたい気持ちを抑えて野菜を中心にしたお弁当を持ってきていることも知っている。
磨かれた大きな窓に映る“二人”を見て、心臓の奥底がつんと痛くなった。


「遠距離恋愛ですよね、名前さん」
「うん」
「しんどくないですか?」
「もう四年も経つと麻痺してるんかもね」
「東京ってかっこいい男の人多いやないですか。揺らぎません?」
「それが全くないねん」
「え」
「私、彼しか男として見えんようにできてんねん、きっと」


名前さんの彼は、名前さんと大阪時代から恋人関係で、距離が離れても絆が絶えることなく続いている。若手中の若手だった私が年上の先輩の恋愛について詮索するなんて畏れ多すぎて、運良く耳に入ってくる噂話をおかずにひそかに胸をときめかせていた。
私の足りない脳みそで名前さんの恋人像を作り上げていたのだが、東京進出という晴れ舞台からたった半月で、その恋人が明るみになる。



「え……?」
「なに、知らなかったの?」
「結構有名だよね。大阪なんか二人のホームだから全員知ってるんだと思ってたよ」



ショックというより、羞恥に近い感情が全身を蝕んだ。
「推し」と言葉を変えて彼への好意を表現していたが、その推しと憧れの先輩がまさか恋人同士だったなんて。
噂が本当なら、私がまだ芸人として活躍する前から永見さんと名前さんは付き合っていて、永見さんは本当に本当に名前さんのことが大好きで仕方ないらしい。
細い指に飾られた金色の指輪が静かに光って、間抜けな私は涙も出ない。


「離れてると、変な想像したりしません?」
「たとえば?」
「……女性問題とか」
「そうねえ、考えるときりがないからね」
「名前さんの彼氏なんやったら、きっとかっこよくてモテはるやろし」
「そうなのよ、かっこいいのよ」
「彼にその気がなくても、鬱陶しいバカな女がへらへら近付いてきたらやでしょ?」


私のぐらぐらした情緒に、名前さんはきょとんとした顔でこちらを見つめる。瞳の中に金の砂粒がたくさん入っていて、宝石みたいだ。
取り乱したことを謝罪すると、目を伏せて残りのワインを一口で飲み干した。


「すっごい嫌よ」
「えっ」
「私の彼に近づくな! って思うよ」
「あ、え? 名前さんでもそう思うんですか……?」
「え? 私ってなんかすごい人に見えてんの?」
「や、なんかその、そんなザコ女なんか眼中になさそうやからびっくりして……」
「澄ました顔して全然唇噛んでる」
「意外すぎます……」
「てかね」
「はい?」
「女の子が悪いというより、そこで何かあったら確実に彼の過失なんよね」
「はい……」
「やらかした時は気の迷いやろうが酒入ってようが一生他人以下でジ・エンドって決めてるし、彼にもそう言うてるから」
「え!?」


あはは、と軽く笑い、ドリンクメニューを眺める名前さん。そんな姿でさえも、私の心音を速めてしまう。
そして、音と共にちりっと火花が散るような痛みを伴う。


「わたしも、名前さんみたいに強くなりたいです」
「そうか、強くなりたいか荒川」
「はい……」
「じゃあ教えてやろう、強くなる方法を」
「んえ?」
「すみません、プレモルふたつください」


グラスが変わって、ふわふわの泡が乗っかった琥珀色のお酒がテーブルの上にふたつ。
ビールやめたんじゃなかったっけ、なんて口に出すのは野暮というもので、呆気に取られたまま名前さんの喉にビールが流れていくのをただ見つめていた。


「荒川」
「はい」
「いっぱい泣きなね」
「え?」
「いっぱい泣いて、いっぱい怒って、笑って、恥ずかしいことも恥ずかしいと思わずなんでもやりなね。それ乗り越えて飯食ったら、女は強くなる」
「いっぱい泣く、かあ……」
「失敗できる二十代の内にぜんぶ出さへんと、ださい恋愛する大人になってまうから」
「名前さん、出し切ったんですか?」
「出した出した。大きい喧嘩もたくさんしたし、別れ話になった時泣きながら荷物まとめて出てった経験もあるよ」
「うそ!?」
「あれ経験した女は強いぞ」
「その時永見さんとどう仲直りしはったんですか?」


