夕食を食べ終わって映画を観ていると、スマホが鳴った。バイブレーションの長さをからして着信の方で、画面を見ると恋人の名前が映っていた。
彼は久しぶりにまとまった休みができたらしく東京から大阪へ帰って来ていて、今日は芸人仲間大勢と日が変わるまで飲みに行く予定だと聞かされていた。
嫌な予感がする。


「はい? どした?」
「お! 出たな名前!」
「そらかけてきたんやから出るやろ。なんかあった?」
「あるある! なんやったかなあ、もうこっち楽しすぎてなあ、東京帰りたないわあ」
「東京帰るんあさってやろ? 記憶だけはなくさんといてよ。ほなね」
「あーまってまって!」


嫌な予感は的中し、彼の周りには騒がしくも楽しそうな声が取り巻いていた。
酔ったら連絡してくる癖は、友人関係だった頃から変わっていない。
三十歳を越えたあたりからは酔っ払い電話が来ることはほとんどなくなったので、なんだか二十代に戻ったような気分だった。
電話越しにノイズが走った後、彼とは違う声が私の耳に届いた。


「名前ちゃん?」
「あれ、リリーちゃん? 一緒やったん?」
「そうそう。久しぶりやなあ」
「ほんまに久しぶり、忙しそうやもんね。てゆうか、晋太郎…… やばめ?」
「あー、久しぶりの大阪の夜やからさ、最初っからピッチ早めで」
「もーあんだけ言うたのに」


私はエンドロール間近の映画を切り、ニュース番組に変えて会話を続けた。
鏡の前に立ち、見飽きた顔をチェックしダサいTシャツを隠すために、カーディガンを羽織る。
二度目のノイズ音が響き、呂律の回っていないバカ声が鼓膜を震わせた。


「名前ちゃん」
「はい」
「むかえきて」
「言うと思った……」
「え、以心伝心?」
「嫌な予感してん」
「嫌な……?」
「駅のロータリーに車停めとくから、そこまでは歩いて来てよ」
「わかった」
「今から出ていいの?」
「うん、まってる」


酔った彼は、少しだけかわいい。その愛くるしさに眉を顰めつつも逆らえない自分は、まだまだ青いなと思う。
飲み会後に迎えに行くのは今まで何度かあって、決まってお店から少し離れたところか人通りの少ない路地に車を停めて、二人で家に帰った。
その時必ず、彼は一人でやって来る。
人見知りの私を心配してか、周りに公言することを嫌っているのか、私の存在を知っているのは相方のリリーちゃんだけだ。


“今家出た”


そう送ってすぐに既読が付いた。
信号待ちの度にバックミラーで前髪を直してみたり、まつ毛の上がり具合をチェックしてみたりと、私は私のことに余念がなかった。
数ヶ月ぶりに会う彼は、きっと何も変わらず彼のままなのだろう。
そして私たちも、何も変わらずなんとなく幸せで楽しい時間を過ごして、そのまま互いの生活に帰っていくのだろう。


“ついたよ”


駅で肩を並べて歩くカップルや夫婦を見て、形容し難い感情を抱える。
それがプラスの類でないということだけは確かで、目を閉じてハンドルに顔を埋めることでしか現実逃避できない。
今から恋人と会うというのに、脳みそに蛆が湧きそうだ。
気分を変えるために明るい曲を選んだ数分後、窓を小突く音が聞こえた。
首を振ると、だらしない笑顔を浮かべた彼氏が佇んでいた。


「音、外まで聴こえてんで」
「うそ、下げな」


急いでサウンド調整をし、一息つく。
ついたところで、違和感を覚える。


「晋太郎、乗らへんの?」
「や、乗んねんけど」


晋太郎が目線を送った先と同じ場所に目をやると、騒がしい成人男性のかたまりが見えた。その中にリリーちゃんがいたのを確認して、心臓が飛び跳ねた。
髪型を整えるどころか、メイクも服装も変えたいところだかそうはいかない。
この人はなんでこうも、いつもいつも急なのだろう。


「あっ名前さん? お噂はかねがね!」
「盛山さんがいつもお世話になってます」
「おい、俺がこいつを世話してんねん」
「どうも、盛山の彼女です、一応」


一応て!
練習していたみたいに揃ったつっこみが轟いた。
男だけの楽しい笑い声がロータリーに響き、私の恋人も例に漏れず一緒になって笑っていた。
テレビで見たことある人、そうでない人はいるものの、きれいに全員男性だけだった。
無意識に安堵のため息が出たところで、彼は無造作に助手席に乗った。


