1日経って思い返しても、夢のような時間だった。
彼女の名刺の裏に連絡先を記入するよう頼んでくれたのは、彼女の友人であるレセプションパーティーを主催した彼だった。
彼女は気さくに筆を走らせ、その場でかわいらしいスタンプを送ってくれた。
僕が楽屋で長時間スマホと睨めっこしているので、周囲は静かにざわめいていた。


「永見」
「はいっ」
「さっきから何してんの?」


反応が正に、いかがわしい動画を見ていた思春期の男子高校生だった。
肩を跳ね上げ、スマホ画面を胸で隠し、冷や汗を流す僕を見る先輩は、もう何も問いつめまいという視線を投げて、ソファで仮眠を取る準備をした。
再度画面と対峙すると、何かを誤送信したような表示はなく安堵した。


「昨日のパーティーどやった?」
「あーうん、よかったよ」
「なんやねんその感想。小学生か」


相方には昨日の予定を話していたのでパーティーがどんな様子だったのか知りたいようだったが、僕の小学生以下の感想を聞いて悪態をついた。
どうにかしてもう一度彼女に会いたい。次につなげたい。
その思いが強くなればなるほど自分が自分として機能せず、彼女が送ってきたかわいらしいスタンプを凝視することしかできなかった。


「カベポスターさん、そろそろお時間です」


土日は営業の仕事が多く、基本的に休みは少ない。
こんな平和な土曜日の昼下がり、彼女は何をしているのだろう。趣味とか、好きなものはなんだろう。意外と昼まで寝てたりして。


「どうも、カベポスターですお願いしまーす」


そう、僕はカベポスターの永見大吾。
まさかあんな短時間で彼女の虜になるとは思わなかったので、自分がついた嘘がこんな形で自分の首を絞めるなんて考えてもいなかった。
ただ、僕を芸人としてのフィルターをかけずに普通のどこにでもいる一般男性として見てもらえているこの感覚が嬉しくて、暇があったら何度もあの夜の出来事を反芻してしまっていた。





「永見さんは一般男性ですか?」
「えっ?」


何時間も悩んだ挙句、やっとの思いで名字さんに連絡を取ることができて、2回目の食事を共にすることができた。
たまたま仕事が空いていた金曜日の夜に、最近できたらしいバルの予約を取ってそこで落ち合った。
名字さんは所謂オフィスカジュアルな装いで登場し、前回とは雰囲気ががらっと変わっていて気にしていないふりをすることに精一杯だった。


「一般男性の平均よりは確実に上のところにいる気がするんですが」
「ああ、そういうことですか。いえいえ、そんなことないです」


本当は芸人をしていることがばれたのかと思って、素っ頓狂な声を出してしまった。
どうやらそういった意味ではないそうで、少し複雑な感情が僕を取り巻いた。
2回目に会う彼女は初対面の時よりはフランクで、お互い緊張も解けている感じがした。


「永見さん、って……」
「はい」
「おいくつですか?」
「何聞かれるんかと思ったら年ですか」
「え、だってねえ? コンプライアンスの時代でしょ、今」
「その間やったらもっとすごいこと聞かれるんかと思いましたよ」
「すごいこと? お相手はいらっしゃるんですか、とか?」
「相手がいたら、僕は名字さんを誘いませんよねえ」
「まともな方でよかった。たまにいるでしょ、そういう欲に忠実な人間もどきが」


名字さんは自分の考えをしっかり持っていて、嫌なものは嫌、とはっきり意思表示する人だ。
欲の種類は違えど、僕もあなたに対して不純な思いを抱いていますなんて伝えたら、さっきの強い言葉みたいに僕を一蹴するだろうか。
年齢を伝えると、私の2つ上だ、と無邪気に答えた。


「名字さんは」
「はい」
「ご結婚されてますか?」
「んふふ」


ビールを口に含んだあたりでこの質問をすると、噴き出さないように手を当てて笑った。
まさか私が人間もどきに見られてるなんて、とピンチョスを一口放り投げた。
焦る僕を見て楽しそうに笑って、またビールを流し込む。


「結婚はしてないです。これからするつもりもありません」
「そう、なんですか」
「自分のことは自分でできるし、お金も生活できるくらいはあって、貯金もしつつ好きなことにも使えてるので、今の暮らしに不満がないんです」
「ああ…… ちょっと分かりますね」


