「くるまさん、小道具入ったカゴってどこですか?」
「えーどこだろう。分かんない」
「そうすか」


そう言った後動かない後輩を前に、俺はかける言葉もなければ小道具のカゴを提供することもできなかった。
毛玉だらけのニットを着た後輩は口には決して出さないが、何か声をかけてほしそうな表情をしている。


「……何?」
「くるまさん、名字さんに聞いてくれませんか?」


みぞおちあたりで「あそこにいるんで」というジェスチャーを繰り返す後輩。
視線の方に頭を向けると、大して忙しくなさそうな名字さんがいた。以前それを言うと「失礼な人」と怒られた。
そのやり取りは、周囲の芸人たちからはもはや伝説と化しているほどの出来事になっている。


「だって、名字さん怖いじゃないですか」


誰もが口を揃えてそう言う。僕より下の後輩はもちろん、先輩ですら最近はそんなそぶりを見せる。


「くるまさんくらいですよ、名字さんにあんな普通に話しかけられるの」


だから、お願いします!
小さな声だったが、迫力はものすごかった。よっぽど名字さんが怖いんだろう。
俺は書類とにらめっこしている彼女の元へ向かった。
大丈夫だ、書類を見たところ数字は扱っていなさそうだし、電卓も弾いていない。


「名字さん」
「はい」
「小道具入ったカゴってどこにありますか」
「ストックルームになかったですか?」
「ないみたいですよ」
「え? 使った後は必ず戻すようにしているんですけどね……」
「いや!! それが見当たらなくて!!」


俺のずっと後ろで後輩が大きな声で会話に参加してきた。怖いって言ってたくせに、混ざりたいのかよ。
誰か移動させたのかな、と席から立ち上がりストックルームまで足を動かす彼女。
出番まで時間があった俺は、後輩にネタ合わせに行くよう指示し彼女のあとをついていった。


「ストックルームにないってことは、倉庫ですかね」
「ですかね」


ストックルームを探した後、地下に下りるエレベーター内で彼女の言葉尻を取って遊ぶ。
地下の埃っぽい倉庫に行くと、後輩が探していたお目当てのカゴが堂々と鎮座されており、彼女はそれを軽々と持ち上げた。


「ちょっと待って」
「…………」
「ください」


周りが言う「名字さんは怖い」。たぶんこの沈黙の時に流れる、痛いほどの美しさが原因なんだろう。
名字さんはバカバカしいカツラやラッパ、竹刀などが無造作に入ったカゴをがちゃんと置いて、俺に向き合った。


「誰もいないから普通に話すね」
「何、そのためについてきたの?」


そう言って笑う名字さんは、俺の家で肩を並べてお酒を飲んでいる時みたいに人懐っこくて柔らかいオーラを醸し出している。
この表情の彼女を知っていたら、みんなが言うあのセリフなんて口に出すどころか思いつきすらしないだろう。


「コバヤシがさ…… あ、さっきの小道具の子ね」
「うん」
「怖いって。名前ちゃんのこと」


変なタイミングで、蛍光灯が唸る。
思い当たる節が大いにあるような目線の外し方をする名前ちゃんに、呆れつつもつい許してしまう自分がいる。


「直接言われたことはないけど、薄々感じてはいるよ。話しかけづらいんだろうなーって」
「俺と一緒にいる時みたいににこにこしてればいいのに」
「別に過剰ににこにこする必要はないじゃん。大きい物音立てたり怒鳴ったりしてないし、聞かれたことにはちゃんと答えてるよ」


それを言われて、ぐうの音も出なかった。
そう。彼女は誰もが認める、いわゆる「仕事ができる人」なのだ。現に今だってぺーぺーの後輩のために自分の仕事を一旦止めて、くだらない小道具を探してくれているのだから。
男共の「名字さん怖い」はともかく、女性陣からの信頼は六法全書よりも厚い。正直、俺も周りが言う「名字さん怖い」の意見には首を傾げたくなるくらいなのだ。


「まあ、もうちょっと男性陣にも優しくしてやったらどうよ」
「うーん……」
「俺だってたまに思うもん、名前ちゃん黙ってたら怖いなって」
「それはもう私の性格云々じゃなく顔の構造の問題でしょ」
「顔面スリザリン」
「そう、顔面スリザリン」


ほら、笑うとこんなにかわいいくせに。喋ると実は冗談好きなくせに。
好きな人が周りに勘違いされて不当な評価を受けているのを目の当たりにするのは、とてもつらい。
そんなやり取りを終えた後、名前ちゃんはカゴを持って地上に上がるまでのエレベーターで、「たまには直樹の言うこと聞いてみるか」とため息と一緒に吐き出した。


「こぉらっ」


自室以外の密室で二人きり。そんな状況はどうしてもいたずらしたくなってしまう。
幸い彼女の両手は塞がっている。名前ちゃんの柔らかい髪の毛を耳にかけて、うなじを支えながら唇を落とした。
ドアが開いたら、他人のふり。お互いの切り替えのスピードの良さに笑いそうになったが、俺はネタ合わせをしていた後輩の元へカゴを持って行ってやった。







