「九条くんて、若いのに紙たばこやんね。珍しい」


年上の先輩やスタッフさんからよくもらう言葉の一覧に、これがある。
二十代でたばこを吸う人も珍しい中、電子たばこではなく紙巻きというのは、世間から見たらまあ珍しい方なのかもしれない。
粗品さんはたばこも吸えないのに葉巻に手を出したらしいけれど。


「かっこいいからたばこ吸うてても画になるよね」
「ほんとに」
「イケメンはええなあ」


その言葉をもらうたび、僕の頭には紫煙をくゆらすあの子が浮かんでは消える。
細い艶のある黒髪が風ではらはら舞い、短いスカートから白いふとももを放り出し、田舎のだだっ広い空の下で白濁の煙を吐き出していた。






「なんやねん、目つき悪いのう」


物怖じなんて単語は彼女の辞書には載っていなかった。
男の僕にも平気で啖呵を切れて、彼女の身につける物は彼女の好きな物だけで溢れていた。
汚らしい噂も蛇をも石にする視線で一蹴していたし、何よりたばこを挟むその細い指の品の良さこそが彼女の真の姿だと、僕は声を大にして言いたかったのだ。


「これ、進路相談に必要やから書いて持ってこいって」
「ああ、それで来たんか」
「そろそろ学校来おへんと、出席日数不足で卒業できひんで」
「そらあかんなあ」


彼女の吐く煙が、冬の高い空で雲に変わった。
僕はつくづく女子に生まれないで良かったと思う。いや、魅力のある女子に、に訂正しよう。
クラスと言わず学年を牛耳る女子生徒と好きな人が被ったというだけのことで、彼女は凄惨ないじめの対象になって、教室から忽然と姿を消した。
学級委員である僕は、あの糞以下の学校で唯一彼女と対話できる十八歳なのだ。


「学級委員て大変やな」
「一年の頃、してた時期あったやんな」
「そんなことよう覚えてんな」
「僕、記憶力いいねん」
「学級委員、進路どないするん?」


彼女の口から、僕の名前は出てこない。知っているのかどうかすら怪しい。
たばこの火をアスファルトに押し付け、手首にぶら下げたビニール袋に迷いなく入れた。
僕は「まだ分からん」と伝えると、興味なさげに「ふうん」、とつぶやいた。


「自分、はよ帰りや」
「なんでなん。これからなんかあんの?」
「ないけど、あたしとおるとこ見つかったらあんたがいじめられんで」


二本目のたばこには火を付けなかった。彼女も、この誰もいない河川敷から去るつもりなのだろう。
負ってしまった傷は、僕みたいな凡庸な人間には図り知ることはできない。まだ癒えない自身の生傷を顧みることもせず、彼女は僕を慮っていた。それが単なるクラスメイトという存在でも、きっと彼女は澄んだ良心を真っ赤に腫らしてしまうのだろう。


「ええわ。どうせあとちょっとやねんから」
「……そやな」


あとちょっとやもんな。
彼女は目に黄昏時の夕焼けを映して、薄く笑った。
僕はその笑顔に少しの安堵と、抱えきれない後ろめたさを全身で感じた。
木枯らしが彼女の身をよろけさせ、停めてある自転車も横に倒れそうになる。


「ほんまにそろそろ帰ろ。さむい」
「名前ちゃん」
「何?」
「待ってるよ」
「待たれてもなあ」
「あとちょっとやねんで」
「うーん」
「ほんならさ、僕も一緒にいじめられたるわ」
「え?」


沈む太陽が世界を真っ赤に染め上げて、僕の頬と彼女の瞳を照らしていた。
「言うのが遅くなってごめん」と言うと、彼女は小さい声で「いい」、とだけ漏らした。
不安でつぶれそうな彼女を抱きしめられるほど、僕の腕は逞しくなかった。ただ、その後彼女が制服を着て学校にいる間は、僕は彼女のそばで笑っていようと決めたし、それを実行した。
彼女は無事一緒に卒業でき、県外への進学も決まった。それ以降も途切れず連絡は続いていたのだが、その後にできた恋人に連絡先を消されてしまい、彼女とのつながりは完全に断たれてしまった。






「ほな、最後の人鍵よろしくー」


納得いく出来の舞台を終えた後、まだ創作意欲の火種が燻っていたこともあり、集中力が途切れるまでネタを書くことにした。しかしそれほど長く続くものではなく、あっさり細い煙がのぼってしまい身支度を整えた。
裏口から外に出ると、大きな月が汚い街を照らしていた。
ポケットの中で、スマホが震えた。着信だ。
画面を確認するが、登録されていない無機質な数字の羅列しか表示されていなかった。
でもなぜかその数字に違和感を覚え、僕はしばらく見つめた後着信ボタンを押し、謎の人物の声を待った。


「小川くん?」


電話越しの声が、僕の背後と重なって聴こえた。
後ろを振り返ると、記憶の中にない女性の姿があった。しかし、その見知らぬ彼女に魂が震える感覚がした。
涙腺が崩れそうになったと同時に、唇が麻痺する。
月の香りが充満する雑多な夜に細い黒髪が攫われ、僕はとうとう我慢できなかった。


