突然、尖った風が海を揺らした。泣いた子供を母親が抱きかかえ、僕らの横を通り過ぎていった。
名字さんが電話を切ってこちらへ歩いてくる。


「せっかくお洋服を買ったので、着ないの勿体ないなあと思って」
「そうなんですか、」
「行くところも決まってなかったので、サメの写真でも撮って永見さんにお送りしようかなと思って来たんです」
「……名字さん、あの、」
「永見さん、お仕事は何をされてるんですか?」


先ほどとは打って変わって、肌を撫でるようなやわらかい風がスカートの裾を攫っていく。
名字さんの目の奥は、懇願にも似た影がゆらゆらと揺れている。


「すみません。僕、公務員なんかじゃありません」


白状すると、名字さんの瞳から影が消え、同時に光も消えた。
名字さんがスマホを操作して、画面を差し出した。そこには僕たちカベポスターの検索画面が映っていて、心臓が跳ねた。


「これは、永見さんですか?」
「……はい、僕です」


ふう、と小さなため息が聞こえた。僕のではなかったので、彼女から漏れたものだった。
「なんで嘘をついたんですか」と問われ、息が詰まりそうになったがそのままの思いを吐いた。


「ほんの軽い気持ちで…… いつか言おうと思っていたんです。まさかこんなに名字さんのことが気になってしまうなんてあの時には思ってもいなくて、でも気づいた時にはもう引き返せないところまで来ていました。騙すつもりはなかったんです。本当にすみませんでした」


頭を下げ、自分のつま先をただただ凝視する。
しばし沈黙と風だけが流れた後、「頭を上げてください」と彼女の優しい声が響いた。
彼女はバッグから財布を取り出し、お札を何枚か取り出して僕の手に渡した。


「こないだのお代です。ごちそうさまでした」


それだけ言い放って、名字さんは踵を返した。
何が起きたか分からない僕は、情けない声で彼女を呼び止めた。振り向くものの、前とは別人のような彼女に僕も戸惑いを隠せずにいた。
氷のような冷たい声で「なんでしょう」と呟き、その言葉がつららとなって僕の心臓を撃ち抜く。


「あの、これは、その…… もうお会いできないということですか」
「はい。そのつもりで伝わっていたのならよかったです」
「嘘をついていたことは謝ります。でも…… こんな終わり方、」
「女性に強く拒絶されることなく生きてこられたんですね」


僕の弱々しい声を掻き消すような、ぴしゃりとした強い口調だった。
僕を見上げる名字さんの目には軽蔑と、怒りと、少しだけ痛みを伴う悲しみが映っていた。


「私の友人に、芸人に騙されたと言う子がいました。1人ではなく、何人も。内容を聞くとここでは言い表せられないほどのことで、人は違えど、みんな言葉巧みに近づいてきてあっさり捨てられたとのことでした。芸人と付き合う子全員が、同じ末路を辿っています」


言葉が出てこない。
売れていない先輩たちが「女遊びも芸の内」と昔の役者みたいなことを売れていない後輩に囁いて、よく合コンなどで遊んでいることを知っている。
SNSでファンの女性とその場限りの遊びをしている芸人がいることも知っている。
彼女にとって僕は、その人たちと同じ「芸人」なのだ。


「あなたが芸人だと最初から知っていたら、連絡先をお渡しすることはありませんでした」
「…………」
「連絡先は消してください。失礼します」
「名字さん」


延命するかの如く、彼女の名前を祈るように呼ぶ。
彼女は物理的に見上げてはいるが、見下した視線を僕に浴びせた。
どうにもならないことは分かっていたが、僕は彼女にどうしても言いたいことがあった。


「あなたが好きです」


零れ落ちる愛と悲しみが僕を押しつぶしてしまいそうだった。
彼女は一瞬だけ驚いて目を見開いたが、すぐに表情を戻してこう言った。


「嘘ばっかり」


遠ざかる足音だけがやけに記憶に残って、あの日どうやって家に帰ったかすら僕は覚えていない。






予定がぽっかり空いてしまって、せっかくだから新しいスカートを着て外に出よう。
そう思い立ち近所をぶらぶら歩いてみても変わり映えのない景色がただ流れているだけで、今日行くはずだった海遊館にでも行ってみることにした。
メッセージの画面を確認する。
お互いの気まずさが残ったまま終わってしまっているやり取りは気持ちが良いものではないので、写真でも送ってすっきりさせよう。
私は電車に乗って、目的地を目指した。


「あーーーー…… めっちゃ晴れ」


日差しと風を同時に浴びた時、少し遠出をして良かったと心から思った。
家族連れ、カップル、学生の団体がひしめく中、ひとりでいる女性は私以外確認できなかった。
水族館へ入る前に、気持ちの良い天候も手伝って一旦この辺りを散歩してみることにした。
懐かしいなあとか、ここにこんなんあったっけ?とか、感情が目まぐるしく変わっていく中、私はある掲示物を発見した。


「お笑いライブ…… カベポスター……?」


日曜日ということもあって、各所で様々なイベントが行われているようだった。老若男女入り乱れるこういう場所は、確かにお笑いライブは打ってつけのイベントだろう。
私はそのイベントの情報から目を離せないでいた。


「……永見さん?」


公務員で休日出勤のはずの彼がそこに写っていた。
よくよく考えた。ただの他人の空似、兄弟や親族、ドッペルゲンガー……
想像力の足りない私の脳ではここまでが限界で、いちばん濃厚な説がこれだった。


「これ、本人……?」


文明の利器とは悲しいかなこういった場面でも迅速に活躍し、対応する。「カベポスター」と入力すると、すぐに知りたい情報がずらりと表示された。
名前、生年月日、出身地、顔写真、私が知り得ることは全てあの「永見さん」と一致した。
観覧席に行くまで、ほとんど脳の考える部分は機能していなかった気がする。
そして、舞台上の永見さんを確認した時は、脳だけではなく心臓すら止まっていたように思う。


「はい、もしもし」


繋がらなければいいと思った電話なんて、後にも先にもこれだけだ。






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