夜手前の空の色は、やわらかく穏やかに街を彩っていた。
薄いペラペラの月が空に昇っていて、妙に感傷的な気分になる。


「いらっしゃい、永見くん」


瀬戸くんが出迎えてくれる。
扉をくぐると同時にカーテンが締め切られると、広い真ん中のテーブルにはキャンドルと季節の花が添えられ、店内全体は淡い間接照明で温められていた。


「こんばんは」


テーブルの奥から声をかけられ驚いた。そのままの意味でももちろんだが、声をかけてきた相手が僕を奈落の底に突き落とした、あの彼女だったからだ。
開いた口が塞がらないとはこのことで、僕も名字さんもその場に立ち尽くしていた。
瀬戸くんに座って座って、と促されてやっと僕たちは席に着いた。


「もう料理できてんねん。ちょっと待っとって」


そう言って彼は厨房まで歩いて行き、沈黙と同等レベルのピアノ伴奏が流れる。
目をどこにやっていいのか分からず黙っていると、瀬戸くんがお酒と料理を運んでやってきた。
先に言葉を発したのは名字さんだった。


「先日は大変失礼いたしました。つらく当たってしまったようで」
「いえ、あれはごもっともな意見ですので、気になさらないでください」


お通夜のような空気が店内に充満して、呼吸するのもしんどい。
華やかな料理とお酒が並べられて、瀬戸くんから説明を受けている時が唯一の安らぎの時間だった。


「分かれへんもんあった?」
「ない」
「よし。じゃあ俺仮眠取りに一旦家帰るわ」
「え?」
「ほな名前、後はよろしく」


名字さんは黙って首を縦に振った。
瀬戸くんは僕にアイコンタクトを送り、名字さんに分からないように勇気づけてくれた。
裏戸が閉まる音がして、再びピアノの沈黙が流れる。


「ここ最近、何か嬉しいことはありましたか?」
「いえ、特に……」
「そうですか。 私は…… 頂き物のお菓子が好きなチーズタルトだったことですかね」
「じゃあそれに乾杯しましょう」


グラスを重ねると、白ワインの香りが鼻腔に広がった。
お酒を飲む彼女の首筋には控えめなネックレスが施されており、それはこのワインと同じプラチナ色をしていた。


「傷つけてしまってすみません」
「いえ」
「感情的に正論をぶつけられるなんて、とても怖かったと思います」
「お気になさらないでください」
「瀬戸が、あなたは私が思っているような男性ではないと言っていました。それは、本当ですか?」


照明の加減で、名字さんの瞳は琥珀色に輝いていた。ずっと見つめていたいと思ったが、僕が何か返さないと話が進まない。
グラスを一回傾けて、彼女に向き合う準備を整えた。


「本当、だったらいいなと願うばかりです。実際は、そんなに称えられるような人間ではありません」
「そうですか」
「……瀬戸くんは、とても気の利く男性だと思います。それこそ、皆が平均的に思い描く男性像とは少し違う気もします」
「そうですね」
「そんな理想的な男性が名字さんのずっと近くにいてなぜ恋人関係ではないんだろう、と思うことがしばしばありました。そのあたりを、深く聞いてもいいんでしょうか」


お酒と料理のおかげで、少しはまともに話せている気がする。彼女も以前のようなとげとげしいオーラは放っておらず、至ってフラットだった。
彼女はナイフとフォークを静かに置き、僕を一瞥してすぐに視線を下に向けて話し始めた。


「瀬戸から了承を得ているので話します。彼は、同性愛者です」


予想していなかった答えに戸惑ったが、心の湖は波紋すら作らなかった。


「私も最初は知らずに友人関係になりましたが、後に自分から話してくれました。彼の勘はすごく当たるので、私なら伝えても大丈夫だと、強い確信を得て話したのだと言っていました」
「……その強い確信は、なんだったんですか?」


名字さんはテーブルの上で両手を交差させ、過去を一つひとつ辿っている。
今までとは違う種類の沈黙が2人を包んだ。名字さんの呼吸が聞こえる。


「お互いの傷が、共鳴したんだと思います」


そう言うと名字さんは真っ白な指でステムをつまんでゆっくり傾けた。
深く息を吐いて僕に目を向けた瞬間、琥珀色の瞳がうるんだ。心臓が、大きく1回跳ねる。


「私の傷を、お話しします」


名字さんの後ろに、三日月が見える。





top