「ほな、帰るわ」
「おう、お疲れさん」
「皆さんすみません、わざわざ送ってくださって」
「気にせんといてください!」
「では失礼いたします。皆さんもお気をつけて」


車を出した後も、全員が晋太郎を思って手を振り激励が飛び交っていて、バックミラーには幸せな光景で満たされていた。
当の本人は食べすぎと飲みすぎで、また違う面で幸せそうな表情を浮かべていた。


「ビジホ? うち?」
「名前んち」
「ん」
「コンビニ寄って」
「水ならあるよ」
「おーさんきゅー」


ペットボトルは軽く開けられる程度の酔いのようで安心した。
喉が一回ごくんと鳴ったきり、喋り疲れたのか晋太郎から言葉が出てくることはなかった。


「疲れた?」
「いや、全然」
「明日はなんか予定あんの?」
「んーーーーーー……?」
「ほんならゆっくりしよか」
「んふふ」


彼の服からはたばこと、ほんのりアルコールの香りが漂っている。
遥か先の信号は青色に灯っているが、この距離だと一度止まらないといけないだろう。減速して停止の準備に入ると、左手に体温を感じた。
ブレーキを踏むと同時に、アルコールで上がった体温で私の左手を包み、指を絡ませてきた。


「びっくりした」
「ん?」
「会うならちゃんとした服と顔で来たのに」
「顔はどうやって用意すんの?」
「まず今世で徳積んで美形の親の元に生まれます」
「なんぼほど時間かかんねん」


車は発進したが、手は握られたままだった。
確かめるように何度も絡み合うあたたかい手が懐かしくて、その懐かしさに甘い痛みが走る。


「仕事は?」
「だいぶ落ち着いた。新人も定着したし、春からは通常運転かな」
「なーなー」
「なーにー」
「東京来おへん?」
「行くやん、来月」
「ちゃうちゃう」
「何が?」
「いっしょに住まへん?」
「ごめん」


つないだ手を離すための謝罪が、彼の台詞にぶつかってしまった。
目を合わせなくても、彼の絶望した表情が分かった。
「曲がるから」、と一言添えると、「ああ」、とつぶやいた後深い呼吸を繰り返していた。
心臓に悪いのは、お互い様だ。


「住む? 私が? 東京に?」
「おん」
「晋太郎と?」
「おん」
「うーん……」
「何が嫌やねん」
「喧嘩売らんといて」
「喧嘩とちゃう。二つ返事やと思ってたからびっくりしてんねん」
「私やって私の生活があんのよ。仕事やってそうやし、親のことも考えてまうし、友達とも離れたないし、あと、」
「あと?」


私は、自分の選択が間違った際の言い訳を考えていた。
考えるどころか、あろうことかそれを彼に伝えていた。
ずっと欲しかった幸せに似た物は、手に入りそうになる瞬間に牙を剥く。いや、私が背を向けている。
自宅に到着し駐車場から部屋へ戻るまで、私たちは一言も言葉を発さなかった。
ドアを閉めた瞬間なぜだか涙が出て、彼の酔いを覚ましてしまった。


「ああ、ごめん。困らしてもうた」
「ちがう、困ってへん」
「ゆっくりでええから」
「うん」
「ゆっくりで」
「うん」


うなじには彼の大きな左手が添えられていた。
抱きしめられる感覚すらも忘れかけていて、その温度だけでさらに鼻の奥がつんとした。
こんなに近くにいるのに、彼から酒のにおいがしない。不思議に思っていると、彼から名前を呼ばれた。
見上げると、世界で一番かっこいい顔があって、その人は緊張を隠すように笑って、もう一度強く私を抱きしめた。


「ゆっくりとか言うたけど、やめや」
「え、」
「名前、結婚しよう」
「え?」
「……あっ! こんなとこに婚姻届が!」
「え!?」
「じゃーん」
「もう書いてあるやん、ぜんぶ」
「そやで」
「……証人欄、リリーちゃんや」
「あいつ、何年も前から証人は俺がやるって言うてたからな。あとは名前のとこ書くだけ」


泣き止んだ直後だったのに、彼はまた私の涙腺を刺激した。
展開が早すぎてゆるく呆けている私を見て、この上なく幸せそうな顔をして笑っている。
ああ、この人はなんでこうも、いつもいつも急なのだろう。

















(水曜レギュラーの盛山さんがご結婚されました! おめでとうございます!)
(ありがとうございまーす!)








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