あなたがいないときはあなたのことを考えてしまう。あなたの隣にいても、手を合わせても、僕の心からあなたが去ることはない。
どうかこの終わりのない感情を、あなたの手で抹殺してほしい。


「名前さん」
「はい」
「僕、明日休みなんです」
「そう」
「……今夜泊まってっていいですか」


僕を見てほしくて、含みを持たせた声色で彼女に囁いた。
きらりと光った彼女の薄い虹彩が、世界を反射している。そこには物欲しげな顔をした汚い僕が映っていて、好きな人に見つめられているにもかかわらず嫌悪感を抱いてしまった。


「休みなら、休めばいいんじゃない」
「名前さんとおると休める」
「そうかな」
「何もしませんから」
「ふはっ」


パソコンと睨めっこしていた彼女が大きくふきだした。そこから軽く声を出して笑い始め、僕の胸は心拍数を上げた。
笑った時の彼女の目元が好きだ。鼻も口も声も、僕を贔屓することなく「九条くん」と一線引いた呼び方をするところも、右手以外は触らせない鉄壁の貞操観念ももう、全部大好きなのだ。


「何もしませんって宣言しちゃうところがね〜」
「なんすか」
「逆にエロいよね」
「いじわるっすね」


そう、この憎たらしい意地の悪さが僕の心を解放してくれないのだ。
名前さんは最後の恋で傷ついて以来、そういった類については食傷気味になっているらしい。婚約破棄だったそうだ。
名前さん交えた女性スタッフ同士の会話の中では「当分恋愛はいい」「休みたい」「1人でいたい」といった言葉がよく聞こえてくる。
僕はそれを知らない体で、必死に馬鹿を装って彼女に振り向いてもらおうとしている最中なのだ。


「九条、帰らへんの?」
「ああ、今名前さんに舞台装飾のこと聞いてるから」
「ほな先帰るで。名字さん、お疲れ様です」
「はぁい、おつかれさまー」


彼女に恋して一年半、アプローチして一年。成果なんて何ひとつなかった。
二回目の飲み会で彼女を自宅に送る役を勝ち取ることができた。
その夜道、対向車の排気ガスを避ける目的で彼女の細い手を引いた。酔ったついでに彼女のマンションまでずっと手を繋いで歩いてみて、振りほどかれないことに気を良くした当時の僕は、何を勘違いしたのか彼女にこう言ってしまった。


「名前さん、今夜泊まってっていいですか」


ここでのミスが、今の苦しみにつながっていると言っても過言ではない。
軽薄なこの台詞に名前さんは僕の手を離して、代わりに紙幣を握らせ冷たい笑顔で言い放った。


「九条くん、気を付けて帰ってね」


一世一代の勇気を奮ったも虚しく、僕はタクシーの中で一人反省会をすることとなった。体内のアルコールが一瞬で蒸発してしまい、今思い出しても深いため息が出てしまう。
あれ以来彼女に対するアプローチがしやすくなったのは不幸中の幸いだが、彼女は家どころか二人で食事すら応じてくれない。


「……何をしているのかな?」


マウスを握る彼女の手の上から、自身の手を重ねてみる。
思った通りの反応で悲しくなったが、跳ね除けない彼女の優しさに胸の奥がちくんと疼いた。


「誰もいませんよ」
「いるよ」
「どこに」
「どこかに」
「名前さん」
「はい」
「もう誰も好きにならへんの?」


彼女の体温がゆっくり低くなるのを感じた。
目は口程に物を言うとはこのことで、彼女は何も発さなかったが、僕の言葉に対して引け目を感じていることは分かった。


「前の彼氏、どんな仕事してたんですか?」
「……プロダクトデザイナー」
「僕と正反対ですね」
「そうね」
「じゃ、僕は名前さんのこと幸せにできると思いません?」
「…………」
「僕の何があかん?」
「九条くんがだめとかじゃないよ」
「じゃあ何?」


僕が子どもなせいで、彼女を無理やり現実に向かわせようとしている。
何?、と問われると、出てくる答えは必ず彼女の弱い部分でしかないと分かっている。分かっているのに聞いている。
彼女がそれを口にしたらすぐ、僕が抱きしめればいいのだから。
こういうずるいやり方でしか、彼女の心の隙間に入る術が思いつかない。


「おーい、今日ノー残デーやぞー」
「はーい」
「なんや九条もおったんか。そろそろ電気消すぞー」


僕の重ねた手の下にある小さな手は、他人の陰にこんなにも怯えている。その驚きように痛みが走ったが、ごまかすように鼻で笑ったら全く凄みのない顔で睨んできた。
足音が遠ざかったことを確認し、僕は彼女の唇をついばんだ。
予想を上回るノーリアクションで、キスしたこっちがびっくりしてしまう。


「だめだって」
「まただめって言う」
「愛が欲しいなら、ちゃんと愛してくれる人を好きにならないとだめってこと。そうしないと九条くんが傷つく」


彼女の心は包帯でぐるぐる巻きにされても尚血が滲んでしまう程の傷だから、僕の不毛な恋愛感情に対しても心を痛めてしまっている。
今にも涙をこぼしそうな彼女に、もう止まることなんてできなかった。
遠くで誰かが談笑する声が聞こえたから、彼女の両耳をやわらかく包んだ。


「何?」
「キスしていいですか」
「え?」


耳を塞いでいるのだから聞こえるはずがない。
卑怯者なら卑怯者らしく、彼女の身体の一部を盗んでやろうとしたが、変なところで良心の呵責が声をあげて、少しだけ迷いが出てひるんでしまった。
近くで見る彼女の頬には、まつげの影が落ちている。
タイムラグが生まれたとしても、僕の思いは遂行された。途中から、彼女は僕が何をするか分かっていたはずだ。それでも、逃げなかった。
深くなっていくにつれ彼女の呼吸は荒くなったが、肌から拒否のにおいはしなかった。


「……何すんの」
「言いましたよ、僕。キスしていいですかって」
「いいって言ってない」
「そうですか、聞こえませんでした」
「……九条くん」


怒られる、と反射的に背筋が伸びた。
しかし彼女の顔はいろんな感情が織り交ざっていて、僕の小さい脳みそでは判断できなかった。
彼女は涙をため、泡を吐くようにしゃべる。


「九条くん、ありがとう。好きって言ってもらえてうれしい。でも、私恐いんだ。もうあんな思い二度としたくない。裏切られたくない。だから、好きって思ってもそっちへ飛び込めないの。九条くん、」


なのに、私も、あなたのことが好きです。
そう言った瞬間、彼女の涙が机に落ちた。それはまるで、真珠が砕かれるような美しい光景だった。
彼女の左目から流れる涙を指で拭う。視線が合う。彼女の薄い虹彩には、醜い卑怯な男が映っている。


「名前さん、今夜泊まってっていいですか」
「……何もしないならね」


僕は、この意地悪な笑顔が大好きだ。
あなたが望むなら、降りそそぐ悲しみを弾く傘になる。
あらゆる敵と闘う獅子になるし、深い眠りを守る竜にもなる。
今日は、あなたの傷に包帯を巻いて、ただ抱きしめられるだけのぬいぐるみになる。
だからあなたを想って一筋だけ感情をこぼすことも、今夜だけは許されるだろう。
















(あなたなんか、僕と幸せになってしまえ)







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