「名前ちゃん……?」
「ああよかった、忘れられてるかと思った」


くしゃっとした笑い方に、十八歳の時の向こう見ずの彼女を見た。
電話を切った彼女は、小走りでこちらに向かって来た。
十年経った彼女は毒の抜け切った透き通った肌色をしていて、その突然の変わりように僕は驚きを隠せないでいた。
その僕を汲み取って、彼女は笑顔を絶やすことはなかった。


「なんで……?」
「実はね、今日のライブ観ててん」
「えっ!?」
「テレビ観ててね、コウテイの九条くんて小川くんに似てるなあって思ってたの。見かけるたびそう思ってたら、なんかもう確かめたくなってもうてね、今日来ちゃった。したら、ほんまに小川くんやった」


牙も抜かれたのか、彼女から出てくる言葉や声色は当時のそれとは正反対だった。動揺は、もちろん隠せていなかった。
一瞬の沈黙が、一時間にも思えた。
「呼び止めてごめん」、と彼女が去ろうとしていたのを、何か理由をつけて長びかせたかった。
こういう大事な時に頭と口が回らない自分に苦笑したくなったが、そんな暇すら惜しく僕は何かしら声を出して彼女の気を引いた。
情けないことこの上ない僕に、彼女は声のトーンを変えず僕に言葉をかけた。


「ひとつ聞いていい?」
「うんっ」
「卒業してからすぐ、なんで着信拒否にしたん?」


風の音か、胸騒ぎの音か、そんなもののせいで僕の頭の中はめちゃめちゃになった。
彼女からの質問に期待しかしていなかったさっきまでの自分を殴ってやりたい。
彼女は笑っているのに、泣いているように見えた。
呼吸ができない。


「言うて。もう時効やん」
「……ごめん。昔付き合ってた子が携帯いじってもうて、連絡先消したって言うてた。誰に聞いても名前ちゃんの連絡先知らんって言われて、たどり着けへんかった」
「小川くんの意思で消したわけではないってこと?」
「うん、」


本当はそのあとに「そんなことせえへんよ」と続けたかったが、涙腺がゆるんで言葉が流れていった。
彼女は泣きそうな笑顔から一転、心の底からほっとした表情を見せ、祈るように「よかった」とつぶやいた。


「嫌われたんかと思ってた、今までずっと」
「そんなわけないやん。なんで僕が名前ちゃんを嫌うん」
「そりゃ迷惑かけたし、高校時代」
「迷惑とちゃう」
「私、小川くんと縁が切れたのがきっかけでね、その、ちょっとだけ変われたんよ」


その変わった様に、僕の心臓は大きく揺れて、涙が溢れてしまいそうになっていることを、彼女はきっと知らない。
張りつめていた空気が、彼女の周りだけやわらかくなる。


「私も時効やから言うね」
「ん?」
「私、小川くんのこと好きやってん」


何度、あなたの声でその台詞を聞きたいと願っただろう。眠れない夜に、何度頭の中でこのシーンを繰り返しただろう。
気持ちのすれ違いが幾度となく折り重なったが、こんなドラマチックな終わりが待っていたのだと思うと感慨深いものがある。
続けて彼女は、すみきった笑顔で言葉を紡ぐ。


「もたもたしてたら小川くんには恋人ができて、声も聞かれへん状態になった。つらかったけど、テレビで小川くん観てたら自分だけめそめそしてたらあかんなと思って、昔に比べたらだいぶ社交的になれたん」
「そう、なん」
「たばこもやめて、女の子とも仲良くなれて…… 彼氏もね、できたんよ」


もう一人の僕が言う。
おめでとうと言え。明るく振る舞え。芸人になったんだから、つらくても笑え。
僕を見据える彼女の表情が、みるみる不穏なものに変わる。
僕が笑わないから。僕が泣くから。
鏡のように彼女の顔も僕と同じ情けないものに変化していった。


「ぼくも、誰にも言うてないことがある」
「何?」
「ぼく、たばこ吸うてんねん」
「えっ?」
「高校生の時、あんだけ名前ちゃんに“たばこ嫌や、やめろ”って言うてた僕が、今はめっちゃヘビースモーカー」
「なんで?」
「……たばこ吸ってる名前ちゃんが、きれいやったから」


眉を下げて笑う彼女を、大人になった僕は奪うことができる。
逞しくなった腕も、悪知恵も、彼氏の存在を忘れさせるキスも、僕は全部持っている。
彼女は僕と同じように瞳を薄く濡らして、あくまで笑顔を保ちながら会話を続ける。


「私がたばこ吸うてたことはね、小川くんしか知らんよ」
「彼氏は?」
「言うてへん。せやからあれは、私と小川くんだけの秘密やねん」


当時呼ばれなかった僕の名前とか、二人で共有する秘密とか、今の僕には命を止める弾丸でしかない。
じゃあ僕も、あなたに言えなかった最後の秘密を。
嫌なことなんか腐るほどあって、解散を繰り返して、一人になったこともあって、苦しいことばかりの下積みを経験してまでも芸人を辞めなかった理由は、連絡先も分からないたったひとりのあなたに、僕を見つけてもらいたかったから。
……ああこんなことになるのなら、


「あの時死ぬ気で名前ちゃんを探して、黙って奪いに行けばよかった」
















一途副作用







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