おやすみ水曜日続編








ベッドに入って眠る前に、必ず浮かぶ光景がある。
バスローブから覗く彼女の白い肌と、マイナスイオンか何かが多く含まれた艶のある髪と、照明に当てられたうるんだまつ毛と、それと、あのセリフ。


“いつになったら会いに来てくれるん?”


僕のスマホは彼女からの怒りを受信し、小刻みに震えた。その後にぶさいくなキャラクターが怒っているスタンプが送られてきて、思わず口元が緩む。
僕があのうさんくさいホテルの一室で放った言葉を、彼女は眠りに落ちる直前だったにもかかわらずしっかり覚えていたらしい。いや、都合が悪いとかいうわけではないし、むしろ覚えてくれていて嬉しいのだけれど。


「あれ? 約束破ろうとしてる永見くんやん」
「してへんやん。今電話いい?」
「えー? まあいいですけどー?」


憎たらしい声色で僕を小馬鹿にしたくせに、すぐに「あ、待って充電したい」と言って雑音を生んだ。
たった数秒間の待ちの体制で、僕は何度生唾を飲み込んだだろう。


「忙しそうやね」
「うん、忙しい。かなり」
「いつもテレビで見てます」
「終日オフがなかなかなくて」
「そっか、お疲れ」
「そっちにもなかなか帰る時間がないねん」
「そうだろうねえ、そうだろうよ」


わざとらしい大きなため息をついた後、ゆるい沈黙が鼓膜の中に流れた。
名前も年度始まりということもあり、小忙しいのが毎日続いている状態だと教えてくれた。昨日は自宅に着いたのが二十三時を過ぎたらしい。


「でもさー永見」
「ん?」
「私待たされるん嫌いなんよねえ」
「はい、すみません」
「そーそー、もっと気持ち込めて謝ってくれななあ」
「パワハラすなや」
「まあ永見も知ってるとおり私優しいんで、会いに来いとは言わへんから私がまたそっち行ってい?」


その言葉に悪態をつき、僕の悪態に名前がやり返す。はたから見れば煩雑に見えるそのやり取りは、僕にとっては五百点以上の気遣いだった。
好きだ、と喉元まで出かかったが、スマホから流れるバイブレーションのせいで勢いよく飲み込んでしまった。


「ごめん、仕事のキャッチ入った」
「ええよ、また連絡する」


名前の声は途切れ、僕はマネージャーからの電話に出ることになった。「すみません、夜遅くに」と申し訳なさそうに言うものだから、邪魔されたことへの恨みも少しだけ萎んだ。


「突然なんですけど、来週の土曜日に入ってた東京の特番収録…… バラシになりまして」


すみません、と謝られた後の僕の態度は、聖人君子に引けを取らない程の神々しさだっただろう。電話越しの僕の言葉にマネージャーも救われたみたいで、「土曜日から三連休作ったので、リフレッシュしてください」と天使のラッパが一人暮らしの部屋に響いた。
マネージャーからの電話が切れた瞬間名前にすぐコールしたが、あの一瞬でもう眠りに落ちたみたいで思わず「なんでやねん」とつぶやいた。


“土曜日、終日オフになった”


返事が待ち遠しかったが、ベッドの中で寝返りを打っている間に僕も眠ってしまったみたいで、彼女からは朝の八時にまたあのぶさいくなスタンプとともに返事が返ってきていた。
気になっていたカフェに行きたい。アクセサリーが欲しいから梅阪に行きたい。名前の願望は僕のくすぐったい気持ちいいところにばかり当たって、いちいち胸をときめかせた。





「永見ひさしぶり、元気やった?」
「……デジャブ?」


あの日あの時とまったく同じ挨拶をした名前だったが、前回との違いはあたたかくなって服装が軽くなったことと、彼女の髪の色が明るくなっていてことだ。
目尻を下げて笑う、こっちの力が抜けてしまいそうな笑い方は一切変わっていない。


「髪、明るくなったな」
「うん。かわいいやろ?」
「うん」
「ん?」
「うんって」
「……ふ、あっそ」


漫画なら「ニヤ」と効果音がつきそうな表情だった。
名前は僕の面食らった顔を一瞥して、背を向け歩き始めた。
負けた気がした僕はいつもより背筋を伸ばして、目線を上げて、これ見よがしに道路沿いを歩いた。
もうこの思想になる時点で、大負けしている気がする……