「戻りました〜」
「おかえり…… え!? なにその格好!」
「外、大雪! 電車結構遅れててさ、直帰したかったんだけどこの中に取引先の個人情報入ってて泣きながら帰社しましたとさ」


外回りに行っていた同僚はポニーテールについた雪のかたまりを雑に払って、デスクに個人情報が入っているであろう紙袋を置いた。
パソコンのトップニュース欄を開くと、「東京23区のほぼ全域で積雪」という絶望的な字面を確認した。
大事な個人情報を鍵付きの引き出しに入れて、同僚はコートを上までしっかりしめて素早く退社した。


「うっわほんっとにさむっ!」


いくら大雪とはいえ近くだし、と横着したのがいけなかった。
コートは羽織ったものの、この寒さ、いや痛さはマフラー手袋フル装備で来ればよかったと、外に出て後悔をした。
目当ての店内に入るとこっちのもの。時間帯もあってそんなに混んでおらず、普段より早く買い物できた。
小走りで、会社に戻る。


「あっ名字さん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」


会議室で打ち合わせをしている令和ロマンと男性スタッフ二名。
直樹から午後の予定を聞いていたので、差し入れを持って部屋に訪れた。有言実行だ。
男性スタッフは私の顔を確認するなり折れていた背筋をびしっと立て、顔つきがやや精悍になった。
四人全員、私の右手に提げている紙袋に注目している。


「遅くまでお疲れ様です。この部屋だけ鍵が返って来なかったので…… 今日は冷えるので、これ飲んであったまって帰ってください」


コーヒーをテーブルに置くと、言葉を落とさずとも雰囲気が和んだことが分かった。
こういうのもたまにはいいかもしれない、と私も胸の辺りが温かくなったのを感じ、部屋を出ようと踵を返した。


「名字さんも一緒に飲みましょうよ。ちょうど打ち合わせ終わったとこですし」


そう言って、社長席の椅子を引く私の彼。そんな私の左手には、欲に負けて買ってしまった抹茶ラテ。
松井さんと男性スタッフ二人の目が徐々に泳ぎ始めている。
自分以外の全員に変な気を遣わせて、まったくこの子は。


「ありがとうございます。でもせっかく一息つかれるんでしたら、皆さんだけでどうぞ」
「……名字さん、ぜひご一緒していただけませんか」


その声の主は直樹ではなく、別の課の三年下のスタッフだった。
松井さん、もう一人のスタッフ、私が驚くのは理解できるが、なぜ提案したあなたが目を丸くしているのかな。


「僕、前から名字さんとお話をしてみたいなと思っていて…… 社内報のインタビュー読んで、憧れだったんですけど僕なんかが話しかけていいのかなって思ってて……」


隣の男性スタッフも、「僕も読みました。感動しました」と思いがけないお褒めの言葉をもらい、素で「ありがとう、うれしい」と漏れてしまった。
誰も読んでないのになぜ毎月発行されているんだでお馴染みの社内報が、面白い縁をつないでくれた。
四人の歓迎ムードに後押しされ、恐る恐る席に着いた。
仕事の内容を中心に話は進んでいって、柔らかな雰囲気のおかげで最後の一滴まで抹茶ラテをおいしく飲み干せた。


「名字さんて、どんな人が好きなんですか?」


この質問から、温かかった雰囲気が一転することになる。
結婚願望はありますか。前の彼氏はどんな人でしたか。お休みの日は何をしているんですか。お酒は好きですか。どのあたりに住んでいるんですか。
極めつきは、この質問だった。


「彼氏はいますか?」


女性社員の間では、私は彼氏いない歴三年ということになっている。それは直樹も知っているので、事実をきちんと擦り合わせておかなければ後でややこしくなる。
いません、と答えると、どよめく三名。と、殺気立つ一名。
ほら、言わんこっちゃない。


「名字さん、今度お時間あればぜひ飲みに行きましょう。僕の友人が日本酒バーを経営してて……」


背もたれに全体重を預け、天井を仰ぐ比良くるま。時たま貧乏ゆすりをし、隣の松井さんが「ちゃんと聞け」と軽く目で合図をしている。
私は、彼の考えていることが手に取るように分かってしまう。
口の端が上がりそうになるのを抑え、直樹がこれ以上不機嫌になる前にそろそろおいとますることにした。


「あっもうこんな時間。無駄に残業してると上がうるさいんで、失礼します。打ち合わせ終わりにすみません」
「そんな全然、」
「じゃ、俺も帰ろうかな」


スタッフさんの言葉にかぶせながら立ち上がる直樹。これがお開きの合図となり、五人は散り散りに解散していった。
私は鍵を閉めた後事務所に戻り、退勤打刻をしてエレベーターを待っている間に、いつもよりけたたましく電話が鳴った。


