彼と恋人同士になって初めて知ったこと。
セミダブルのベッドは彼にとっては少し窮屈なこと。ふすまがある日本家屋などの部屋の入口には、高確率でおでこをぶつけてしまうこと。
それを知った後、必ず彼に「頭気をつけて」と言う癖がついてしまった。


「何これ?」


テーブルに置いていた可愛らしい紙袋に気付いた彼は、自分の荷物を置く前に私に質問をぶつけてきた。


「友達からのお祝い返し。たぶん入浴剤やと思うねんけど、開けていいよ」
「名前ちゃんがもらったのに僕が開けてええの?」


彼はそう言ったまま私が立つキッチンまで来て、使っていた水道で手を洗う。
仕事から帰ってきたばかりの彼は普段より目尻が下がった笑い方をする。構ってほしそうにちょっかいを出したり、今みたいに自分に心を向かわせたくて頬にキスしたり、大型犬みたいだなあと私も口元がゆるんでしまう。


「ただいまって言うてさ」
「うん」
「名前ちゃんがおかえりって言うてくれるん、めっちゃ好きなんよね、僕」
「私も、おかえりって言える相手がおることに感動してますよ」
「敬語やめて」
「わざとやって」
「やっと敬語取れてきたな〜って思ってたとこやったから今過敏やねん」
「敬語に?」
「うん」
「左様でございますか」
「やめて!」


住んでいる家は各々あるが、週に2回くらいは動ける方がお互いの家へ行くことが暗黙の了解になっていて、二人ともこの日を楽しみに仕事を頑張っているみたいなところもあった。
私の家のベッドは彼にとって窮屈なのだが、その分くっつけるから、と喜んでうちに来る。
彼専用の箸、コップ、お茶碗、歯ブラシ、下着、部屋着…… 半年くらいかけて生活に必要なものはすべて揃った。彼も自分の物はどこにあるか、きちんと把握している。


「やっぱり入浴剤や」
「これ入浴剤なん? きょうびの入浴剤は洒落てるなあ」
「かわいいね〜、今日これ入れて入ろっと」


箱を開けると、ばらの形をした入浴剤が敷き詰められていて思わずテンションが上がって高い声が出る。
写真を撮って、友人にお礼の文面を打っていると、彼が説明書を読みながらへえ、とかふうん、とかを漏らしていた。


「名前ちゃん」
「んー?」
「これあわあわになるんやて」
「そうなん? 楽しみ〜」
「僕も入りたい」
「うん、入りよ」
「いっしょに入ろう」
「……ん?」


スマホを操作する指が止まる。
彼の方に目をやると、まっすぐで力強い視線で私を見ていた。


「お風呂なら、後で入ったらいいやん……」
「泡なくなってまうやん」
「ほな先入る?」
「名前ちゃんがもろたもんやのに」
「や、私は大丈夫やで」
「僕、名前ちゃんとお風呂いっしょに入りたいなあ」


はっきり言葉に出されて、私はどう切り返すかを考えるために返信に集中した。
送り終わった後、結局良い返事が思いつかずばらの花を凝視していると、お風呂場からシャワーの音が聞こえた。


「軽く掃除して、今お湯ためてる」


私の返事を待つ前に、先に行動に移してはいもいいえも言えないようにしたな。
ありがとう、とぎこちない言葉を素直に受け取った彼は、私の隣に座ってニュース番組を興味なさそうに見ている。


「名前ちゃんちのお風呂、僕んちより大きいから好きやねん」
「そうね」
「お風呂、いっしょに入るん初めてやね」
「そうね」
「名前ちゃんの、」
「大吾くん」


彼は言葉を紡ぐのをやめた。不安気な表情を一瞬見せたが、すぐに口角を上げ私の言葉を待った。
そんな甲斐甲斐しい彼に、私も誠意を持ってちゃんと応える必要がある。


「いっしょにお風呂入るの、嬉しいけど恥ずかしいの」
「うん」
「電気、暗くしていい?」
「いいよ」
「……後から私が入るから、背中向けて待っててくれる?」
「うんっ!」


分かりやすくはしゃぐ彼は、大事そうにばらの花が入った箱を脱衣所に持って行き湯加減を見に行った。
反響した声で「先に入っとるよー」と彼は叫び、静かになったリビングで小さく息を漏らした。


