人前で、ましてや好きな人の前で泣くなんて失態もいいところだ。しかし、その話に僕は涙を禁じ得なかった。



「すみません、お恥ずかしい」


名字さんから受け取ったハンカチは微かに香水のような華やかな寂しさが香って、鼻から胸を通った後愛しさに似た息苦しさを感じた。
見飽きてしまうほどに僕は毎日このハンカチを見つめたり触ったりして、傷だらけの彼女を癒す何かを模索していた。


「そのハンカチ、誰のですか?」


出番前に必ずこのハンカチを握って出るくせがついてしまって、その様子を初めて人に指摘された。
薄紅色の花がいじらしく咲いているこの可憐なハンカチが、男の僕の物ではないというのは通説としてそうだろう。
贈り物だとしてももっと違う柄を選ぶだろうし、彼女の目線からして女の影を探っているのは明らかだった。


「永見、出番」
「あ、うん。ごめん、行くね」


名字さんより少し小柄の女性スタッフは何か言いたげに僕の背中を見つめていたと、後であの様子を見ていた芸人から聞いた。


「モテる奴はええなあ」


何も良いことはない。
彼女とのメッセージは、あの日の夜から一度だって動いていない。
「またご連絡します」。
この一文に僕は角度を変え、マントル地点あたりまで深読みし、「また」の意味を何度も辞書でひいた。
また、はいつか来る。でもそのいつかって、いつ?






「えっ連絡してないんですか!?」


パソコンから目を離し、信じられない、と言うような顔で私を見た。いや、もうこれは実際に書いてあるな。
定時を10分過ぎたところで彼女は自分の仕事を終わらせ、私の机にチョコレートを何粒か置いた。


「ありがと」
「ありがと、じゃないですよっ」
「え?」
「それ食べて、事務所出る前に彼に連絡返すまでが今日の先生の仕事ですからね」
「……ええ?」
「絶対ですよ!」


私に迫り来る彼女は、「今日は仕事終わりに彼とデートなんです〜」、とハートをあちこちに落としながらルンルンで出勤していた。
それを知っていた私は親切心で「遅刻するよ」と時計を指しながら言ったが、今はそんなことどうだっていいんです!と鬼の形相で叫ばれた。
彼女は鞄からペットボトルを出し喉と頭を冷やした後一息ついて言った。


「素直にならないと、素直な子に盗られちゃいますよ」


去り際に言われた彼女の一言が妙に突き刺さって、チョコレートが喉を上手く通らなかった。
今日はいつもより仕事量が多かったせいか、糖分を摂っても頭が回らない。


「盗られるったって…… ねえ?」


彼は私のパートナーではないから、誰かと結ばれたって私がとやかく言う筋合いはないのだ。
私が言及できるのはハンカチを返してくださいと言うことくらいで、彼が決めた気持ちをどうこう言うなんて野蛮すぎるし、そもそも彼が私を好きだなんて決まったわけでは……



「あなたが好きです」


やわらかい午後に、海風に乗った彼の声ははっきりと私にそう言った。私の夢でなければ。
パソコンを落として、すっからかんの頭を抱えて目を閉じた。長いため息は、誰もいない事務所の壁を反射して私の耳にダイレクトに届く。そして、昔瀬戸に言われたこんな言葉を同時に思い出した。


「俺は同性愛者やけど、誰かを愛することができる。名前、お前は俺以上にきつい十字架を背負いすぎてる」


信じることを人一倍恐がる私に、瀬戸は悲しい目をしてそう言った。
男性が恐い。愛を受け渡して裏切られてしまったら恐い。愛のその先に見えるものが恐い。
私はもう傷つきたくない。
甘いチョコレートを食べても癒えないそれは、私の骨の奥まで滲みてじりじり痛んだ。






「うわっ!」


トイレの個室で思わず叫んでしまった。誰もいないことを望んだが、汚い芸人の野次が響いて肩を落とした。
それでも落とした時間は一瞬で、届いたメッセージを確認して胸が締め付けられた。


“明日の夜、いかがでしょうか。20時以降になってしまいますが”


名字さんからのメッセージはシンプルだったが血が通っていて、ゆっくり視界がぼやけた。
僕は迷うことなく彼女に返事をして、野次が止まない手洗い場へ向かった。人の詮索が趣味の彼らは僕にありとあらゆる方法でさっきの叫び声の理由を聞いてきたが、僕の心は凪すら立たず穏やかだった。
こんなところで、僕の鼓動を速めるのは勿体ない。


「ハンカチ」
「ん?」
「出番前のとちゃうな」
「あれは人から借りたやつやから」
「借りたやつ勝手にお守り代わりにしててええんか?」
「……明日、やっと返せそうやねん」
「そうか、良かったな」





私の傷は、私にしか治せない。





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