彼と最後に会ったのはちょうど八月一日だったから、顔を合わせることなく季節がふたつほど過ぎ去ってしまった。
連絡は取っているものの返ってこないことなんてザラで、コミュニケーションというよりは生存確認に近いものになっていた。


「彼女なんて肩書きだけよ」
「うーん」
「昨日も東京のアイドルちゃんたちとテレビ出てた」
「うーん」
「今日は東京の女優さんと一緒らしい」
「うーん」
「…………」
「自分で言ってへこむなよ」


へこんだ日は、とことん燃費良くいきたい。熱燗をガソリンにするとすぐに深く酔うことができて、何ヶ月も会っていないバカ彼氏と、そんな男のために悩むしょうもない現実の私を忘れられる。
友人はただ酒が飲みたいだけとは言うが、私が遠慮して彼の話をしなかったら気を遣って悩みを引き出してくれる。


「あー酔った」
「久しぶりにこんな酔うてる名前見たわ。相当溜まってたんやな」
「もーほんまに溜まってる。まだ言いたいことある、本人に」
「あかんよ、電話」
「うん、あかん。ここで電話したら、わたし、めっちゃだるいおんな……」


そこまで言って、頭と胃の重みが強くなった。
スマホ画面には現在時刻と、彼とのメッセージのやり取りが照らされている。
友人に酔った時の連絡はだめ、と制止されているにもかかわらず、くらくらに酔う前にみみっちいメッセージを送ってしまっていた。


“バーカ”
“何ヶ月会わへんつもりや”
“顔貸せ”


最後のセリフは昭和のヤンキーさながらだな、と意外と俯瞰で見ることができている自分がいたのだが、次のメッセージに驚くことになる。


“私だけ会いたいと思ってるんが腹立つ”


本音とはいえ、酔っていたとはいえ、これは最低最悪の失態だ。
急いでメッセージを削除しようとしたが、同じタイミングで既読のマークが付いた。
うっかりスマホを落としてしまい、周囲を驚かせてしまった。友人も心配していたが、平然を装ってもう一度画面に向き合ったら、着信画面に切り替わっていた。
そこには、彼の名前が煌々と光っている。


「こんなに酔うてんのにまだ二十時か〜」
「そ、そうやね」
「最高やね〜」
「最低や」


眉間に皺を寄せ鬼の形相で私の目を見た友人だったが、すぐに彼のことを言ったのだと気付いてポテトをつまんでいた。
着信のバイブレーションが終わり、もう一度メッセージを消そうとスマホの中の彼と向き合うと、“どしたん?”と短い言葉が返ってきた。
私はその少ない文字に、とてつもないやるせ無さを覚えた。
どうしたもこうしたもないのだ。半年放ったらかしにされて平気な人間はそうそういない。
心の底では分かってくれていると思っていたが、彼の思いやりのなさに辟易した。


「そろそろ帰る?」
「そやねー」


あれから二時間弱経ち、私たちはお勘定の準備をした。
彼とのメッセージは、“どしたん?”から動いていない。明日の朝、適当に言い訳でもして無かったことにしよう。
残りの一時間あたりで烏龍茶に切り替えたのが功を奏し、視界も揺らぐことなく足取りも確かだった。
駅で友人と別れ、殺風景な地下鉄の景色を眺める。窓に反射した自分は悲壮と焦燥にまみれていて、すぐに目を閉じた。


「ただいま、っと」


暗くて、冷たい部屋。
電気をつけると脱ぎっぱなしの部屋着や、三日前から干してあるバスタオルが目につく。
思わずため息が出た。


「風呂入ろ」


バスタオルを引っつかんで、風呂に入る準備をする。
メイクを落とし、髪の毛を洗っている最中に、玄関のドアが閉まる音がした。
私、鍵かけたっけ……。
シャワーを浴びているのに、血の気が引いていくのが分かる。
最悪なことに、私は今産まれたままの姿だ。ここに入って来られたら何の抵抗もできないまま、恋人との微妙なメッセージのやり取りに悩んだまま殺されて、終わり。
そんな呆気ない最期が頭によぎる。
シャワーを止め、浴室のドアを開けてリビングを覗く。
部屋は荒らされておらず、物音もしない。気のせいだったのだろうか。
素早く体を拭き着替えを終えると、暗い寝室のベッドに横たわった大きな影がゆらりと蠢いた。


「おう、ただいま」


その影は、長い間ずっと会いたかった憎らしい人で、スマホの小さな灯りに照らされた幽霊みたいな表情も、尚愛しく思えた。
彼は現状を上手く飲みこめずにいる私に体ごと向き合うように起き上がった。


「え、なんで?」
「明日夜からやねん、仕事」
「あ、そうなん…… なんかあったん?」
「……なんやねん、会いたいんとちゃうかったん?」


半年以上も放置されていたと思っていた私は、この衝撃的な展開に声も出なかった。
私の彼氏は、「会いたい」と言われたら自分の徒労を顧みずに行動してくれる人だったのか。
あれこれ考えすぎて放心していると、彼が大きなあくびをした。途端に胸が痛む。


