闖入者続編







はい、今から超絶しょうもないだっさいことを言います。
仕事したくないよーおじさんにセクハラパワハラされたくないよーお客様に「若い女だから信用できない」とかいう訳分からん理由で罵倒されたくないよー明日朝起きたら事務所爆発しててほしいよー。


「いや、そらあかんやろ」


レストランで発せられた子どもみたいな愚痴は、俯瞰で見ていた大人の私とここのオーナーがしっかりと喝を入れた。
別に事務所が爆発することが問題なのではない。事務所が爆発することによって生活できなくなることが問題なのだ。
労働大国ニッポン、今日もみんな「働きたくない」と思いながら汗水垂らして仕事をしている。


「俺は楽しいよ、仕事」
「あんたは何してても楽しいやろ」
「酔っ払いに絡まれても楽しいもん」
「強いなあ」
「逆に仲良うなったんねん」
「若者言葉で言うところのー……」
「ん?」
「陽キャやな、瀬戸は」


私が慣れない言葉を使おうとするものだから、瀬戸は大笑いして「無理すんなって!」と吐き捨て、私の目の前にビールを置いた。


「で?」
「ん?」
「どないしたん」
「何が」
「何も悩みはありませんみたいな顔には見えへんけど」


私は大きくため息をついたのを皮切りに、溜まりに溜まっていた仕事の愚痴と大吾くんに会えない日が続いていることを、おびただしい言葉の数で瀬戸にぶちまけた。
膨大な仕事量が重なっていたことも相まって、あの付き合いの長い瀬戸が私の鬼の形相を見て若干怖気付いていたのが、昨年の十二月のこと。
季節が変わって春。なんならもうそろそろ夏。


「若くてきれいな女性は、簡単に仕事取れて羨ましいですね」


今日はとびきり天気のいい日で、長袖を着るのも暑いくらいだったので、インナーは半袖にしてカーディガンを羽織って仕事へ向かった。
取引先の会社へ向かい、ミーティングルームで会議終了後のアイスブレイクをしていると、そんなアホらしいセリフが私の二の腕を傷つけたのだ。


「はい……?」
「や、ね。そうやってカーディガン一枚脱いだらひとつ仕事が手に入るわけでしょ。楽でええなあと思いまして」


終始ニコニコと私の肌を眺めながら話を続けるこのおじさん行政書士は、昔ながらのいわゆる男尊女卑的な思想の方で、悪気はないのかもしれない。ただその悪気の有り無しと私が不快に思うかは、また別問題だ。


「それで仕事が取れるとお思いなら、ご自身も脱がれては?」


多忙が続いていたことに加えガス抜きもできず、そんな私に向かって笑顔で着火してきたあいつが悪いのよ。
そう言い聞かせてはいたものの、私の中に潜む罪悪感とかいう不要な天使がしくしくと声をあげていた。
誰もいない事務所で天井を仰ぐ。開け放たれた窓から、週末を楽しむ男女の声が聞こえてくる。


「今日で三ヶ月かあ……」


遠距離恋愛をしているわけでもないくせに、三ヶ月近く彼と会えていない。
お笑いに疎い私でも「M-1・R-1決勝進出」という事実がとんでもないことくらいは理解できていた。本人曰く結果は芳しくなかったとのことだったが、大会が終わったそれぞれの次の日からの仕事量は、それはもう私の予想を上回る以上のものだった。


「東京から帰って来るん、明日って言うてたっけ」


東京にお呼ばれすることが格段に多くなり、本人に会うよりテレビで見かけることの方が増えた。
何も考えず笑えていたのは最初の半月くらいで、大会終了後に会った彼はひどく疲れている様子だった。



「……大吾くん」
「ん?」
「無理してない?」
「してないよ」
「うそ」
「えー? なんで僕が名前ちゃんに嘘つくん?」



彼、永見大吾は嘘をつくのが下手だ。初対面の私に偽った職業を伝えてしまったばかりに関係がこじれたそうになったこと、もう忘れているのかしら。
いや、彼のこの嘘は優しさ由来のものだ。私に心配かけまいとし、元気であるよう振る舞っている。



「お互い何かあったら困るから、持ってて」



“何かあったら”って後期高齢者じゃないんだから、とつっこみを入れたかったそのセリフの後に、ひんやり冷たい鍵を渡された。その後すぐに私の家の鍵も催促され、次の日仕事終わりに作りに走った。
残念ながら私も彼も、お互い鍵を渡し合ったくせにそれを鍵穴に通したことは一度たりともない。
連なるふたつの鍵が揺れるたび、私はまだ彼の特別な人なんだと思い出すことができる。


「なんかもう、」


無理かも。
そう認識してしまったら、私はいよいよ“無理”になった。
息つく間もない多忙の中、パワハラとセクハラの雨に打たれて、乾く前にまた標的にされて、よくある話なのに、私はひとりで跳ね除けられないでいる。
なぜ?