「……ていうか、良かったん?」
「何が」
「こんな人多いところに来て」
「来たかったんやろ?」
「うん。まあ、そうなんやけど」
「ほなええやん」


土曜日のお昼前のカフェはそこそこ、いやかなり混み合っていて、名前はメニュー表を見ながら周りをきょろきょろ、料理が届くまでもきょろきょろ、食べている途中でもきょろきょろしていた。
名前が心配するほど僕は気にしていないし、周りのお客さんも自分たちが楽しむことに集中しているからこちらのことなんて見ていない。なのに、なんだこの面白い生き物は。


「はーおいしかった」
「名前以外の女の子、全員ご飯少なめでって言うてなかった?」
「後にも先にも使う予定のない言葉やわ」
「胃袋男子高校生」
「ごめんね、男子高校生の分までお代出してもろて」
「男子高校生は食べるんが仕事やろ」
「まだまだいけるから次梅阪ねっ」


アクセサリーも食べんねや、とぼやいたら、またあの何も考えてなさそうな声で笑う。
職業柄とはいえ、僕の発言で彼女にこんなに笑ってもらえることが嬉しかった。
名前はどうやら僕のことを人気芸人と位置付けているみたいで、人混みの中変に気遣う彼女の目線とか、僕の名前を無駄に呼ばないよう昔一瞬だけ呼ばれていた変なあだ名で呼ぶところとか、それでいてたまに僕の腕に彼女の肩が当たる近い距離感とか、楽しくない時がひとつとしてなかった。


「全然買うつもりやったのに迷いが生じてしまっている」
「どれで悩んでんの?」
「一粒ダイヤ買う予定やってんけど実物見たら色付きもいいな」
「ふーん」
「……ちょっとトイレ行って考えよ」
「いってらっしゃい」
「あのさ」
「何」
「私がトイレに行ってる間にプレゼントで…… みたいなんはなしやから」
「……はい?」
「特に一粒ダイヤは自腹切らなあかんシステムやねん」
「何やねんそのシステム」
「とにかく、要らんから。フリとかとちゃうから」
「分かったから早よ行ってき」


ほんまに自分で買うから、を連呼して百貨店の女子トイレに吸い込まれていった彼女を待つべく、僕には縁もゆかりもないオレンジ色がテーマカラーのブランドの前で買う気もない商品を時間をかけて眺めていた。
バッグや財布を見た後値札を確認すると、思わず声が出そうになった。
ゼロの数を数えていると、後ろで彼女に声をかけられた。


「すご、買うん?」
「んなわけ」
「なんや、びっくりした」
「東京行ってメインMCするくらいにならな買われへんやろ」
「そうよねえ……」


二人してアホみたいな顔してエルメスの財布を眺めて、財布もきっとどんな顔をしていいか分からなかっただろう。奥から店員さんが近づいて来るのが分かって、すぐさま店から離れた。
すっきりした名前はもう一度ジュエリー店に戻り、今度は足を止めることなく「これください」と一粒ダイヤのネックレスを指差して言った。


「おお、決めたんや」
「女に二言はない。最初から決めてたこれにする」


白手をはめた女性の店員が、きらきらひかるネックレスを取り出す。
二人が購入手続きを進めている間、僕は男性の店員に声をかけられた。


「メンズのジュエリーもございますが、よろしければご覧になられませんか?」


分かりやすくきょどってしまった僕は、このハンサムな紳士に少しでも余裕があるよう見せるべく、意味のない咳払いをした。
違いの分からない僕は、何を見ても一緒に見える。それを悟ったのか、紳士は奥から輝く小瓶を持ってきた。


「男性にもとても人気の商品なんですよ」
「そ、そうなんですね」
「すみません、主人香水つけないんです。私が見てもいいですか?」


横からブルーの紙袋をぶら下げた名前が帰ってきて、小瓶から出てきた香りを手首に纏わせた。
語彙力と知識のない僕には「良い香り」としか形容できなかったが、名前はローズがどうだとかムスクがなんだとかを発していた。
ハンサム紳士と談笑した後、ムエットを紙袋に入れてもらい僕たちは店を後にした。
満足げな名前を横に、僕は確認したいけど言い出せないことがひとつあった。


「しゅ」
「ん?」
「……いや」
「ああ、さっき私が永見のこと主人って言うたこと?」
「…………」
「嫌やった?」
「……………………ど、」
「ごめん」


ふと香りが途切れたと思ったら、名前は僕の一歩後方で立ちすくんでいた。目線を落として、駅近くのベンチに音もなく座った名前に駆け寄る。
長い付き合いだがあまり見たことない表情をしていて、不覚にも心音が疼く。
僕の不甲斐なさで彼女を傷つけてしまったのなら、なりふり構っていられない。