「お風呂は?」
「あっちで入ってきた」
「そ…… 今日も仕事やってんやろ? 寝ときよ」


そう言うと彼は再びベッドに横になり、目を閉じた。この状態に入って眠りについたら、彼はアラームが鳴るまで起きない。
安堵なのか、落胆なのか、形容しがたい感情を抱えて濡れた髪を乾かした。
寝る準備が整って、晋太郎の元へ向かう。疲れ果てている大きな男は、既に寝息を立てていた。
ベッドに入り、彼が起きないように背中に少しだけ近づいた。たばこのにおいが鼻腔をかすめ、それだけで幸せになる。
晋太郎が眠ってしまうまでの「あれこれ」を、もう一度考えていた。


「晋太郎」
「…………」
「帰って来るんやったら連絡してきてよ」
「…………」
「あんたが来るなら、ちゃんと部屋片付けたのに」
「…………」
「ていうか、久しぶりに会うんやったらきちんとメイクしておしゃれして会いたかった。なんで風呂上がりすっぴんやねん」


いつの間にか、私の不満は口から出ていた。
烏龍茶で薄めたものの、本物の彼と会えたこともあって今まで我慢していたものがどろどろと流れ出ていく。
夢の世界に行っている彼にだったら、お酒の勢いで本音も言えそうだ。


「なんでいっつもいっつも連絡ぶちるねん」
「…………」
「晋太郎の話も聞けへんし、私の話もできひんやんか」
「…………」
「でも、話したところでたぶん喧嘩になってまうんやろね」
「…………」
「めっちゃ会いたかってんけど」
「…………」
「会えてめっちゃ嬉しいねんけど」
「…………」
「晋太郎は?」
「…………」
「なあ」
「…………」
「最近ずっと考えてんねん」
「…………」
「……私って、ほんまに彼女なん?」


情けない言葉がこぼれ落ちた瞬間、彼の体が動いた。
体をこちらに回転させたため、部屋は真っ暗だが晋太郎がどんな表情をしているかなんとなく分かった。
彼は私を布団ごと抱きしめ、小さな泡を何度も吐くように「ごめん、ごめん」とつぶやいた。


「ごめん、起きとった」
「……最悪」
「名前、ごめん」
「…………」
「泣かんといて」
「あんたが泣かしてんねん」
「ごめん、」


鼻を啜る音が聞こえたと思ったら、私の首筋に冷たい雨がぱたぱたと落ちてきた。
いい大人が二人して泣いて、思い合ってるくせに言葉にできなくて、こんな形で知ることになるなんて私たちらしい。


「仕事が忙しいなんか言い訳にもならへんの分かってんねん。分かってんのに頭のどっかではそう思ってて、なんも言わへん名前にあぐらかいてて、名前が傷ついてないわけないやんな、ほんまにごめん」


抱きしめられる力がどんどん強くなり、私は泣いてられる状態ではなくなった。
痛い、と言うと晋太郎は力をゆるめ、お互い至近距離で見つめ合った。
暗くてもちゃんと顔が分かる。私のこの不細工な顔もはっきり見られているんだと思うと、少しだけげんなりした。


「私も、悪かったから」
「どこが?」
「ちゃんと言わんかったから、晋太郎に。忙しいから返事来んでもええわとか、会いたいとか言うたら迷惑やろとか。全部正直に言うたらよかった」
「うん、全部言うてよ。俺、お前の彼氏なんやで」
「……そう言えばそうやったね」


しっかり嫌味を言うと、泣きながら笑って私の髪の毛をぐちゃぐちゃにした。さらに不細工になったが、それでも良かった。
分からないことがあったら、素直に人に聞きましょう。昔、学校で言われたことがある。
半年積み重なった不平不満は伝え方こそいびつだったが、彼はちゃんと私に応えてくれた。


「あかん、このまま起きときたい」
「なんでよ、寝ようよ」
「せっかく名前に会えたのにもったいないやん」
「いつでも会えるよ。次から会いたくなったらちゃんと言う」
「おん、そうして……」
「……ねむそう」
「名前とおると安心して、むっちゃねむなる……」


瞼が自然と降下し、もう一度私を抱きしめる。さっきとは違って、空気を含むような優しい抱擁だった。
頬や首に当たる髭の感触がくすぐったくて、彼にだけ聞こえる声で笑った。


「名前」
「ん?」
「明日はずっと一緒におろう」
「うん」
「ずっとふたりでおろう」
「うん」
「寝とる時も離さへんぞ」
「ふふ」
「ごめんな」
「私もごめん。寝ようか」
「うん、寝よう、いっしょに」


たばこのにおいで安眠できる私は、だいぶ重症なのだと思う。
朝起きると、昨日までの酒もストレスもすっかり抜けていた。
私の腰には日に焼けた腕が絡まっていて、その姿に涙が出てしまうほどだった。


「晋太郎」


あ、笑った。
その時私は、再度大きな勘違いをしていたことに気付かされた。
こんな小さなかすれた声なのに、夢の途中でもちゃんとあなたは私に会いに来てくれるのね。















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