あ、しまった。
酩酊状態なんてまだまだだと思っていたのに、思っていたことがつい言葉になってしまった。
表情に出さずに慌てていると、名前さんは顔を変えずに会話を続けてくれた。
聞こえてなかったのかな、と名前さんの声を聞きながら雰囲気で返事をしていると、不意に名前さんに名前を呼ばれた。


「はいっ」
「聞いてなかったやろ、私の話」
「あっ、や、その、」
「……荒川」
「はい」
「ここで私が卑屈になったら余計腹立つやろし、荒川が私を完璧やと思ってくれてる体で話すから、今から言うことよう聞いててね」
「はい……」
「大吾に本気で好きって言うてみたらええよ」


心臓と目玉が飛び出そうになった。やっぱり聞こえてたんや。
周りがこちらを一瞥するくらい、何度も頭を下げて「すみません」を繰り返した。
名前さんは「やめて、ちがう」をひたすら繰り返して、おしゃれなお店に似つかわしくない雰囲気が一瞬でできあがってしまった。


「違うねん、荒川を責めてるとかじゃなくて」
「はい」
「どうせ荒川の恋は叶わへんねんから、いっそのこと砕け散りよ」
「へ、」
「大吾はどう転んだって私を離さへんよ。気持ちぶつけてぶっ飛んだら、意外と次に行きやすなるからさ」


私は何年も名前さんに憧れ続けていたから分かるし、名前さんも、私の性格を知り尽くしているからこの言葉を送ってくれたのだろう。
不毛な恋に時間をかけたら後悔すること、期待を持たせず断言してくれたこと、何より、今日私がこの場でこの恋をあきらめようとしていたことを、きっとこうなる前から名前さんは分かっていたんだ。


「すみません」
「なんで謝んの」
「鬱陶しいバカな女やないですか、私」
「んはは、自覚あるんや?」
「ありますよお」
「ただのバカじゃなくて慎ましいバカは結構好きやで、私」
「めっちゃバカって言いますやんっ」
「泣け泣け。泣いて酒飲んで目腫れてブスになって女はきれいになんのよ」
「うええええええ」
「ハンカチ足らんくなったら私の貸したるから。な、ええ女やろ? ここの差かな、私と荒川を分けるところは」
「何この人ほんま腹立つー!」


名前さんから受け取ったハンカチは華やかな緑茶の香りがして、私はこの香りを忘れないように後でちゃっかり商品名とブランドを聞いた。
私は女で、年下で、永見さんの気持ちなんかこれっぽっちも分からない。だけど、永見さんが名前さんに恋して、手離さない理由はなんとなく分かった。


「ねえ名前さん」
「ん?」
「永見さんのどこが好きなんですか?」
「んー、おもろいとこ」
「分かります、品も良くて大人で」
「うん、そうね」
「私、やりたかったことがあるんです」
「何?」
「同じ好きな人の好きなところをお互い言い合う」
「何それ、楽しい?」
「絶対楽しいですよ! てか永見さんは名前さんのことをどうやって落としたんかがめっちゃ気になります!」
「好きな人の恋愛エピソード聞きたいって相当いってるやん、メンタルぶっ壊れてない?」
「壊れてません! はい、教えてくださいっ」
「えー?」
「さあさあさあ!」
「…………実はねー、大吾が私を落としたんじゃなくて、私が大吾を落としたんよ」
「えーーーー! うそーーーーっ!」
「あの時ね……」


名前さんは誰にも話していないであろう永見さんとの馴れ初めや、彼に対する思いを幸せそうな顔で打ち明けてくれた。
終始笑顔で、時折顔を赤らめながら語るその姿に、私は永見さんを好きになって良かったと心から思った。
だって「推し」と「推し」が一途に愛し合ってたなんて、オタクの夢でしょ?
今までもこの先もずっと口に出すことはない。私はあなたに、名前さんに、ひと目見た時からずっと
少しだけ片思いしていたのだから。










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