永見さんは終始深い海のような目の色で、私をまっすぐ見据えていた。
その視線に少しひるんだが、今の私なら大丈夫。


「大学生の時です。私はどこにでもいる普通の大学生で、はたちの誕生日を迎えたばかりでした。当時の私は今より優しくお人好しで、とんでもない世間知らずでした」


大学生活は大変なこともあったが基本的には楽しく、課題に追われる毎日だったもののそれすらも充実していた。
慣れない一人暮らしは自分には合っていたみたいで、お金はないが時間はあって、貧乏学生なりにその生活も楽しんでいた。


「3回生に上がる前の春休みに、ある男友達から相談があると連絡が来ました。電話や居酒屋などでは言えないかなり重い内容だから2人で話したいと言われて、私はすぐに約束を取り付けました」


そのことを当時同級生だった瀬戸に伝えると、瀬戸はしばしの沈黙の後「名前にしか言われへんことなんやろな、ちゃんと話聞いたりや」と笑って送り出してくれた。
友人は私の家まで車で迎えに来てくれ、ドライブしながら話をしたいと言った後颯爽と車を走らせた。
元々静かなところに家を借りていたので夜になると出歩いている人はおらず、それが当たり前になっていて感覚が麻痺していたのだと思う。


「山の中腹で車のエンジンを切られ、ここで私は初めて彼に不信感を抱きました。不安な顔をしてももう手遅れで、相談があると言った弱々しい彼の姿はもうどこにもありませんでした」


いつのまにか座席は後ろに倒され、声を上げられないようにタオルを口に突っ込まれた。
彼は見せつけるようにロープを手に持ち、「騒がん方がええで」と楽しそうに言った。


「内容は割愛します。心情としては、あの時乗っていた車、犯されている最中に肩越しに見えた三日月、男の声、髭の感触、私が女であると言う事実、私の浅はかな他人への無垢な良心、この世のすべてに殺意を抱きました」


車で家に戻された時、「誰にも言うな」「言ったらお前の人生めちゃくちゃにしてやる」と脅され、最後に「俺ら友達やもんな」と不気味な笑顔で締めくくられた。
一人になった私は、部屋に入った瞬間高熱に侵された。電話が鳴るだけで体がびくついて、自分の体なのに他人の物みたいな感覚に陥った。
連絡が返ってこないことを心配した瀬戸が家まで来てくれて、廊下で倒れている私を発見した。


「倒れた私がやっと喋られるようになったのは、次の日の夕方になってからでした。瀬戸はずっと、私の傍で看病をしてくれていました」


瀬戸はたった一言、何があったんやと尋ねた。
私は言い淀んだが、瀬戸に「においがいつもとちゃう」と言われた瞬間、堰を切ったように涙が流れた。


「事情を知った瀬戸は責任を感じていました。相談相手の名前を言われた時、嫌な予感がしたそうです。俺があの時止めておけばと、何万回も言われました。悪いのは瀬戸でも私でもなく、あの男です。今なら胸を張ってそう言えるのですが、当時の私たちは自分で自分を責め、分かりやすく共倒れしていきました」


学校が始まる4月、講義室に入る前に足がすくむのが分かった。呼吸が荒くなり、人を見ると吐き気がした。
私は講義も受けず学校を後にし、自宅に戻った。これが最後の学生生活になるとは思わずに。


「私はそれから、外に出ることができませんでした」


人が怖くなった。
今まで歩けていた場所が恐怖の対象になり、誰かといてもひとりでいても、死にたい以外の感情が湧くことはなかった。
自殺未遂は数えきれないほどした。その度に瀬戸が涙を流し、包帯を巻いてくれた。


「引きこもりのような生活を続けて3年、できることがほとんどなかった私は勉強をだらだらと続け、司法書士試験合格を機にやっと外に出ることができました」


仕事ができること、人と話せること、外に出られること、笑えること、ほとんどの人にとって当たり前のことが、私には尊いものになった。
昔の私の様子が戻ってきたタイミングで、瀬戸は私に同性愛者であることを打ち明けてくれた。
私はそんな事実より、瀬戸にとって重大なアイデンティティを話してくれた真実が泣けるほど嬉しくて、2人して鼻を垂れて涙を流した。


