その日、男楽屋は湧いていた。


「名字さんて、彼氏おるんかな」
「おらんて聞いたで」
「なんでそんなこと聞くん」
「や、なんか最近ええなーと思って」
「あーわかる」
「仕事完璧やもんな」
「キャピキャピしすぎてへんのに、笑ったらめっちゃかわいない?」
「あーそういう奴ほどなあ……」
「なんすか辻さん?」


先輩、後輩、同期、スタッフ、全員の視線が今俺に向いていた。
こいつらみんな、彼女の印象を知りたがっている。それが事実なのか虚構なのかも振り分けないで。


「風呂とか長そう」
「え?」
「男友達に気持たせそう」
「えっ?」
「ホラー映画無表情で観てそうやし、酒癖悪そうやし、料理苦手そう」
「……辻さん、名字さんのこと嫌いなんですか?」


視線の温度が冷ややかなものに変わっていくのが分かる。
「想像やで」、とだけ付け加えると、各々頭を抱えるなり首を捻るなりして彼女の印象を脳の中でこねくり回している様子だった。
スマホに目線を落としたが頭の後ろらへんで彼女の話はまだ続いていて、俺はポケットからイヤホンを取り出し世界を隔離した。






女性楽屋は、今日も賑やかだ。


「辻さんて、なんで彼女おらへんのかな?」
「ほんま謎よねー。やばい性癖持ってるとか?」
「辻さんでやばい性癖とかご褒美ねんけど」
「あんたやばいって」
「最近髪分けてるの好きー。かっこいいですよねー」
「うーん……」


思った以上に唸り声が響いて、辻さんの話をしているグループたちがわらわらと私を囲んだ。
名前の彼氏いない歴六年もマンゲキ七不思議の一つなんやけどね、と先輩スタッフにぼやかれる。知らなかった子たちは「えー!」、と驚愕の声を上げるが、私は笑って受け流した。


「名前ってどんな人が好きなん?」
「えー? めっちゃむずいですその質問」
「前の彼氏が忘れられへんとか、は」
「ないですね」
「やんねー」
「それこそ辻さんとかどうです?」
「辻さんねえ……」


その提案にギャラリーが揺れて、年下の子たちなんかは目を輝かせながら寄ってきた。
腕を組んで考える私に、周りはわくわくしながら言葉を待っている。


「なんか、トイレとか長そう」
「え?」
「女性にきゃあきゃあ言われてるの鼻にかけてそう」
「えっ?」
「一緒に寝てたら布団とか剥ぎ取られそうやし、愛情表現とかしてくれなさそうやし、休みの日なんか昼まで寝てそう」
「名前、辻さんのこと苦手?」


キラキラエフェクトの目が途端にもやがかかったものに変わり、明らかにみんなが私を憐れんでいるのが伝わった。
散り散りに元いた席に座ったり、自販機に行ったりと、仕事前の普段の光景が戻る。
楽屋を出てエレベーターを待っていると、先輩スタッフはさっきの私の反応が忘れられなかったみたいで、否応でも話の続きになった。


「今日の飲み会、辻さん来るよ?」
「ですね」
「いいの?」
「私、辻さん嫌いなわけじゃないですよ」
「そうなん〜?」
「さっきのは全部ぽいな〜って思ったことですから」
「心にうるおいが足りてないんちゃう?」
「んん?」


ひそひそ笑っていると、後ろから「お疲れ様ですっ」と元気な声が轟いた。
振り返ると辻さん率いる芸人の集団がいて、私たちは驚きと焦りを隠すあまり気持ち悪いほどの笑顔で挨拶をした。


「何? なんの話してたんすか?」
「ふつうに仕事の話」
「名前の心のうるおいの話」


全く違う返答が被って出てしまったものだから、男性陣は頭の上にはてなマークを浮かべてこちらを見ていた。
後に来たこの人たちも下に行くみたいで、乗り合わせて下階を目指した。
後から乗ってきた辻さんは、私の後ろに立った。


「名字さんて、酔うとどんな感じになるんすか?」
「私? あんまり酔うほど飲まへんからなあ。べつに変わらんと思うよ」
「そうなんすね! 辻さんの印象大はずれ!」
「印象?」


辻さんを見上げると、一瞬目が合いその後逸された。
無表情だったが、「要らんこと言いやがって」、というような顔をした。
その意思を汲み取って、エレベーターの階数がだんだんと減っていく何も面白くないところを注視する。


「お疲れ様です」
「はい、ではまた後ほど」


辻さんは私に目もくれず颯爽と目的地まで歩いて行った。その様子に、先輩はため息をつき私の肩に手を乗せる。


「心配すんな、名前はかわいいよ」
「無理に気遣われると余計傷付きますって」


この笑い声、辻さんには聞こえただろうか。どっちでもいいと思った。






飲み会は、わりと好きな方だと思う。
何を話すかと聞かれると、楽屋で話していることの延長なのだが、アルコールが入るのと入らないのとではやはり違ってくる。
ハイボールを二杯空にしたところで、いつの間にか隣には最近入った若手スタッフが鎮座していた。


「辻さんて、彼女いらっしゃらないんですか?」
「ん? おれへんよ」
「意外です、かっこいいのに」
「んなことあれへんて」
「どんな女性が好きなんですか?」
「あーーーー…… 少食な子?」


斜め向かいに座っている名字と目が合う。
彼女は三切れ目のとんかつを頬張ろうとしているところだった。衣がはじける気持ち良い音が聞こえて、思わず口元が緩みそうになった。
質問攻めしてきたスタッフが、ビールで揚げ物を流し込む彼女に向かって「よく食べますね」、と無邪気に笑っている。


