喧嘩した。
そのあとにビールのスタンプがみっつ。
ああもう、こんなことされたら、どんだけ仕事が立て込んでいても予定空けるに決まってるじゃないですか。
ということで、ニヶ月ぶりに恋人のあれやこれやでくだを巻く彼女に会った。


「見てこれ」
「うわ痛そ!」
「やばくない? 喧嘩した後暴飲暴食したら久しぶりにこんなでっかいニキビできちゃった」
「名前さん、もうニキビじゃないです」
「吹き出物ね。分かってるよーだ」
「昨日は誰と暴飲暴食したんですか?」
「ん? ひとり」
「呼んでくれればよかったのに」
「呼んだじゃん今日。てか今日来てくれたのもびっくりしてるんだよ? さーちゃん忙しいのにさ」


はい、忙しいですとっても。でも、それとこれとは別なんです。
こうやって飲みの機会とネタを提供していただけていますし、名前さんが行きたいって言うお店は大体当たりですし、始まりから解散までなんだかんだでお互い喋るのと聴くのがしっかり半分ずつになりますし、あとこれが一番の理由なんですけど、私は名前さんが彼氏の愚痴を言っている姿が、全然嫌いじゃない。


「本当にいい子ね、さーちゃんは」
「出た。いつものパターンに入った」
「いや本音だからねこれ」
「私と飲む時いっつもこれ言うじゃないですか」
「だっていっつも思うんだもん」


名前さんは大学の時の三年上の先輩で、入学したての友達もいない人見知りの私に声をかけてくれた人だった。
広い学食でひとりぼっちという最高に気まずいシチュエーションで、しかも食券の買い方も分からなくてうろうろしてたところを、後から来た名前さんに教えてもらった。
教えてもらった上に、私のあの様子を悟って「入学おめでとう」の言葉と一緒にお昼をご馳走してもらい、名前さんグループの輪に囲まれながら日替わり定食を食べた。
私はその日一日中、講義の時間も休み時間も帰りのバスも、名前さんのことばかり考えていた。


「彼氏の愚痴とか、聞かされるの絶対うざいじゃん」
「いや、名前さんのはうざくないですよ」
「そうなの? なんでいつも聞いてくれんだろーって思ってたんだけど、もしかして私の話おもしろい?」
「そこまで言ってない」
「えー?」
「あとおもしろくない」
「何なのよもう!」


二人でお酒を空けていて、きっと同じことを思ったはず。「今日のお店、当たりだな」って。
お魚料理が来たと同時に、日本酒がやってきた。二人して喜ぶタイミングが一緒だったからか、大将も密かに顔を綻ばせて背中を向けた。


「喧嘩の理由、なんだったんですか?」
「地元の友達がこっち来るってなって、その中に男の子が一人いるって伝えたらもうバチバチ」
「……彼氏さん、年いくつでしたっけ」
「八歳上」
「なんで別れないのよ」


本音が強く出過ぎたみたいで、テーブルで膝を打ってしまった。
名前さんは「あらあら、脚の長いこと」と、日本酒で紅潮した頬を近づける。
話も酔いもぐるぐる回って、私も名前さんと同じように二人で会ったら絶対に伝える言葉があり、そろそろそれを口に出そうと頃合いを見計らっていた。


「名前さん、まだバレてないんですか?」
「バレてない。仕事辞めるまで、なんなら一生バレない自信ある」
「着替えの時とかキワくないです?」
「余裕。てか服から絶対見えないとこだから最悪バレてもいいっしょ」


いつだったか。
昼間の入道雲を見て「ソフトクリーム食べたい」なんて頭の中で漏らした日の放課後、傘に穴が空くような夕立に襲われた。
アパートが近いからという理由で名前さんの自宅に上がらせてもらい、雨が落ち着くまでお風呂と服を貸してもらった。



「こんだけ降ると、逆に楽しくなってきたなあ」



整頓された薄暗い部屋でそう呟いた名前さん。その腰には、匂い立つ満開の蓮の花。
銀のスプーンのようになめらかな曲線の大地に静かに咲く一輪の花から、私は目を離せないでいた。
「蓮は泥より出でて、泥に染まらず」。そんな生き方をしたいから、親元を離れてすぐにいれてもらったのだと教えてくれた。
雨の音が溶けるコーヒーを飲みながら、私はあの極楽に咲く花を何度も何度も反芻した。


「去年のM-1、見ました?」
「うわ、どうだったかな。誰が優勝したんだっけ?」
「令和ロマンです」
「……ごめん、見てないかも」
「あれがいるんですよ、一瞬コンビ組みかけた比良ってやつ。覚えて……」
「ないね」
「ないよね〜」