「名前、」
「ごめん、永見」
「ちがうねん、あの、」
「永見の焦ったリアクション見たくてつい言っちゃった」


顔を上げた名前は見慣れたあのいたずらっぽい笑みを浮かべていて、血液という血液が顔に集中していくのが分かった。
控えめに笑う名前を見て、僕は脳裏に「惚れた者負け」という言葉が浮かんだ。
そう意識してしまったら最後、その憎たらしさも愛に変わってしまう。


「性悪」
「ありがとうございます」
「一瞬でもプレゼントしようと思った自分が情けないわ」
「や、それはほんまにいいの」
「……今日、何時の電車乗んねん」


照れ隠しで名前に別れの時間を尋ねた。そうすることでしか反発できないへたれ具合に頭を抱えたかったが、こういうやり方でしか名前と対等に喋ることすらままならなかった。
なかなか次の言葉を発さない名前に視線をやると、目をまんまるくして僕を見上げていた。


「あれ? 私、今日帰るなんて言うた?」


その言葉に、僕も名前と同じ顔をすることになった。
街の喧騒がただ流れ、いつのまにか夕闇が迫る時間帯になっていく。


「いっつも往復の切符買ってるやん」
「仕事の時はね」
「ああ」
「今日休みやん」
「ああ……」
「明日も休みやん」
「……なんか、勝手に帰るもんやと、おもってた……」
「そう? まあ今からでも帰れって言われたら帰れるけど」
「え?」
「時間も余裕あるし、切符も買えるよ」
「…………」
「どうしてほしい?」


その時の彼女の表情は、口角は上がっていたもののどことなく目の色にうるんだ緊張感が宿っていた。
心臓の音が脳まで響いて、体の内側から水分が蒸発していっている感覚がある。
言え、永見大吾。最高にかっこいい言葉を彼女に浴びせてやれ。


「あの」
「うん」
「その……」
「うん」
「…………部屋、を」
「うん?」
「片付ける時間がほしい……」
「そやね。いろいろ隠すもんあるやろしね」
「ないわっ」
「はいはい」
「……はあ」
「何」
「かっこわる」
「ええ?」
「いつ言うてええか分からんままこんな感じになってもうた」
「何を言うつもりやったん?」
「…………」
「言うてよ、永見」


名前は立ち上がって、僕に向き合った。
酸素を吸ったまま吐くことを忘れていたが、さっきのかっこ悪いセリフのリベンジをするべく左脳を働かせた。
足元から、あのローズだかムスクだかの香りがする。その気高い香りに僕の考えた筋道は呆気なく崩れて、感情の振り幅が赴くままに唇が動いていた。


「アホほど好きや、アホ」
「あっはは、口悪い告白やなあ」
「……名前は?」
「うん?」
「言うてや」


論理的とは程遠いくらい恥ずかしい告白をして、その数秒後、あろうことか僕は彼女に愛の脅迫をしてしまう。国立大卒理系男子が聞いて呆れる。
目の前の国立大卒理系女子はひとつ咳払いをし、僕の名前を呼んだ。


「永見くん」
「はい」
「今日一日中、うしろの髪の毛がはねてましたね」
「えっ!」
「気付いてなかった?」
「全然気付けへんかった」
「しっかりしてよ芸能人〜」
「言うてや。直すタイミングあったやん」
「たまに盗み見して一人で楽しんでた」
「いつから気付いてたん?」
「待ち合わせの時から」
「そんな早く? 信じられへん」
「すごいやろ」
「目ざといなあ」
「目ざとい、っていうか、気付いてまうんよ」
「なんで?」
「永見の後ろ姿は、わりと長いことずっと見てたから」
「…………」
「永見?」
「え…………」
「伝わってる?」
「……うそや」
「聞いて、永見」


名前の唇が動くのを、誰もが知るあの病に染まりきった朱色を、僕は完璧に理解できてしまった。
赤はすべてを変える。落ちる太陽は昼を夜に。点滅が終われば、行き交う人々の足を止めることもできてしまう。
君の白い肌が薄紅に染まった事実を、僕は自惚れと呼ばず確信と呼ぶことにする。
だから、僕の渇いた手で君の掌を取ろうとするこのひ弱な勇気を、これから訪れる長い夜のように称えてくれないか。
















土曜日硝子消失柘榴み合う
(私も永見が好きだよ)







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