「ただいま」


大吾くん、今だけ、この夜の間だけ、私の弱さをあなたのせいにします。
あなたと出会って、あなたに愛されて、私は変わってしまった。大吾くんに出会う前の私は、どんだけ忙しくても、レベルの低い言動を浴びせられても、ワンツースリーの“ス”で立ち上がっていた。


「いて、靴擦れしとる」


ここに来るのは年明けぶりで、鍵を使ったのは、今が初めて。彼のスニーカーの隣に自分のパンプスを並べると、大人と子どもみたい。
電気をつけると程よく片された部屋に、スウェットの抜け殻がベッドに放り投げられている。
弱い私は窮屈な鎧を脱ぎ捨て、穏やかで柔らかい彼の一部を身に纏うと、記憶に残るよりは広いベッドに転がった。


「大吾くんのにおいがする」


彼のかすかな生命感と体温を感じたくて、自宅に戻らず彼の最寄駅まで足が動いてしまった。罪悪感と名乗る天使は下を向いて泣いてはいたものの、心の奥は高揚していた気がする。
今の私は、大吾くんに会えなくても痕跡だけで傷が癒えるはずだ。案の定、彼が今朝まで着ていたスウェットを着ただけで、簡単に涙が溢れた。


「……さいあくや」


癒えるはずだった傷は、彼の幻影の治癒力が高すぎるがあまり塞がる前に痛みを発した。
一旦涙が出てしまうと止められなくて、汚い醜い自分の本音が空気に触れて錆びついた。
丸めたティッシュを絶対に離すまいと強く握ってから何分経ったのだろう。突然部屋にがちゃん、と無機質な音が響いて、反射で目を開いてしまった。
目を開いたということは私は知らぬ間に眠ってしまったいたということで、回りきっていない頭で状況を整理しようと努めた。


「名前ちゃん……?」


テレビ越しで聞こえる彼の声とは違う、温度の高い甘い声。私を呼ぶ声の先には大荷物を抱えた大吾くんがいて、目が合ったと思った瞬間私の元へ近づいてきた。


「どうしたん、びっくりした」
「や、あの…… ごめん、びっくりさせて」
「全然ええんやけど…… 理由聞く前にちょっといい?」
「何?」
「本物やんな?」
「え? 偽物の線ってある?」
「ない。え、本物やんな? 本物やんな?」
「うん、たぶん……」
「うわ、もーーーーほんまに会いたかった! 何これサプライズ?」


寝ぼけた頭のまま彼に抱きしめられ、上手い言葉も返せないまま彼の背中に手を回した。
外から帰ってきたばかりの彼はまだ彼じゃない違うにおいがしたが、抱きしめられる時の力とか、体の厚みとか、肩周りのごつさとか、忘れかけていた大吾くんのパーツが集まった時、鈍感になっていた脳がゆるゆる動き始めた。
ふと、大吾くんが身体を離して私を見据える。


「あれ? 服、どないしたん?」
「あ、えっと……」
「僕が着るより名前ちゃんが着た方が似合うなあ」
「そうかな」
「うん。ちょっとどころかかなり大きいけど、なんかその感じがいいよねえ」
「……あの、大吾くん?」
「うん?」
「……私がここにおること、なんも思わへんの?」


そう言うと彼は少しの沈黙の後「え? 何も?」と至極純粋にそう言った。言葉が詰まる。


「だって、大吾くんのおうちやん」
「うん」
「私がおるっておかしいやん」
「なんで?」
「だって…… 大吾くんのおうちやから……」
「何言うてんの。だっても何も、名前ちゃんは僕の彼女やん」


だめだ、これ以上話を進めてもループになってしまう気がする。
幸い彼は、自宅に突然彼女がいるというわりとどっきりするような状況でも、平気で飲み込めるくらい肝の据わった男だということが分かった。
かわいいかわいいと抱きしめられては距離を取って眺め、また頭や頬を撫でられたりもてあそばれたりして時間が過ぎていった。
時間を止めてしまったのは、私の涙が原因だった。


「名前ちゃん?」
「……ごめん」
「なんで謝るん。悪いことしてへんのに」
「久々に会ったのに、泣き顔見せたくないやんか」
「ええやん、かわいいんやから」
「………………」
「ん?」
「ごめん、帰ってきたばっかやのに」
「まあ、全然許しちゃうよね」


体温から滲み出る彼の香りと優しさが、さらに涙腺を刺激する。服が汚れないように距離を取っていたが、思惑がばれて後頭部に手を回された。
長くいっしょにいることで、私の扱いが分かってきたのだろう。遠慮しいの私には、これくらい強引に動かないといけないんだと、半年前に意気揚々と語っていた。