自立した女性というのは彼女みたいな人のことを言うんだろう。
この一言を序盤に浴びせられたら、怯んで積極的に行けなかった男は多いのではないだろうか。
現に僕も、ちょっとビビっている。


「結婚と恋愛は別ですよね」
「そうですね」
「じゃあ、良かったです」


僕の牽制に気付いてくれたみたいで、名字さんは隣にいる僕の顔をじっと見据える。
長い睫毛と、白い肌に映える桃色の頬と唇にこっちが見惚れてしまう。


「永見さん、モテはるでしょ?」
「モテませんよ」
「自覚ないタイプがいちばん怖いです」
「そういえば最近モテ始めました」
「何それ」


僕の一言でこんなに笑ってくれて、魅力がたくさんあって、そんな彼女に結婚はしないと言わしめたものは何なのか、僕は気になることがたくさんあった。


「永見さん、お代……」
「いいんです、今日僕がお誘いしましたから」
「そんなだめです、お金のことはきっちりしとかな」
「じゃあ、次の時にお返しいただけますか?」
「つぎ?」


食事が終わって財布を差し出す彼女を制し、さらっと次回の約束を取り付けようとした。
その安直な考えを見抜いたのか、名字さんははいもいいえも答えず、下を向いて顎に手を当てて考え事をしているようだった。


「永見さん、次はお昼にお会いしませんか?」
「あっ、えっ? はい、もちろんです!」
「私行きたいイベントがあって、もしよろしければその日ご一緒できたらと思うんですが、いかがでしょう?」


まさかの提案に気持ち悪いほど吃ってしまったが、次の約束はぼほ確定したようで安心した。
しかし、名字さんが提示したその日は土曜の昼間。僕は完全に仕事が入っていて、曇った顔と声を出してしまったせいで彼女の口角を下げてしまった。


「すみません、その日はちょっと予定が入ってて……」
「あ、そうなんですか、残念。じゃあまたおいおい決めましょうか」


この機会を逃すと、次いつ彼女に会えるか分からない。
僕は慌てて駅に向かう彼女の手を取り、「待ってください」と自分でも驚いてしまうくらい大きな声を出した。


「再来週の日曜日なら、一日空いてます」
「ほんまですか、よかった。でしたら、その日にどこかお出かけしましょ」
「はい、そうしましょう。名字さん、どこか行きたいところとかありますか?」
「……大学生みたいなこと言うていいですか?」
「ん?」
「海遊館」
「大学生やん」


もう何年も行ってないから逆に行きたくて、と変な言い訳をする姿もかわいらしくて、頬が緩みっぱなしになる。
再来週の天気はまだ出ていないから、天候関係なく楽しめる水族館を提案してくるあたりかなりの手練れだなと感じたが、この屈託のない笑顔を見ていると僕の考えすぎかなとも思えてくる。


「海遊館楽しみになってきた」
「永見さんはいつ以来です?」
「僕は…… 半年ぶりかな?」
「なるほど」
「なるほど?」
「別れたばっかりやったんですね?」


駅までの道を歩いている最中、さっきの話の続きをしていて僕は地雷を踏んでしまった。
半年前に海遊館に行ったのは事実だった。もちろんそれは彼女とではなく、仕事のロケで行った時のことをうっかり話してしまっていた。
そのまま流すことも考えたのだが、これ以上嘘を塗り重ねることに心が痛んで曖昧な返事をしてしまった。


「今日はありがとうございました」
「こちらこそ、お仕事終わりにありがとうございます」
「いえいえ。ではまた、海遊館で」
「はい、楽しみにしてます」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい、気をつけて帰ってくださいね」


改札に吸い込まれていく松村さんの笑顔を焼きつける。次会える時までの燃料は彼女のこの笑顔と、



「結婚はしてないです。これからするつもりもありません」


あの時の、伏せた睫毛。ヒビの入った声色。彼女を本当の意味で、笑顔にしたいと思った。
僕はたぶん、あの時恋に落ちた。落ちると、痛い。
彼女を思うと少し胸が痛むのは、そういう言葉にできない理屈で成り立っているからなのかもしれない。






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