「名前さんも彼氏いないんですよね?」
「う・うん」
「名前さんはどんな男性が好きなんですか?」


胸いっぱいにとんかつを詰め込んだ彼女は胃のあたりを軽く叩いて、食道の通りをなめらかにし喋られる状態を作る。
少しの沈黙の後に、「……変な食べ合わせしない人?」と、俺のハイボールとカレーライスの組み合わせを見て返答した。
甘いお酒を飲んでいるスタッフは適当に相槌を打って、また俺の方に体を向けて話し始めた。
気まずそうにハイボールを口に含んだ俺を見て、名字が会心の笑みを浮かべる。


「名前、この人どう?」
「ん? 誰ですかこの方?」
「私の友達。消防士やねん」
「へーすごい。大きいからいっぱい食べそう」
「どう?」


どう?、の意味は、話を聞いている人なら全員分かるレベルの易しい質問だった。
答えを迫られている当の本人は、どっちつかずの曖昧な返事をしていて、盗み聞きしているこっちがやきもきしてしまうほどだった。


「いいじゃないですか。名字さん大食いやから、それ以上食べてくれる人やったら薄まりそっすね」


笑い声に包まれる個室内で、今日初めて彼女とばちっと目が合った気がした。違和感を覚えたのは、きっとこのメンバーの中では俺だけだっただろう。
彼女はすぐに目線を下に向け「そうですね」、と至極普通の返答を俺に投げ、飲み会が終わるまで俺の顔を一切見なかった。
店を出て二次会に行く人、帰宅する人の点呼をしていた際、どんなに遠くても彼女の声だけは聞こえた。


「すまん、今日は俺も帰るわ」


解散した後の彼女の背中を見つめていると、終わりまでずっと隣にいた若手スタッフの子から連絡先の交換を求められた。
迷いが生じたが、この場を上手く切り抜けるために交換をして、ようやく俺も帰路につけた。






“どこ?”


スマホ画面を一瞥して、ポケットに入れる。
居酒屋から少し離れたコンビニに入って、必要なものを購入した後気になっていた雑誌を読んでいると、肩で息をする大きな男が入店してきた。


「返事せえよ」
「見てなかった」
「嘘つけ」


息を整えようと大きく呼吸を繰り返したものの失敗し、むせている彼を怪訝な視線でコンビニ店員がこちらに目を向けた。私が頭を下げると、どうでも良さげに業務に戻っていく。
私がコンビニを出ると、当たり前のように男も一緒に退店し、当たり前のように隣を歩く。もう肩で息はしていないようだ。


「消防士とか、あかんわ」
「何急に」
「あいつら性欲えぐいぞ」
「人それぞれでしょう」
「いや、消防士という職業は絶対にそうやねん」
「芸人のくせに何を言う。謝んなさいよ、全消防士に」
「なあ」
「はい」
「怒っとったやろ」
「何のこと?」






彼女から手渡されたミネラルウォーターは、既に半分にまで減った。
彼女は真っ直ぐ前を見据え、色とりどりのネオンに瞳をきらめかせていた。


「もう言わん?」
「何を?」
「付き合ってること」
「なんで」
「いろいろとめんどいやん」
「言うたらお互い仕事やりづらくなるやんか」


名前と付き合う時、プライベートを大事にしたいからこそ仕事場でのメリハリをつけようと、意見が一致して周りには公表しないことを二人で決めた。
一応バレずに二年が経ったが、公表していたら避けられた問題などがいくつかあって、俺はそれに直面するたびに頭を悩ませていた。


「後輩がお前のこと気になるって言うてた」
「へーそうなん」
「めっちゃネガキャンしたった」
「えー何言うたん?」
「風呂長そうとかホラー映画無表情で見そうとか」
「ええよ、ほんまのことやん」


後輩の言うとおり、名前は笑うとめちゃくちゃかわいい。
彼女から笑顔を向けられると、男のほぼ全員がやる気に満ちるような、そんな力を持っている。だからこそボディーガードなしで彼女を野放しにすることに苦言を呈したいのだが、彼女にそんなことを言うと「気にしすぎ、仕事しろ」と言われてしまうのがオチだ。


「皓平くんの隣におった子」
「おお」
「あの子もあなたのこと好きやん」
「も?」
「も」
「まだ誰かおんの?」
「……私?」


酒癖が悪いと後輩には言ったが、彼女は酒が入ると理性のリミッターが外れてしまう。そうなると大変なのは周りの男、いわゆる俺で、彼女がかわいいあまりに呼吸困難になりかけ全てが欲しくなる衝動に駆られるので、男の前で酒を飲んで欲しくないというのは正直なところだ。


「私も言うたった」
「何を?」
「皓平くんはトイレ長いし布団剥ぎ取るって」
「断定してるやん」
「そうやん」
「そうやけど」
「あと愛情表現しなさそーって言うた」
「いやそれは嘘やん」
「えー?」
「えーって! ……え、足りん?」
「うん、まだ欲しい」


素直に、もっと愛してほしいと言われたことに不覚にも照れてしまった。そして、それが彼女にバレてしまった。
夜道でからかい合う俺たちはあまりにも幸せで、それなのにもっともっと幸せになりたいと願ってしまう。


「名前」
「ん?」
「今日いっしょに風呂入ろ」
「うん」


彼女がぶら下げていたコンビニ袋の中には、俺が好きなお菓子がいくつも入っていた。
帰宅してドアに鍵をかけた瞬間彼女の唇を完食して、感情のその先に向かう。
彼女の名前と愛の言葉を紡ぐたび、名前は満足気に身体をよじり俺に応えた。
明け方の白んだ空がカーテンの隙間から入り込み、彼女の肌を照らしている。
なめらかな背中を撫でた後、小さな身体をやわらかい毛布に包んで、再び瞼を落とした。
スマホに通知が来ていたが、そんなもの今もその先もどうだっていい。
























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