仕事が終わって駅に着いたら、劇場のスタッフさんに呼び止められた。先日、ハンカチについて追求してきたあの子だった。


「え、酒くさ。なんで?」


どうやらこの子は今日はオフだったらしい。昼から友人と飲んでいたらしく、その友人も帰ってしまって今1人だということだった。


「あたしがおらんかったこと、気づかへんかったてことですよねえ?」
「うーん、今日忙しかったからなあ」
「ひどーい! てか永見さん、あたしがなんでこんなになるまで飲んでたか分かります?」


そんなことにひとつも興味はないし、早く着いたとはいえこんなことに時間を割きたくなかった。
アルコールが入っているからか、むやみやたらに声を張り上げる彼女に苛立った。
しかしこの子を放って1人にしてしまうと悪い男が寄ってきて、名字さんがつけられた傷をこの子も負ってしまうかもしれないと思うと、どうしても無下にはできなかった。


「あたし、永見さんのこと好きなんです」
「そうなん。あの、最寄駅どっち?」
「永見さんは好きな人いますか?」
「うん、おる。で、最寄駅は?」
「あのときの、ハンカチの方ですよね」


女の勘、という言葉が成り立っているだけあって、この泥酔具合でもそこだけはしっかりしていて恐ろしく思った。


「そやで。だから君とは付き合えへん。ごめんね」


酔っているし、とたかを括ったのがいけなかったのか、僕のきっぱりとした言葉と態度を皮切りに彼女は理性がぶっ飛んだように喚き、駅中の視線を一気に集めた。
焦った僕は彼女を宥めたが全く効果はなく、脂汗が体中から噴き出す感覚があった。


「あたしのことかわいいって言いましたよね!」


遂には記憶の捏造までし始め、いよいよたちが悪くなった。
そんなこと軽々しく言わないし、そもそもそういう言葉を使う相手は、僕の中ではもうひとりと決まっている。
なぜかキスを迫る彼女の大蛇のような腕が気持ち悪く、振り解いている際に突き刺さる視線を感じた。
僕を待っていた愛しい人は悲痛な表情を浮かべ、僕に背を向けて走り去ってしまった。


「名字さん!」


名前を呼んでも振り向かない。むしろどんどん遠のいていく。
苛立ちがピークに達した僕は駅員さんを呼び彼女を受け渡し、後輩を呼んで彼女を連れて帰ってくれと一方的に命じた。
僕は、彼女だけを求めて走り回った。
しかし彼女の影すら見当たらず、「なんで走ってんの?」「さっき女の人泣かせてた人や」というような鬱陶しい視線がまとわりつき、僕の心を掻き乱した。


「出てくれ……!」


無機質な機械音が鼓膜を震わせるが、応答がないままプチンと切れる。それを何回も何回も繰り返したが、名字さんに一度もつながることはなかった。






コンビニでとりあえず水を買って、トイレに駆け込んだ。
呼吸を整えて新鮮な水を飲んだら幾分か落ち着いて、再度スマホを開くと永見さんからメッセージが届いていた。


“気持ちを乱してしまってすみません。お話をさせてください”


スマホを切って、コンビニを出た。
生ぬるい空気が鼻から喉に流れ込んで、思わず咽せてしまった。
あの光景を巻き戻して考えてみると、明らかな被害者は永見さんだった。
彼女は一目見て分かるほどに泥酔していたし、あんな酔い方をする人の言葉を信じて永見さんを疑うというのは、あまりにも理不尽だ。
理屈では分かっているし、誰に聞いても永見さんの肩を持つことは歴然だったが、私の過去が、不敵に微笑んでいるのも事実だった。


「……瀬戸、」


瀬戸に相談しようと思いスマホを起動したが、指が止まった。
私は、不安になると毎回誰かに頼ってしまうのだろうか。明確な答えを、第三者に求めてしまうのだろうか。
これからも、ずっと。





「……名字さん!」
「すみません、電話に出られなくて」


賭けに出た。
今日の待ち合わせ場所に永見さんがいたら話し合おう。いなかったら、そういうことだ。
永見さんの思い詰めた表情は、私を見るなりみるみる崩れて、言い表すなら、情けない空気を全身から放出していた。


「どうして私がここに来ると思ったんです?」
「……約束しましたから」
「でも、あんなことになって、」
「名字さんこそ…… どうして戻ってきてくれたんですか?」


永見さんの眼鏡の奥の瞳が、少しの風で揺れている。


「素直になろうと思って」


永見さんの首に、静かに汗が伝った。きっと、大事なものを探して走りまわっていたのだろう。
鞄からハンカチを出して、彼の首に当てる。


「彼女をかわいいと思いましたか?」
「いえ」
「彼女とキスしましたか?」
「いえ」
「あの時私を好きだと言いましたが、それは、今も同じ気持ちですか?」
「……いえ」


降ってきた言葉の理解をする前に、永見さんは私の右手をハンカチごと握った。
目頭がうるみ、鼻をすする永見さんはしばし上を向いて言葉を詰まらせながら言った。


「あの時より、もっともっとあなたのことが好きになりました」


過去の傷口から、絶え間なく血や液体がどろどろ流れているのが分かる。
永見さんの混じり気のないその言葉に、疑う余地すら見つけられなかった。


「変な人」
「え?」
「あんな話聞いて、もっと好きになったなんて」
「へ、へんですか?」
「変ですよ、ど変態です」
「それはちょっと語弊が……」






久しぶりに、彼女の笑った顔を見た。
僕が握る彼女の右手はハンカチが握られていたが、その手からは僕への拒否反応は匂わなかった。


「名字さん」
「はい」
「僕は、あなたのトラウマになるつもりは毛頭ありません」


名字さんは僕を見上げ、まつ毛をぱちぱちとまたたかせた。


「いつまでも僕を疑ってください。いつまでも僕のこと好きかどうか考え続けてください」
「……永見さん?」
「僕はどんなあなたでも構いません。名字さんが名字さんであり続ける限り、僕はずっとあなたを好きな変な人で居続けます」


彼女の大きな瞳から、流れ星のような涙が流れた。たった一筋だけだったが、それは本物だった。
そう、ずっと疑って、ずっと僕を見て気持ちを確認してくれたらいい。そうやって何十年も隣にいてくれたら、僕は幸せだ。


「……おなかすいた」


張り詰めた空気が壊れたのは、あなたの気の抜けた台詞でした。一瞬の沈黙の後、いっしょに笑いましたよね。
でも僕は、あの時本当は人目を憚らず泣いてしまいたかったんです。
男性に対して警戒するあなたが僕にそんなことを口走ったことが、あまりにも嬉しかったから。





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