たばこの煙は、八つも年上のくせに高校生みたいな発言をして、その上愛する彼女にマジギレできる男を思い出しながら吐き出した。
あの日にあの大会を見ていないということは、クリスマスディナーなんかを楽しんでいたのだろうと燻された頭で察する。反吐が出るな。


「いいやつなんですよ、比良」
「さーちゃんがいいやつって言うんだったら、相当いい子なんだろうね」
「名前さん、今の彼氏さんより比良との方が合いそうだなーと思って」
「その子はどんな女の子がタイプなの?」
「昔はAKBの追っかけしてましたね」
「もう、さーちゃん冗談きっつ! AKB好きな子がこんな墨入った女を好きになるはずないでしょ!」


アルコールのせいで、血液がぶくぶく泡を立てている。
名前さんに合わせて、私も同じ声量、同じ高さで笑う。感情に反するリアクションができるようになったことは、本格的に芸人になってからだ。
名前さんの前では、いつも思う。この技術が使えるようになって、本当によかったと。


「じゃあいっそ、」
「ん?」
「いっそ、女の子を好きになっちゃえばいいのに」


そう思った途端、仮面が剥がれた。
ひびが入って、ぼろぼろと崩れ落ち、私の醜い本音が露わになる。
私は、彼氏の愚痴を言う名前さんが大好きだ。あんな彼氏に気持ちをすり減らしているくらいなら、私の親友と付き合ってくれたほうが安心する。
もっと言うと、あなたが私に心を預けてくれたら。
その蓮の花弁の唯一無二のなめらかな手触りを、私だけの物にしてくれたら。
こんな甘くて痛い夜もなくなるのに。


「……女の子を、好きに?」


いくら酒の席だからと、調子に乗りすぎたかもしれない。
名前さんに復唱され、自分がいかに妙なことを口走ったのか理解できた。
今まで、ずっと我慢していたのに。異国の浅瀬で、ただ見つめるだけでよかったのに。
そんな自分の欲に苛まれた今この時、名前さんの彼の気持ちが少し分かった。きっと彼もこんな気持ちを同居させて、彼女に迫ったのだと。
「今の嘘。忘れてください」と訂正する前に、名前さんはカウンター奥にある様々な酒瓶を見つめながら私に言った。


「確かに、考えたことなかったなあ。ちゃんと考えてみるね」


私は、この人のこういうところが好きなのだ。
頭の足りない人や時代に取り残されている人は、その返答として「笑う」「からかう」「的外れのつっこみをする」「はぐらかす」といった選択をしがちだ。
私の羨望する人は、私のことを一人の人間として扱ってくれる。女性ではなく、人間として。
当たり前にカテゴライズしないその新鮮な脳と、拾い上げる言葉の聡明さに、ただため息をつきたくなるのだ。


「でもそうなったら、もうさーちゃんにこうやって話聞いてもらえないね」
「え?」
「あ、そういう時こそあの子の出番か。比良くん」
「なんで? 今の彼氏さんが“女の子”に変わっただけじゃないですか。いつもみたいに私に相談すればいいのに」


少しの沈黙の後、「あ、そっか」と泡を吐くように小さく漏らした。
なかったことにしようとする名前さんに、さっきの言葉の真意を説明するよう詰め寄った。


「ごめん、なんか勝手に好きになる女の子をさーちゃんにしてた」
「え、」
「わー恥ずかし、ごめん! なんかちゃんと想像したら隣にいたのがさーちゃんだったの!」


私が恋人だから、もちろん相談する相手は私じゃない。
その事実がだんだん浸透して理解しきった瞬間、私を形成する筋肉全てがゆるんだ。
ただ私は芸人で、目元と口元だけは死守して、だらしない顔だけは作らないように「えー」とか「んー」みたいな音を出して場をつなげた。


「待って。そこで比良が出てくるってことは…… 私と名前さん喧嘩してんじゃん」
「……ほんとだ」
「駄目じゃん!」
「だめだった〜」


昼に浮かぶ月みたいに無色透明なその笑顔を、私はいつまでも見つめていたい。
陽の当たらない感情はあまりにも愛しすぎて、人に流されても時間に流されても、この気持ちだけはどうしても捨てられなかった。
あなたに会う前は、それを隠すために少し長い時間鏡の前に立つ。
たばこの煙に晒された素肌とか、気に入らない恋人への劣等感とか、愛と呼べないあなたへの深い愛とか、そんな汚いものを隠す私の努力を、どうか死ぬまで、知らないでいてくださいね。
























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