「長くなりましたが、これが私の傷の一部始終です。男性に偏見を持ってはいけないと思い、一度だけあの事件の後お付き合いをした人がいましたが、私の司法書士の肩書と外見にしか興味のない人で、こっぴどい振られ方をされました。私は、今後一切男性の手を取ることはありませんし、信用することもないでしょう。永見さんが悪いわけではなく、芸人さんが悪いわけでもないんです。誤解を招く発言をして、大変申し訳ございませんでした」


永見さんの顔色が恐ろしく悪くなっているのを見て、やってしまったと思うと同時にやっぱりなという感情が渦巻いた。
どう受け取ってもらっても構わないが、大体の人はこんなリアクションをする。
瀬戸の勘は、外れたみたいだ。


「どの言葉を使っても、名字さんの気持ちに寄り添えない自分に腹が立つというか、悲しいというか、なんなんでしょうこの感情は……」
「ご無理なさらないでください」
「何を言っても薬にならないことは分かっています、すみません」


なぜ彼が謝るのだろう。
視線を上げると彼の頬は濡れ、ダイヤモンドのような涙がテーブルに落ちた。


「すみません、僕が泣いたってなんにもならへんのに……」


それは、瀬戸が私を思って泣く姿とよく似ていた。
人目を憚らず、時たま声をしゃくり上げて、そんな誰かのためを思ったきれいな涙を久しぶりに見た。
胸の奥が痛むのを隠すように、私はバッグからハンカチを取り出して永見さんに渡した。


「すみません、お恥ずかしい……」
「恥ずかしいのは私ですよ。こんなしょうもない話、人に話すようなことではないんです」
「なんで僕に、こんな大事なこと話してくれたんですか?」


空になった皿とグラスを交互に見渡し、理由を考えていた。思いついたどの理由もぴったりはまるものがなくて、私は押し黙ってしまった。
その様子に永見さんは「すみません大丈夫です!」となぜか焦って、身振り手振りで私に意思表示をした。


「そろそろ出ませんか?」
「はい。あの、これどうしましょう」
「私が瀬戸に連絡します。少しお待ちください」


話が終わったら連絡をくれ、と事前に瀬戸から話があって、私は席を外し彼に電話をかけた。
仮眠を取っていたはずの彼がワンコールで出たものだから、思わず声を出して笑ってしまった。


「お疲れ」
「うん」
「どやった?」
「うん…… 永見さんは不思議な人やね」
「よかった、ちゃんと話せたみたいで」
「私、まだなんも言うてへんよ」
「俺の勘は当たんねん」


そうなのかもしれない。そうであってほしい。
昔の傷が治ることはないし、私が男性に後ろ姿や眠る姿を見せることもきっとないだろう。
ただ彼なら、永見さんなら信じてみたいと、針で刺した穴みたいな小さな希望が、私の胸の奥底で震えていた。


「今近くのコンビニにおるから、そのまま帰っていいよとのことでした」
「えっ?」
「あ、お代は結構です。瀬戸が私の事務所に請求すると息巻いてたので」


行きましょう、と瀬戸が出て行った裏戸をくぐると、少しの戸惑いを見せつつ永見さんも私に続いた。
人通りのピークが過ぎた歓楽街は騒がしいものの、私たちは空気より重たい無言をそれぞれ抱えて歩いていた。


「名字さん」
「はい」
「ハンカチをお返ししたいんですが」
「ああ、はい」


手を差し出すと、永見さんは首を横に振って私をまっすぐ見据えた。
言葉を失っていると、泣いて赤くなった永見さんの目が夜の外気に当てられてより輝きを増した。


「洗って、アイロンを当ててお返しします。なので、また僕と会ってくれませんか」


愛しさに似たような痛みがゆっくり沸騰するように、私のみぞおちを蝕んだ。
ハンカチを人質にとられた私は、二拍置いて首を縦に振った。





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