「大吾くん」
「はいっ」
「入るけど、」
「はいっ」
「こっち見たら」
「はい?」
「ころす」


背中を向けている彼は、私の殺気を感じ取ったのか固まったまま動かなくなってしまった。
まっしろなふわふわの泡が湯船を覆っている。肩まで浸かるとお湯のかさが増して、泡が少し流れていく。
お互い無言のまま暗い浴室で呼吸だけを繰り返している。
水圧がかかるのを感じると同時に彼が振り返って、5秒ほど目が合う。


「……殺す」


そう言った瞬間、彼は顔を覆って「いやや!」と懇願した。
目が悪い彼のことだから、浴室の暗さも手伝って私のことなんてほぼ見えていないだろうし、私もこの展開のおかげで少し楽になったのか、笑顔を見せる余裕があった。


「その髪、かわいいね」
「ただ上げてるだけなのに?」
「うん、かわいい、それ」
「ありがとう」


大吾くんの黒い髪には水分が含まれて、普段の彼と同じなのに妙な色香が漂っている。彼が私の髪をかわいいという感情と、ちょっと似ている部分がある気がする。


「見られるの恥ずかしいな」
「僕、眼鏡してないからあんまり見えてへんよ」
「分かってんやけどね」
「じゃあさ」
「ん?」
「こっちおいで、名前ちゃん」
「……え?」
「僕に背中預けたらええよ」


私が大吾くんに背中を預けるということは…… と、頭の中でカシャカシャと計算機が鳴る音がする。
そんなことしなくてもどういう体勢になるかは想像つくわけだが、私は平静を装って慌てずクールに「うん」とだけ言って澄ましていたが、しびれを切らした大吾くんに腕を引っ張られた。
泡で滑らかになった浴槽は踏ん張りが効かず、あっさり彼の脚の間にすっぽり収まってしまった。
彼の両腕は私の胸の前で組まれ、顎を肩に乗せた。


「はい、つかまえた」
「強引やな」
「でもこれで名前ちゃんは僕に見られへんで済むよ」
「そうやけど……」
「名前ちゃん、ちっちゃいね」
「……大吾くんがおおきいのでは?」
「お肌もすべすべ」
「ちょっと、」


鳩尾あたりに絡まる腕は、私の動きを封じてもがけばもがくほど彼に溺れていく。
うなじに舌が這う感覚あり、思わず肩がびくつく。
腰あたりで硬い何かが脈打つのが分かり、どんどん首が垂れる。鼻先がお湯についてしまいそうだ。


「こっち向いて」
「やだ」
「……キスマーク付けるよ?」
「だめっ」


首に這っていた唇が、私の唇に移動した。
脅迫めいた一言で振り向かせるなんて、私のことよく分かってるなあと思えたのは唇を重ねた4秒まで。そこから後は、酸素が薄くて脳が働かなかった。
唇を離されて、肩で息をして呼吸を整える。気が付くと泡はへたって鎖骨より下で揺れていた。
彼の名前を呼ぶより先に私の名前が呼ばれ、耳元でごめん、と吐かれた。


「ごめん、調子乗った」
「や、平気、です」
「…………」
「敬語になっちゃった」
「嫌やった?」
「……ううん」
「名前ちゃん」
「ん?」
「好きです」


あんなに嫌がってた敬語を自分で使うんだ、と笑いそうになったが、溢れてやまない感情を抑えて、でもこぼれてどうしようもなくなっている彼を見て、私もどうしようもなく愛しいと思った。


「お友達に感謝やわ」
「なんで?」
「名前ちゃんといっしょにお風呂入れた」
「そのことは言わんけど、感謝の言葉はまた会ったときにしっかり伝えとくよ」
「名前ちゃん」
「ん?」
「もっかいしよ」
「何を?」
「キス」
「話聞いてる?」
「聞いてないかも」


私は今、付き合ってすぐに瀬戸が言ったある言葉を思い出していた。


「永見くん、たぶんめっちゃキス魔やと思うねん」


不敵な笑みを浮かべ、私に練習しとけとまで言い放ったあの男にこの状況を伝えてしまうと面倒ごとになるから絶対に言ってやらないけど、引っ込み思案の私からしたらかなり嬉しい勘の当たり方だった。


「名前ちゃん、舌」
「ん、」
「だして」


こんな愛され方されたら、心臓がいくつあっても足りない。
彼に触れられる場所すべてが瞬間的に熱を帯びて、理性が飛んでいく。
私はぼんやり、寝室で息を潜める2人で横たわるには小さいベッドのことを考えていた。












大人のくすり
(たぶん名前はめっちゃキス好きやねん)
(ほんまに?)
(うん。せやから積極的にやったり)
(……嫌がられへんかなあ)
(永見くん、俺の勘は当たんねん)






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