「……仕事が、忙しくて」
「うん」
「嫌なこと言われたりされたりで、」
「えっ!?」
「ああ、大丈夫よ。その場で言うたから」
「……さすが名前ちゃん。はっきり物言えるんかっこよすぎるわ」
「でも、そうやって言い返し続けるのもしんどくて。私より忙しい大吾くんにこんなこと言えんくて」
「うん」
「でも、限界がきて」
「うん」
「大吾くんに会いたいけど、帰ってくるん明日って言うてたよなあ、て思って」
「うん」
「せめて、ちょっとだけでも大吾くんの痕跡を…… あの……」
「ん?」


順を追って説明していて、いよいよ佳境というところで私は自分でブレーキをかけてしまった。
その理由は単純明快。いくら恋人とはいえ、シンプルにキモくないか? という疑惑が出てきたからだ。
口ごもりなかなか話し出さない私を慮って、大吾くんは大きな声とリアクションで「そっか〜」と締めくくった。


「次僕が喋る番ね」
「うん?」
「気付けへんくてごめん。僕が急に忙しなったから気遣ってくれてたんよな」
「や、私が言わんかってんから気付かんくて当然よ」
「忙しい忙しくない関係なく、名前ちゃんが無理してしまうようなら言うて」
「うん」
「あと、これは僕も名前ちゃんと同じねんけど」
「うん」
「忙殺されて忙殺されて、そんな時ほど名前ちゃんの顔が浮かぶねん」
「うん」
「今日、玄関に名前ちゃんのちっちゃい靴あるの見て、叫ばんかった自分を褒めたかったもん」
「ふふ、そんなに?」
「ベッドに僕の服着て寝てる名前ちゃん見た瞬間、ちょっと泣いたんばれてない?」
「うん。今ばれたけど」
「うわ、やってもうた」


私が少しでも彼の一部に近い物を求めてここに来たこと、湿っぽくならないよう私の痛みを濾過してくれていること、何より彼が、私にまっすぐ向き合ってくれていることにおなかの真ん中がじんわりと温かくなった。


「今日泊まってく?」
「ううん。明日仕事やし、服とか持ってきてないから帰る」
「そっか。じゃあ家まで送る」


時計を見ると、もう二十二時過ぎだった。
明日はお互い朝から仕事で、もう少し一緒にいたい気持ちを抑えて彼のスウェットを脱ぎ、堅苦しい仕事着に着替えた。
玄関を出て、エレベーターに乗る前に大吾くんが「あっ」と小さな声で呟いた。


「ごめん、忘れ物した。先に下降りてて」


ちょうどエレベーターが来て、私はひとりでエントランスまで降りた。
二十二時を過ぎるとさすがに人の流れはなだらかになり、夏目前の、水滴の粒が染み渡る夜が絵画のように広がっていた。


「ごめん、お待たせ。行こう」
「何忘れたん?」
「ん? これ」


大吾くんが取り出したのは、ブルーのICカードだった。
彼と一緒だと駅までの道のりはうんと短く感じ、ホームで電車を待っている時も「このまま来なくていいのに」と、名残惜しさだけが胸の奥を渦巻いていた。
労働大国ニッポン、電車は一分たりとも遅れない。
車両は心地よいくらい空いていて、一旦ひと息をつく。
ひと息をついて、私は彼に違和感を覚えた。


「何その荷物?」


並んで歩いている時には気付かなかった違和感も、夜をバックに私たちを映す車窓が暴いてくれた。
私を送るだけにしては、さすがに荷物が大きすぎる。大吾くんに問いただすと、控えめに笑った後「気付くんおそ」と私の目を見て言った。


「こんな状態の名前ちゃんを今夜ひとりになんかさせませんて」
「……え?」
「逆に服だけで足りてた?」
「足り…… え?」
「ここに本人おるのに、服着るだけでいいの?」
「……その荷物って、」
「ああ、さてはまだ寝起きやな、この子」


彼のこのこどもみたいな表情は、ファンの方も仕事仲間も知らないだろう。
忘れ物を取りに行く前はこんな大荷物を抱えていなかったことを思い出すと、どうしたって口元がほころんでしまう。鞄の中を指して、「僕の分しか入ってないから、家では自分のパジャマ着てな?」と至極真面目なトーンで言うものだから、我慢していたものが弾けて声を出して笑いながら頷いた。


「今日はサプライズやったなあ」
「お互いにね」
「コンビニでビール買ってこか」
「明日何時から?」
「えー、と、九時出発」
「ほなちっちゃい方やね、ビール」


夜のコンビニは魔法にかかっていて、ビールも、お菓子も、アイスも、普段の十倍おいしそうに見える。
青黒く澄んだ夜空。呼吸するように明滅するネオンすら微分できそうな今日という日は、普段の百倍美しく見える。
なんてことない缶ビールとお風呂上がり用のアイスをひっさげて私たちは、決して時の止まることのない家に帰る。
















(名前ちゃん待って)
(何?)
(鍵、僕ので開けたい)
(ふふ、じゃあ開けてもらおうかな)








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