「はい」
「今どこ」
「事務所のエレ前」
「そっち行く」
「いいよ、私が行く。今どこにいるの?」
「……裏出口」
「分かった。雪降ってるから、中で待ってなね」


電話を切った後、彼にどんな顔で会おうか考えていた。
社員が使う古びたエレベーターはドアが開く前にガコン、と大きな音が鳴るくせに、無音で閉まる。
カウントダウンが始まったが、私の頭は数時間前に晒された寒風で凍ってしまったみたいで、それが溶け始めたのは、直樹のしかめっ面を確認した時だった。


「私が先出ようか」
「俺が先出る。今日俺んちね」
「うん。ちょっとコンビニ寄る用事あるから、部屋片付けながら待ってて」
「……………………」
「ん?」
「俺もコンビニ行く」
「うん。じゃあ遅れて出て追いつくから、近くで待ってて」


たぶん、いや絶対、彼はコンビニに用事などない。私のコンビニでの用事は後日でも構わないので、今日は彼のわがままに付き合ってあげよう。
彼の背中を捉え、コンビニ前で追いついた。直樹は速度を緩めたが、「明日で大丈夫」と伝えると、一瞬だけ眉を下げて脚を前に動かし始めた。


「……薄着すぎない?」
「タクシー移動だからマフラーも手袋も忘れちゃったんだよ」
「私のマフラー使う?」
「いい。名前ちゃんが風邪ひく」


機嫌は戻らないけど、私に当たるのはなんか違う。そんな声が聞こえてくるようだった。
降りしきる大粒の雪は、風に煽られることなくまっすぐ地上に燦々と降り注ぐ。
慣れない雪に、都民はてんやわんや。毎日これくらい自分のことだけに集中してくれていると、彼と並んで歩くのも平気なのに。


「コーヒーありがとう」
「ううん。タイミング悪かったかな」
「タイミングは…… 完璧だった」


彼の家に着くまでは、もう少し時間がかかる。
ベタ雪をじゃぶじゃぶ歩きながら、直樹は喉につっかえていただろう言葉を吐き出した。


「さっきのやり取りで気付いたこと言ってもいい?」
「うん。何に気付いたの?」
「気付いたっていうか、もしかしてと思ったことだけど……」


後ろから車が走る音が聞こえたと同時に、直樹が私の方へ身を寄せた。肩が触れる。


「……あえてみんなに、愛想振りまかず接してた?」


さっきまでの刺々しいオーラはなくなり、捨てられた子犬のように不憫で、あわれなものに様変わりしていた。
彼と恋人になる前は、私の対応は誰に対しても模範的で明るい、いわばグリフィンドール側の人間だった。
そうしていると、何を勘違いしたのか「俺に気がある」と思い込んだバカ男たちがわらわらわいて、仕事がとんでもなくやりづらくなってしまった。
そしてもう一つ。一番大事な人を一番大事にしたい私は、男性とは必要最低限のコミュニケーションだけに留めることにした。
彼に理由を言っていたわけではないから、優しい彼が私を思って動いてくれたことは嬉しかった。


「名前ちゃんと分かれたあと、言ってたよあの二人」
「なんて?」
「あんな楽しそうに笑う人だったんだ、って」
「そうなんだ」
「ギャップってすごいなって延々喋ってた」
「へ〜」


私は根っからのスリザリン生なので、今更そんなことを言われても「お風呂から上がったらビール飲もう」くらいしか思い巡らせられず、つむじが見えそうなくらい頭を下げて歩く直樹の首の角度を測って教えてあげたかった。


「やっぱなし」
「え?」
「外では怖い名前ちゃんでいて」
「なんじゃそりゃ」
「……ごめんね」
「何が?」
「俺のためだよね、名前ちゃんがああしてたの」


雪と一緒に、直樹の弱音も積もっていく。
マンションに着き、エレベーターでさっきのセリフに対して「別に直樹のためだけじゃないけどね」と悪態をつくと、怒ってるのか笑ってるのか泣いてるのか分からない声で私の名前を呼ぶものだから、なんだか嬉しくなった。
エアコンタイマーのおかげで温まった部屋に帰ることができて、マフラー、手袋、コートの順に外していっていると、身軽だった彼はコートを脱ぐこともせず私の唇を奪った。コートを脱ぎながらそれを上手に深くしていき、私は無言で寝室に誘導された。


「……私、これからめちゃくちゃにされるんだね」
「そうです」
「ぐっちゃぐちゃに」
「もうどっろどろに」
「んはは、できるかなあ直樹に」


帰宅して三分経った頃か。私たちは鼻を赤くしたまま、ベッドで笑い合った。
直樹は私の頬に触れようとしたが、寸前で止まる。


「待って」


私に触れる前に、吐息で指先を温める彼の気品に胸が鈍く高鳴る。
馬鹿正直で微塵も計算されていない彼のまっすぐの愛情を、私は今すぐ欲しいと体を起こした。


「いいよ、すぐあったまる」
















王者あわれ
(雪が解けるまで待てないなら、二人で溶かせばいい)







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